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「発達理論」に求められる倫理性

 

「測る」という行為には本質的に倫理的な責任が伴うものである――発達心理学者達がとりわけ主張するのがこのことである。
測定をするとは、結局のところ、他者を対象として観察することであり、また、その結果を踏まえて、その人物に対して働きかけることである。
端的に言えば、その人物の人生に影響をあたえたり、介入をしたりする権利を得ることになるのである。
また、そもそも測定という行為そのものが、そこに上限関係を生み出すことである。
その関係性の中で、測定者は被測定者に対して上位に立つことになるのである。
そうした意味では、測定者としてのトレイニングは、倫理的な要素を含めた、総合的なトレイニングの要素として位置づけられるべきであり、それだけを取り出して勉強するのは、非常に危険なことなのである。
また、そもそも測定は「何のために測定するのか?」という問いとの格闘を常に要求するものでもある。
発達心理学者のZachary Steinは、その著書の中で、現代の教育に於いて、「テスト」といわれるものがいかに倒錯したものとなっているかについて多面的な解説を展開している。
また、その文脈の中で、いわゆる「IQ」というものに関しても、それを上げることを目的とするのは、そもそもそうした概念が構築され、また、それを測定するための方法が創出されたそもそもの目的を踏み外すものであると述べている。
端的に言えば、そうしたスコアの「高い」ことを「善し」として、人間を階層的に識別する発想は、実質的に優生学的な発想に道を開くことになりかねないのである(この問題に興味のある方は下記の書籍を御参照いただきたい:
War Against the Weak: Eugenics and America's Campaign to Create a Master Race by Edwin Black)。
そして、Steinは発達理論に関しても同じことが言えると警鐘を鳴らしている。
人間というものをそうしたモノサシにもとづいて測定して、そのスコアが高いほど「善い」のだという発想……、そして、個人や組織はその発達段階を上げるべきであるという発想……
こうした発想に対して、われわれはもう少し冷静であるべきであろう。
換言すれば、それほどまでに人間を対象化して、あらゆる能力を測定し、そして、その結果としてあきらかにされるスコアを少しでも「高い」ものにすることに熱中する社会というのは本質的に健全な社会なのか?――という問いを発するべきなのである。
Steinの著書には、“A nation's greatness is measured by how it treats its weakest members.”というマハトマ・ガンジーの言葉が紹介されている。
現代は「成長」したり、「発達」したり、「能力」を開発しつづけたりしないと、まるで生きる資格が無いように人々に思わせる社会だが、それがいかに倒錯したものであるのかを強烈に指摘するのが、この言葉であるとSteinは主張するのである。
真に病み傷つき、虐げられた人々は、「成長」や「発達」等という概念とは無縁のところで生きているものである。
また、そうした概念に無縁であっても、幸福に生きていけることこそが、その社会の成熟度を示すものなのである。
もちろん、非常に逆説的ではあるが、これは、こうした現代に蔓延する「成長・発達イデオロギー」の呪縛から自由になれるくらいに社会が「成熟」する必要があるということなので、必ずしも、「成長」や「発達」の価値そのものを否定しているわけではないと思う。
もし真に自律的に思考することができるのであれば、巷で受容されている「成長」や「発達」という言葉の定義に対して少しは批判的になるだろうし、また、そもそもこの世に人間が生を受けた根本的な理由とは、果たして「発達」や「成長」をすることなのか? という根源的な問いを自然と発するはずである。
少なくとも、「生活」や「成功」をするためには、「成長」や「発達」が必要であると発想する風潮を批判的に省察することができるだろう。
Steinをはじめとする発達心理学者が指摘するのは、そうした懐疑の精神が、この領域の研究者には求められるということなのである。
但し、少々逆説的かもしれないが、発達理論をまなぶということは、われわれの生きる社会に蔓延するこうした「成長」や「発達」を礼賛するイデオロギーに対して批判精神をもって対峙するための思想的・理論的な見識をもたらしてくれるものであるということはできるのではないだろうか……。
人間というものが、そうした単純なイデオロギーで都合よく扱えるものではないことを訓えてくれるからである。