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「見る」ということについて

先日、シカゴに出張した折、業務の合間にArt Institute of Chicagoに出かけてきた。
Metraという二階建ての電車でUnion Stationまで行き、そこから10分程歩いたところにある大型美術館である。
日本には存在しない大規模の施設で、所蔵作品をじっくりと味わおうとすると、当然のことながら、1回の訪問では足りない。
時間が足りないだけでなく、集中力が続かないのである。
1日に吸収できる芸術作品の数には限りがあり、2時間程もすると、あきらかにこころが動かなくなることに気づく。
ただし、そうはいっても、その所蔵量に圧倒されるような美術館が国内に全く無いというのは何とも寂しいものだ(たとえば、先日、しばらくぶりに再開した東京都現代美術館に足を運んだのだが、展示作品のあまりの少なさにひどく落胆させられた)。

個人的には、今回、最も記憶に残ったのは印象派の所蔵作品の数々である。
優れた作品を眺めていると、そこには作者が経験したであろう風や熱が感じられる。
たとえば、真夏の中に描かれた作品の中には倦怠感や眩暈や疲労感が絵画の中に封じ込められている。
即ち、そのときの意識の状態が追体験できるのである。
そこにあるのは、対象物をいかに客観的に正確に描写するかということではなく、それを眺めている観察主体である自己そのものに意識を凝らし、その質感を作品の中に豊かに反映しようとする意図である。
視覚だけでなく、他の諸々の感覚器官をとおして人間は世界を経験をすることになる。
そして、それらの感覚が統合されて醸成される意識状態と不可分のものとして瞬間瞬間の経験が構成されることになる。
その意味では、「見る」という行為の中には常に他の感覚の存在が色濃く息づいているのである。
とりわけ、今回は触覚(肌感覚・体感覚)が視覚に及ぼす影響がいかに大きなものであるかということを痛感させられた。
真夏の海岸で岡の上から海を見渡しているとき、われわれの肌には海風があたり、また、強烈な陽の光のもと、われわれは微かな眩暈に襲われる。
そんな意識と身体の状態が作品を眺めているとありありと想像される。
「見る」という行為は常に生物的・心理的な存在をとおして行われるものであるということ――そのことをあらためて再認識させてくれた。

いっぽう、現代芸術(modern/contemporary art)に至ると、有名な作品が数多く展示されてはいるのだが、途端に展示作品の魅力が失せてしまい、完全に退屈させられてしまった。
帰国後に京都に出張した折に懇意にしている作曲家の知人と食事をしたときに、いわゆる「contemporary art」に関して議論をしたのだが、彼は興味深いことを語っていた。
「どれほど“難解”な語法を用いていたとしても、結局のところ、最も重要となるのは、その作品を創造したときに作家のこころが真に動いていたかどうかということなのです。」
確かにそのとおりだと思う。
そして、そうした評価基準に立脚すると、もしかしたら現代芸術は、全体的な傾向として、表現者が自己の意識そのものにたいする内省を極度に深めた結果、正に瞑想の実践者が経験するように、自己の内に生起する経験を十全に満喫することができない状態に陥っているのかもしれない……。
表現者が自己の「意識」や「認識」の仕組みそのものに着目して、それを徹底的に把握しようとすればするほど、そこに生まれる諸々の心の動きは対象化されてしまい、単なる現象としてしかとらえられなくなる。
彼等の関心は、むしろ、それらの現象を生起させている認識という「行為」のメカニズムを解明することに移行してしまうのである。
端的に言えば、芸術という枠組の中に留まりつつも、実質的には現象学的な探求をすることになってしまうのである。
もちろん、それは悪いことではない。
むしろ、絵画芸術の歴史的な進化の過程を表現者の内面そのものに焦点を移行させてきたプロセスとしてとらえるならば、それはむしろ当然のこととして理解することもできる。
しかし、それにしても……である。
このつまらなさは何なのだろう。
往々にして、作品に籠められている熱量があまりにも少なく、そのために作品としての存在感が決定的に希薄である。
また、多くの場合、そこにはとるにたらない作為性が表現されているだけで、「表現」の基礎にあるべき高度な技術性が欠如している。
確かに、あえて稚拙なものや醜悪なものを示すことで、芸術にたいする鑑賞者の期待や前提を揺さぶろうとするとする「表現」もありえるのだとは思うが、結局のところ、それは恐怖映画において突然暗闇から襲撃者が出てきてドキリとさせられるというような類のもので、瞬く間に飽きられてしまうものである。
正直なところ、そうした作品が真に芸術作品として成立しているようには思えないのである。

