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優れた批評の条件とは……


先日、参考にさせていただいているある音楽愛好家の方の上岡 敏之に関するBlog記事を興味深く拝読したのだが、そこの記事を受けて、何人かの読者の方々がTwitter上で発信された意見を感心しながら読ませていただいた。
特に個人的に考えさせられたのが、「アンチ上岡 敏之」の「代表格」として音楽雑誌に記事を投稿している金子 建志に関する意見と分析だった。
個人的にも、金子の「批評」には長年大きな違和感を覚えていたのだが、その「つまらなさ」に関して、何人かの方々が鋭い洞察を示していて、思わず「なるほど」と頷いてしまった。
個人的には、少々極端な言い方をすれば、金子の文章は批評としての条件を満たしていない無味乾燥な論文の「できそこない」のようなものといえるのではないかと思っている。
音楽というものを総体としてとらえるのではなく、それを徹底的に要素分解して、それらの要素の処理の仕方が「理に適った」ものであるか否かを細々と評価していくのが金子の文章である。
端的に言えば、食卓に並べられた料理を眺めて、それをひとつの総体としてあじわうのではなく、それぞれの素材をとりだして、それらが「適切」に調理されているかを確認しているようなものである。
もちろん、そんな文章を読んでも、その演奏の魅力が読者に伝わってくることはない。
ここでは、主観(心)をもつたひとりの人間として、その音楽や料理がどのような反応を自己の中に生みだしたのかということについては全く語られない(もちろん、そうした「主観的なことは述べるべきではない」という信条そのものは主観的なものなので、そうした徹底的に外面的な態度の妥当性はひどく脆弱なわけだが、そこまでは思いが至らないのであろう……)。
表現者として自らに生得的に付与されている「一人称」の言葉をはじめから放棄しているわけだから、必然的にその表現は貧困なものになり、抑圧された素朴な主観的な心情は対象に対する攻撃性として表出することになる。
ある投稿者の方が指摘されていたように、金子 建志という執筆者を衝き動かしているエネルギーというのは、要素分解して説明できないものに対する「怨念」のようなものなのかもしれない。
そして、そうした怨念をもっとも刺激するのが上岡 敏之なのだろう。
いずれにしても、こうした「批評家」が重宝されている日本の「音楽界」というのは実に不思議なところだと思う……。
そこには、その演奏解釈が教科書的な意味で「正しい」ものであるのか、そうでないのかということを何よりも重視する価値観が根強く生きているということなのだろう……。
しかし、こうした態度というのは、少し離れたところから眺めると、何と自閉的なものなのだろうと思う。
優れた演奏芸術の本質とは、結局のところ、それが正しいものであることにあるのではなく、小難しいことなど何も知らない全くの素人が耳にして心を深く揺さぶるところにあるのではないだろうか……。
そうした問いを蔑ろにして、「学術的」な意味において、その演奏が「正しい」か否かという論点に逃げ込むのは、芸術の鑑賞者としての「逃げ」そのものであると思う。
客観的な資料を根拠にして評価や判断をしている限り、個としての告白をする責任からは逃れられるものである。
金子 建志という執筆者の「つまらなさ」は正にそうした姿勢にあると思うのである。