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内省とは人格的な営み

 

今日、人材育成(HRD)の領域においてとりわけ注目を浴びているのが、「ひとびとが内省できるようにいかにして支援すればいいのか」という問題である。

 

311以降の治世者の発言が露呈させたように、今日の社会問題の核心には、組織や社会において、意思決定の権限をにぎる人物が、自己の信奉する価値や論理に呪縛され、それを批判的に超克することができないという個人の能力的な欠陥が横たわっている。

そのことは、たとえば安冨 歩氏が一連の著作をとおして指摘しているように(「東大話法批判」)、思考(学問)というものが、あらかじめ決定されている結論や前提を正当化するための、いわば自己肯定や自己補強の道具に貶められている今日の状況の中に露骨にあらわれている。

今日において、少なくもメインストリムの教育制度のなかで、勉強や研究をすることは、所与のものとしてあたえられた条件や文脈を半ば無条件に受容したうえで、それを追認するための論理や結論を生み出すことに過ぎないのである。

当然のことながら、そうした条件や文脈を共有する仲間内でどれほど「批判的」な対話や討議がなされたとしても、それは、窮極的には、そこで共有される世界観に関係者をますます呪縛することにしかならない。

そこには、内省の契機が機能しない閉鎖的な空間が成立するのである。

自己の世界観の正当性を主張するために利用される道具こそ異なるかもしれないが、それは、本質的には、絶対化された宗教的な世界観が社会を呪縛する原理主義的な社会とそれほど違わないのである。

原子力村の関係者の行動や発言があまりにも異様なものにみえるのは、正に彼等がそうした行動論理に呪縛されているからである。

どれほどの高度の知能指数を彼等がそなえているとしても、それをひたすらに自己を肯定・補強するためだけに用いようとするありかたは、人間として真に本質的なものを欠如させた病的なものにみえる。

心理学においては、内省能力は、人間の人格的な成熟の証と位置づけられるが、それを決定的に喪失しているようにみえる原子力村の関係者の行動は、そのあまりの人格的な未成熟さゆえに――その高学歴と相俟って――歪なものに見えるのである。

 

しばしば誤解されるようだが、内省ができるようになるとは、必ずしもこれまでよりも効果的・効率的、あるいは、合理的・戦略的に思考ができるようになることではない。

つまり、それは、あらたな「思考の枠組」や「思考の技術」を習得して、それを日々の課題や問題の解決に適用することができるようになるということではないのである。

むしろ、そうした枠組みを習得したり、活用したりしている自己の主体そのものを探求するということである。

それは、そもそも何を目的として、それらの枠組や技術を習得しようとしているのかという問題意識をもつことであり、また、そのような問題意識にもとづいて、自己そのものを問題として探求することができるようになるということである。

たとえば、「成功」を収めようと、自己を鍛錬しようとするときに、果たしてわれわれはそうした衝動が果たしていかなるものであるのかということについて、真剣に問いなおしをしているだろうか……?

それは、真に自己の貴重な人生を投じて追及するにあたいする成功であるのか?

また、それは、この世界と時代を共有する他者にとり、真に価値をもたらすことのできる成功であるのか?

人間にとり、ある目標を設定して、その実現に向けて邁進することは、実はそれほど難しいことではない。そこでは闘志と根性がありさえすればいいのである。

しかし、そうして設定された目標がそもそも実現されるべきものなのかという根本的な問いかけをするためには、知性と叡智が必要とされる。そして、内省とは、まさにそれらを必須の条件とする高度に人格的な営みなのである(原発村の関係者があまりにも異常に思えるのは、彼等が人格的な高さや深さを些かも感じさせないからである)。

 

今日、HRDの領域において関係者に求められているのは、単に最先端の技法や技術や枠組を紹介することだけではない。

とりわけ、優秀な人材は、そうしたものを主体的に収集したうえで、日々の業務活動の中で実践しているものである(そうしたものを習得するために、日常的に実践にとりくむことが、個人の責任の範疇にはいるということを われわれは百も承知している)

むしろ、今 真に必要とされているのは、実存主義心理学者のRollo Mayが言うように、自己というものが解決されるべき問題であることを認識させてくれる契機であり、それを提供することのできる教育者である。

そのためには、教育者本人が、自己のBeingを対象化して、それを探求することを日常的な実践として確立していることが必須の条件となるのである。

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