 

凄いブルックナーを聴いた

東京都交響楽団 第883回 定期演奏会Bシリーズ
日時:2019年7月25日(木)
場所:サントリーホール
指揮:アラン・ギルバート
曲目
モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 K.504 《プラハ》
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 WAB104 《ロマンティック》(ノヴァーク:1878/80年版)
https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3235

 

凄いブルックナーを聴いた。
昔のファンが過去の伝説的な演奏会のことを語ることがあるが、今日の演奏会は正にそういう域に達した演奏だったのではないだろうか……。
特に「哲学的」「宗教的」な演出を施しているわけではなく――むしろ、指揮者は音響の彫琢に意識を集中しているようにさえ思える――音楽そのものが瑞々しい恩寵を届けてくれる。
神聖な光を浴びて自然の中を逍遥しているような感覚に包まれると共にここぞというときに生み出される深い音響が畏怖と敬虔の念を心の中に生み出す。
交響曲第4番は5番以降の作品とくらべると内容的に少し落ちるといわれてきたが――また、個人的にもそのように思ってきたが――今日の演奏を聴いて、そうした考えをあらためさせられた。
第4楽章が突出して優れているのは周知のことだが、それに先行する諸楽章も実に奥深いものであることをはじめておしえられた気がする。
それにしても、東京都交響楽団の何という音楽性と献身性!!
あれほど巨大な音響を生み出しながら、一瞬も煩さを感じさせない。
常に響きが豊穣で、それに身を浸しているだけで、全身を喜びが駆け抜ける。
正に世界最高水準のアンサンブルだと思う。
作品の性格上、金管楽器群が壮麗な演奏を繰りひろげるのは当然のことだが、個人的には、それを下支えするあのティンパニの妙技に心底痺れた。
ブルックナーの交響曲には、それまでの音楽の流れを断つようにして、超越的なものが突然にその姿を立ちあらわす峻厳な瞬間があるが、ギルバートは、こうした瞬間の処理が絶妙である。
彼は、そうした立ち上がりを「点」として設定して、全演奏者に一気に渾身の音を出させるのではなく、それをある程度の長さの「間」としてとらえたうえで、そこを緻密に設計して、各楽器群が順番に音を出させているように思うのである。
そのためにオケが過剰に力むことなく余裕をもって音を生み出せるために全強奏の音響が豊穣なものとして聞こえてくるのだ。
また、音響的にも、そこには垂直に屹立する壁が瞬時に立ち上がるというよりも、ある程度の幅の裾野を持つ音響構造が立ち上がるのだ。
もうひとつ面白いと思ったのは、上記のような場面において音楽が垂直的な局面に雪崩れ込んだときに、そこに水平的なダイナミクスを巧みにいれこんでいることだ。
それは彼の指揮姿に明確に示されていて、「ここでそう振るのか!!」と驚かされることが何度もあった。
そうなると音楽のベクトルが縦の一方向に向かうだけでなく、そこに横のベクトルが加わり、厳しいストイシズムに溢れたものから恰幅のいいものになる。
また、こうした全方位的な音響構造の中にティンパニの渾身の強打が加わると音が実に豪華になる。
そして、それが少しも俗っぽくない。
ひと昔前であれば、このレベルのブルックナー演奏は世界的にも稀のものだったのだろうが、1990年代の「ブルックナー・ブーム」を経て、作品解釈をめぐる集合的な知識が劇的に高まり、こうした最高水準の演奏が成し遂げられるようになったことを痛感した。
それにしても、今日の聴衆が醸し出す雰囲気は素晴らしいものだった。
サントリー・ホールで開催される定期演奏会では、フライング・ブラボーにしばしば苛々させられることがあるので、内心ヒヤヒヤしながら音楽を聴くことが多いのだが、今日の聴衆の集中力は素晴らしく、こういう人達と一緒に音楽を聴けるのは大きな幸せである。
音楽の「うねり」と共に聴衆の心が逐一動くのが察知できるのだが、これは聴衆が音楽に真に耳を澄まして、それを心に素直に受け容れているからこそ生まれる現象である。
今日は、日本のオーケストラの実力の高さとそれを支える聴衆の良質さを思い知らされた。
日本の聴衆のブルックナーにたいする献身的な愛情と理解は真に世界に誇れるものだと思う。

