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「ティール」に関する対話

いわゆる「成人発達理論」において「ティール」といわれる段階の特徴に関して、この数日、その領域で活躍する仲間といろいろと議論をしていたのだが、その特徴のひとつとして、「文脈」(context)に関する精緻な認識を持つ傾向にあるということで意見が一致した。
たとえば、自身が何かに興味・関心を抱き、それについて思考や探求をしているときに、
「そもそも自分はなぜそれに興味や関心を抱いているのか?」
「そもそも自分にそうした話題に関して興味・関心を抱かせている社会的・時代的な背景はどこにあるのか?」
という風に自分自身の思考(意識)そのものを客観的に眺めることができるのである。
換言すれば、何等かの思想や理論に惹かれ、それを探求していこうとしている自分自身そのものを客観的に眺めて、それをひろい視野から眺めることができるということである。
人間は自由に思考をしていると思い込んでいるが、意外と時代や社会の影響に支配されているものである。
たとえば、今日、数多くの人々が「戦略的思考」や「論理的思考」に興味を抱き熱心に勉強をしているが、そもそもわれわれがそうした勉強に膨大な時間と精力を投じようと思うのは、この時代と社会に生まれ、そこで人格形成する中で「そうしたことについて勉強をするのは重要なことである」と訓えられてきたからである。
もしわれわれが全く異なる時代や社会や文明に生まれていれば、そもそもそんなものに興味や関心を抱くことさえないだろう。
思考とは、完全なる自由の中で営まれるものでなく、思考を成立させている世界観や価値観の枠組の圧倒的な影響の下で営まれるものである(経済学者のHerman Dalyがpreanalytic visionと呼んでいるものである)。
実際、「ティール」的な発想を習得した人達の言葉に耳を澄ませていると、人間が思考や探求をはじめる「前」の時点でその行為に影響をあたえ、その行為を半ば支配・呪縛している文脈的な要因に関して鋭く言及するので、聞いていて非常に面白いものだ。
そうした洞察は半ば必然的に自らの生きる時代や社会の本質そのものを批判的にとらえるマクロ的な分析にならざるをえないからである。
ある意味では、それはひとりの「思想家」や「哲学者」と話をしている感覚に似ているといえるかもしれない。
これはそのまま発達理論に関しても言えることで、こうした発想にもとづいて発達理論を勉強している人は、「そもそもこのような理論が社会的に注目され、また、自分自身もそれに興味を覚え、熱心に勉強をしているが、そもそもなぜ自分はこんなものにこれほどまでに夢中になっているのだろうか? また、関係者の間で半ば暗黙の裡に真実として共有されている価値観(例:“higher is better”)は、どのような時代的・社会的な価値観を反映しているのか? また、それを無批判に受容することをとおして、自分はどのような時代や社会の偏見を助長することになるのか?」というような問題意識を同時に維持できているものである。
これは非常に不思議な「在り方」で、表面的には人一倍の「熱意」をもって探求をしているようにみえるのだが、一方では、人一倍の「醒め」を持っている。
人間は特定の時代的・社会的な文脈の中で生きていかざるをえないが、また、そうした文脈を心理的に超越して、対象化して眺めることができる生き物でもある。
「慣習的段階」(conventional stage)を超えて成長していくということは、こうした内的な緊張を経験できるようになるということにほかならない。
そして、こうした内的な緊張こそが、「ティール」といわれる段階に関して長年にわたり探求を深めてきた実存主義心理学者達が強調するところでもあるのだ。
われわれが生きる現代社会の最大の問題は、「教育」の名の下に、既存の社会の文化や構造を所与の条件として思考することを人々に強要することにあることである。
即ち、社会の中で営まれる「ゲーム」に参加し、その中で「勝つ」ことを「正しい」価値観として刷り込み、そのための知識や技術を伝授することを「教育」の目的として設定してしまっているのである。
「現実的になる」というのは、その「ゲーム」を、虚構ではなく、不変のものとしてとらえるということであり、その意味では、たいへんな言葉の倒錯が起きているのだが、その「狂気」を「正気」としてひろく信じているというのが、われわれの社会の本質であろう。
発達理論がわれわれに呈示している諸々の洞察は――もしわれわれがそれを賢明に活用することができれば――こうした「倒錯」と「狂気」を克服するためのヒントとなるのではないだろうか……?
幸いなことに、日本に於いても、このところ多数の方々が成人発達理論に興味や関心を寄せはじめてくれている。
そして、そこには、「適応」することの「狂気」を薄々と感じとり、それを突破するための「道」を模索している方々も少なからずいると思う。
個人的にはそうした意識を応援していきたいと思っている。