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久しぶりの演奏会

7月2日@サントリーホール
新日本フィルハーモニー
指揮:下野 竜也

 

フィンジ:弦楽オーケストラのための前奏曲ヘ短調 op. 25 Finzi:Prelude for string orchestra, in F minor, op. 25
ヴォーン・ウィリアムズ:テューバ協奏曲ヘ短調* Vaughan Williams : Tuba Concerto in F minor*
ベートーヴェン:交響曲第 6 番ヘ長調 op. 68 「田園」 Beethoven: Symphony No. 6 in F major, op.68 “Pastorale”
https://www.njp.or.jp/concerts/8733

 

実に久しぶりの演奏会ということで、オーケストラのメンバーが舞台に登場するところから聴衆の熱い拍手が送られた。
演奏する方も聴く方もこの日を待ち望んでいたことが深く実感される。
演奏会はフィンジの小品からはじまったが、しみじみとした郷愁を感じさせる作品で、自然と数十年前の風景が思い出された。
しかし、ただ綺麗なだけでなく、コントラバスの低音が常に効いていて、そこはかとない悲劇性を湛えている。
オーケストレーションの妙だと思うが、このように悲劇的な想いを臆することなく率直に表現する作曲家に訓えられる気がする。
NJPの弦合奏も、この団体特有の輝かしく気品のある美しさを湛えており、その美音を浴びているだけでじんわりと泪が溢れてきた。
次のヴォーン・ウイリアムズの協奏曲は、テューバの不思議に魅力的な音色に魅了された。
楽器そのものがもつ「現代性」は、そこにどこか空虚さを湛えているが、それが不思議とおもしろい。
必ずしも深みのある作品ではないが、田園の風景を心象風景としながら、そこで営まれる人間の日常的な喜怒哀楽の息吹が実感される秀作である。
後半はベートーヴェンの「田園」。
正直なところ、下野 竜也の指揮にはいい意味での「雑然」としたところがなく、それがこの作品のスケールを小さくしてしまっているところがあるように感じた。
しばらくまえに、読売日本交響楽団の演奏会において、下野の指揮でグバイドゥリーナの作品を聴いたときには、その芸術的ともいえるバトン・テクニックには惚れ惚れとしたのだが、こうした古典に関しては、その卓越した技術が少々邪魔をしているように感じられるのである。
ただ、第2楽章以降は尻上りに良くなり、この日の演奏会の特殊性もあり、全体としてはやはり深い感動をあたえられた。
第2楽章では、まるで花園に足を踏み入れたような感覚に襲われるほどに、幻想的な音世界が創造され、聴いていて、極上のフランス音楽を聴いているような感覚に襲われた。
何十年もこの作品を聴いてきて、こうした美が息づいていたことをはじめて気づかされた思いである。
また、3楽章以降は、この作品が正にスピリットの眼をとおして、自然とそこで営まれる人間の暮らし愛の中に眺める作品であることを確信させるほどのものだった。
聴きながら、いつまでも演奏が続いてほしいと思ってしまった。
嵐の場面におけるティンパニの響きには痺れたし、また、末尾に僅かのあいだ奏でられるホルンの神々しい響きには、陶然としてしまった。
NJPの状態だが、全体が溶け合い、この団体の特質であるあの気品溢れる美音を奏でるところまでには至っていないが、今日の演奏会では、そんなことはどうでもよく、こうして音楽がこのホールで奏でられたことそのものに途轍もない意義がある。
終演後、いったん奏者全員が舞台から退いたあとも、客席の拍手は鳴り止まず、しばらくして指揮者の下野氏とコンサートマスターの豊嶋氏が再度舞台に登場して挨拶をした。
こういう光景を見て落泪しない者はいないだろう。

生の演奏が聴けることがいかに贅沢なことかということを演奏会の常連は忘れがちだが、結局のところ、感動とは、その人間が内に感じている飢餓感に支えられているものである。
飽食のために肥満しきった人間には料理の価値は解るはずもないのだ。
藝術を愛する者であれば、自身の内に「飢え」を維持するために、普段からいろいろと工夫をするものである。
同時に、もうひとつ思ったのは――これはどの団体にも言えることだが――演奏者の方々にはやはり「今日が最後の演奏会になるかもしれない」という想いをもって演奏をしてほしいということだ。
聴衆を前にして演奏する機会は、今日も明日もあると思うと、演奏行為は「仕事」になるし、また、舞台上の演奏者の姿もそうした意識を反映するものとなる(そういうものは、結構聴衆に伝わるものだ)。
定期会員の中には、苦しい生活の中で時間と資金を捻出して演奏会に脚を運んでいる人がたくさんいると思うが、そういう人達は「一期一会」の気持ちで会場に来ていると思う。
個人的には常にそういう真剣な聴衆の想いに応える演奏を期待している。
今日のような異常な事態下であれば、そうした演奏は自然とできるのかもしれないが、再び「日常」がもどってきたときに、果たしてわれわれはそうした精神的な緊張をともった演奏を聴くことができるのか……?、また、そうした演奏が可能となるような尊敬の眼差しを奏者に向けることができるのか……?
この演奏会からの帰路に着きながら、そんなことを思った。