ところで、今日、アラン・ギルバートの生演奏をはじめて聴いたのだが、得手不得手が非常にハッキリした人だと思った。
前半のモーツァルトの『プラハ』は全くの凡演で、ひたすら退屈してしまった。
著しくリズム感を欠いたもっさりとした音楽を聴いていると耐え難い倦怠感に襲われ、睡魔と闘うのに必死だった。
『プラハ』を聴いて退屈するとは!!
あまりの酷さに帰宅しようかと思ったほどなのだが、とりあえずインターコンチネンタルホテルのロビーを散歩して気持ちをとりなおして、再び客席に着いたという次第。
しかし、後半のブルックナーの凄いこと凄いこと!!
構成要素を多く内包した作品を料理するのを得意としている人なのだろう。
こうしたタイプの指揮者のブルックナーは、作品にあたらしい光をあたえてくれるはずである。

 

「発達は幸福を保証しない……」

インテグラル理論を紹介するときに、往々にして紹介者が忘れてしまうのが、“Atman Project”という概念である。
これはThe Atman Projectをはじめとする初期の著書の中でケン・ウィルバー(Ken Wilber)が膨大な頁数を割いて解説していた最も重要な概念のひとつで、インテグラル理論の立場から人間の発達について深く理解するうえで必須の洞察である。
同著の中ではウィルバーはアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)のThe Denial of Death(『死の拒絶』)の主張を参考にしながら、人間の発達というものが本質的には「自我」「自己」という虚構を構築して、それを維持しようとするプロセスであることを指摘している(尚、仏教学者のデヴィッド・ロイ(David Loy)はベッカーの洞察を仏教の文脈の中で発展させた非常に優れた論考を多数発表しているが、それらの一部は邦訳・出版されているので、是非参照していただきたい)。
即ち、発達というものは、死を宿命づけられた存在である人間が、その現実から逃避するために、物理的・心理的・精神的な「支え」を次々とこしらえるプロセスそのものであることを指摘しているのである。
その意味では、発達とは死にたいする防衛機能を高めていくプロセスなのである。
そのために、人間は発達を成し遂げれば成し遂げるほどに自己の死にたいする恐怖を深めていき、その脅威が襲い掛かるのを少しでも先延ばしするために、高度の知性を駆使して、様々な創意工夫を試みる(創造性の源には常に死の恐怖が息づいているのである)。
換言すれば、人間は、発達をすればするほど、自己の意識が抑圧する実存的な現実(自己の存在が死を内包しているという現実)と闘い、それを克服しようとする倒錯した営為に自己を投じていくよう宿命づけられているのである。
インテグラル理論の本質的な問題意識とは、この倒錯の輪に囚われた人間を救済するための方法を呈示することである。

ウィルバーの発達に関する見解をまとめれば、以下のようになるだろう:

人間は自己の実存的な現実を拒絶して、自己のありのままから逃避するために発展してきた。
そこには常に嘘がある。
そして、そのことを糊塗するために無数の悪行を積み重ねているのが人間なのである。
その意味では、人間存在は嘘と悪を深く包含しているのである。
確かに「発達」は、人間の創造性を喚起することで人間の尊厳を高めることに寄与するが、同時に人間の「嘘」や「悪」を深め、その破壊性を高めることにもなる。
たとえば、今日、人類は石や棒で殺し合いをしている時代には想像もしなかった破壊性を得て、この惑星そのものを殺傷できる力を獲得している。
発達というものは必ずしも人間を幸福にするものではなく、ある意味では、人間の悪を増幅することで、生きることの苦悩を深めることになるのである。

国内・国外を問わず、現在のインテグラル理論にたいする興味・関心は、「発達をすれば、仕事ができるようになるはずだ……」「発達をすれば、人生がたのしくなるはずだ……」等の「夢」に支えられている側面があるように思う。
実際、一部の理論家や研究者も「端的に言えば、発達をすれば仕事ができるようになるのです」と主張する者がいるのも事実である。
しかし、それは、大きな誤解を生む危険な紹介の仕方といえるのではないだろうか(極言すれば、それはもう「詐欺」に近いのではないか……)。
もし発達を遂げることが真に意味を持ち得るとすれば、それは、そうした夢物語から目醒めるための内省力をもたらしてくれるような発達を実現することであろう。
ウィルバーはそうした内省ができるようになるのは、前期Vision Logic段階(Early Systems Thinking)(いわゆるGreen〜Tealといわれる段階である)であると説明しているが、いっぽう、ロバート・キーガン(Robert Kegan)は代表作In Over Our Headsの中でそうした段階に到達してしまうと、人々は往々にしてそれまでの環境の中に意味や居場所を見出すことができなくなり(例:企業組織)、しばしば、終わることのない研究休暇にはいることを余儀なくされると述べている。
こうした段階はいわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stages)と形容され、それまでに外部の世界に放射されていた意識を自己の内面にひきもどし、みずからが死すべき存在であることを直視したうえで、あらためて意味を探求しはじめる段階といわれる。
死の瞬間にそれまでの人生をとおして構築・蓄積してきた達成が悉く失われてしまうのであれば、人生をとおして真にたいせつにすべきことは何なのか……?――といった問いが真に重要性を持つことになるのである。
そして、それは半ば不可避的に実存的な危機をもたらすことになるのである。
キーガンの同僚のSusanne Cook-Greuterはしばしば「発達をすることは幸福を保証するものではない」と述懐していたが、こうした「常識」が忘れ去られ空疎な夢物語が跋扈する状態がひろく蔓延するのは回避しなければならない。
それが夢物語に過ぎないことに人々は遅かれ早かれ気づくはずだからである。

 

「カキストクラシー」=「極悪人政治」

今日の政治について批判的に検討をするうえで、決定的に重要な条件が、今日の支配体制そのものがいわゆる「サイコパス」により支配されているという認識を持つことである。
即ち、今日の政治は、人類の最も極悪な人間により執り行われているという事実を認識することが必須の条件となるである。
この認識無しに、あれこれと議論をしていても、今日の社会の真実に接近することは絶対にできない。
専門用語では、こうした政治体制を「カキストクラシー」(Kakistocracy)と呼ぶそうで、日本語では「極悪人政治」・「悪徳政治」と翻訳されている。

University of Groningenの認知心理学者Tjeerd Andringaが、ジェイムズ・コーベット(James Corbett)と興味深い対話をしているが、その中でAndringaは、「権力構造・支配構造の中枢にいる人々の醜聞が公になるときになぜこれほどまでにひんぱんに人身売買や性的虐待に絡む話題が浮上するのか」という問題を正面から掘り下げている。Andringaは、そうした行為が権力構造を維持するために非常に重要な役割を担っていることを指摘している。

Andringaの分析を簡単に紹介しておきたい。

 

Pedophiles in Politics: An Open Source Investigation
https://www.corbettreport.com/pedophiles-in-politics-an-open-source-investigation/

 

 

極悪人政治下において、幼児虐待が頻繁に行われるのは、それなりの理由がある。
即ち、そうした政治体制下においては、幼児虐待がひとつの役割を担っているということなのである。
いうまでもなく、極悪人政治において権力を掌握するのはサイコパスといわれる人達であるが、そうした性質は必ずしも子孫に遺伝するとは限らないために、彼等は自身のこどもが自己と同等にサイコパス的な性質をそなえているとは限らないことに悩まされることになる。
このために、彼等は、自身のこどもを育成するだけでなく、社会からひろく人材を集めなければならなくなる。
そうした人材は――彼等と同じように――他者にたいする慈悲や共感をもたず、また、強烈な権力志向を有している必要がある。
また、そうした人材は――彼等と同じように――世界というものを深くひろく理解したうえで高い能力を発揮できる人材である必要がある。
普通は、世界というものを深くひろく理解することができれば、そこには知恵や叡智がもたらされ、社会にたいする責任感が生まれるものである。また、そこには謙虚さも生まれるであろう。
しかし、極悪人政治が必要としているのは、それとは真逆のものである。
それは世界というものを深くひろく理解する洞察力を必要とするが、それを品行方正さを装いながら、完全な無慈悲さをもって活用できる能力を必要とするのである。

そこで重要となるのが幼児虐待である。
虐待を受け、健全な精神を形成するために必要とされる安心感・信頼感を損なわれることで――そうした安全観は世界に意識を開き、ものごとを学習・発見しようとするための基盤となる――こどもは「反応性愛着障害」(attachment disorder)を患うことになる。
このように根源的な安心感・信頼感を破壊されることで、そのこどもにとって世界は可能性に溢れた場所から、危険性に溢れた場所に変化することになる。
そして、そうしたこどもたちは、自身を保護・庇護してくれる他者を探し求めるようになり、その過程で自己の自律性を放棄することになる。
また、こうした傾向は彼等のこどもにも継承されることになる(結果として、世代をこえて自律性の発達が阻害されることになる)。
貴族や僧侶達は、虐待されたこどもたちが便利な召使や奴隷になることに遥か昔に気づいていたのだろう。

こうしたことは、普通の倫理的な感覚を有している者には唾棄すべきものであるが、サイコパスにとっては、他者は道具に過ぎないのであるから、むしろ、理に適ったことなのである。

しかし、こうした仕組みだけでは、極悪人政治を維持するために必要なサイコパスを十分に確保することはできない。
品行方正な装いをまといながら、非常に高度な能力を完全に無慈悲に発揮するサイコパスが大量に必要なのである。
結局のところ、慈悲や共感や良心に煩わされず他者を道具のように搾取できるサイコパスの割合は人口の数%程である。
また、そうした人達の大多数はそれほどの悪人ではない。
確かに彼等は無慈悲であるかもしれない。むこうみずであるかもしれない。無神経であるかもしれない。
しかし、彼等は社会規範を遵守する方法をなんとか見出して生活をしている。
彼等は冒険家であったり、軍関係者であったり、救急医師であったり、車販売員であったり、不動産仲介家であったり、あるいは、ホワイト・カラーの犯罪者であったりする。
しかし、彼等のほとんどは、権力者が同胞とみなすような、高度の能力を有した人材ではない。

それでは、いかにしてそうした適性をそなえたサイコパスを継続的に集めることができるのだろうか?
しかも彼等は表立ってそれと宣伝することができないのである。

そこで再び重要となるのが幼児虐待である。
先ず彼等は野心と能力の溢れたひとたちを対象としたイベントを開催する。
そして、彼等は参加者達が徐々に品行方正さを脱ぎ棄てて、実は自身が徹底的に無慈悲であることを開示できるように御膳立てをしていく。
こうしたイベントこそが極悪人政治を維持するための理想的な採用会場なのである。
もちろん、恐喝(blackmail)は重要な役割を担うことにはなる。しかし、適確な候補者は喜んで恐喝される立場に自己を置くものだ。それにより、極悪人政治の深奥にはいれることを熟知しているからである。
彼等は、自身を恐喝の脅威に晒すことにより、自身が価値のある忠誠な構成員であることを証明するのであり、そして、そのことをとおして、それまでに夢にも思わなかったような権力にアクセスをすることができるようになるのである。
そして、自身の能力に相応しい待遇でシステムに受け容れられたことを実感できると彼等はこれほどまでに大きな「機会」をあたえてくれたシステムを維持するために貢献をしようとするのである。

これがエリート層に蔓延する児童虐待のネットワークを支えるダイナミクスである。
注意すべきは、それが決して一回限りのイベントではないということだ。
それは極悪人政治が自己を維持し活性化するための本質的な仕掛なのである。
それは正にその日常的な要素なのである。
今回のように、こうしたネットワークの存在が暴露される極稀な瞬間において、われわれは極悪人政治がいかに活動しているのかを覗き込むことができる。

 

 

以上がAndringaのコメントの翻訳である。
重要なことは、こうしたシステムにおいては、人並外れた野心と能力を有する者達を集め、潜在するサイコパス的な「素養」を徐々に開発するための仕掛が準備されており、それが世界的規模で維持・運営されているということである。
サイコパスに関する研究所を眺めると、サイコパスの特性として、人間の中に潜在するサイコパス的な特性を惹起ひきだし、そうした特性を発揮することが問題視されないような環境を自己の周囲に造ろうとする傾向があるということが述べられているが、正にそうしたメカニズムが堅牢に維持・運営されていることがAndringaとCorbettの会話の中で言及されている。
また、人間とは弱いもので、巨大な権力を獲得するために、自己の中に潜在するサイコパス的な特性を開花させる者はいつの時代にも無数にいるものである。
あえて犯罪的な行為に手を染めて、それを恐喝材料としてあいてにさしだすことをとおして、自己の忠実さを証明して、権力構造の中枢にはいる権利を獲得する――こうした取引をとおして、サイコパス的な素養を開花させた者達が緊密な支配構造を構築しているのである。

上品に掃除された政治理論は無数に存在して、それらが世界各地の教室で教授されているが――また、そうした理論にもとづいた熱心な議論が論壇で闘わされているが――少し醒めて眺めてみれば、実際の政治においては、そんなものが全く無意味であることは自明である。
Harvard Medical Schoolの心理学者Martha Stoutは、サイコパスというものを理解するうえで最もむずしいのは、一般の人々にとり、それが正に想像を絶するものであるからだと述べている。
サイコパスの感性があまりにも自身と異なるものであるがゆえに、そんな人間が存在するはずはないと錯覚してしまうのである。
正にこの錯覚を超克することなしには人類社会が健全になることはないのである。

 

上岡 敏之&新日本フィルハーモニーのラヴェル!!

#608 トパーズ
日時:2019年07月19日
場所:すみだトリフォニーホール

 

プログラム
ビゼー:交響曲 ハ長調
サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番 ト短調 op. 22
ラヴェル:『マ・メール・ロワ』組曲
ラヴェル:『ダフニスとクロエ』第2組曲

 

指揮:上岡 敏之
ピアノ:マリアム・バタシヴィリ(Mariam Batsashvili)

 

https://www.njp.or.jp/concerts/4137

 

上岡 敏之&新日本フィルハーモニー(NJP)@墨田トリフォニー。
しばらくまえにこのコンビでラヴェルのピアノ協奏曲を聴いたときに、彼等のフランス・プログラムは絶品となるだろうと予想したのだが、期待に違わぬ絶美の演奏が展開された。
はじめのビゼーの交響曲のような内容の無い作品でさえ、このコンビが演奏すると、そこはかとないあじわいが出てきて、楽しく聴くことができる。
また、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番は――先日サントリー・ホールで第4番を聴いたばかりだが――この作品の価値に気づかせてくれるほどの素晴らしいもので、特に第1楽章は傑作であることを実感させてくれた。
ソリストのマリアム・バタシヴィリ(Mariam Batsashvili)のピアノは、冒頭の数秒のソロで聴衆の心を鷲掴みにして、内容的には著しく落ちる第2〜3楽章も含めて、最後までわれわれを魅惑してくれた。
後半はラヴェルの『マ・メール・ロワ』と『ダフニスとクロエ』第2組曲で、この作曲家の魔術的な音楽が会場を包み込んだ。
数年前にロンドンで聴いたサイモン・ラトル&ロンドン交響楽団の演奏は、非常に筋肉質なラヴェルで、極上の美音の背後に常に鍛え上げた筋肉が駆動しているように感じられたものだが、それとくらべると、上岡 & NJPのラヴェルは、同じように極上の美音が響いていても、それがあたかも淡い色彩を湛えた霧のように、空間に漂いはかなく消えていく。
ラヴェルの音楽というのは正にこういうものなのだろう……と納得させてくれる。
『マ・メール・ロワ』の最後に訪れるあの胸の奥から静かにこみあげてくる至福感に全身を優しく包み込まれることの幸せは言葉に尽くせないし、また、会場全体を幻想的な空間に変質させてしまう『ダフニスとクロエ』の音の魔法に触れると、聴衆の意識は正に変性意識状態に陥ってしまう。
これほどまでに魅惑的なラヴェルは世界中を見渡してもあまり無いのではないだろうか……。
但し、いっぽうこのコンビであれば、今日の演奏を遥かに凌ぐ圧倒的な美音に彩られたラヴェルを演奏できるはずだ……と思ったのも事実である。
NJPにしては音の充実感がいまひとつと感じさせるところがあり、その美音そのもので聴衆を完全に悩殺するというレベルにまでは至っていなかったと思う。
いずれにしても、このコンビはもっともっと頻繁にラヴェルの作品をとりあげてしかるべきである。
そうすれば、それほどの時間を経ずに世界的にも最高水準の演奏が実現されるのではないだろうか……。

今日はこのコンビの今期の最後の演奏会ということもあり、個人的にも、舞台の上で聴衆の熱い拍手にこたえる演奏家達を眺めながら、深い感慨に打たれ、自然と涙が流れてきた。
それは上岡 敏之という音楽家がこの極東の地でこころみている実験を貫く志の高さにたいする畏怖と尊敬の念に発する感情といえるだろうか……
個人的には、上岡の唯一無二の感性をとおして開示される西洋音楽の秘儀にこうして触れることにたいして感謝の想いしかないのである。

 

演奏会雑感

東京都交響楽団 第880回 定期演奏会
日時:2019年6月25日
場所:サントリーホール
〜作曲家ペンデレツキによる自作自演〜
https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3232

 

サントリーホールでクシシュトフ・ペンデレツキ&東京都交響楽団の演奏を聴いた。
今期、東京都交響楽団の定期会員券を購入した大きな理由のひとつが、この演奏会だった。
今から15年程前にペンデレツキの交響曲を店頭で耳にして、その魅力に憑りつかれて以来、いつか生で聴きたいと願っていたのだが、今回、バイオリン協奏曲を生で聴けたことがとても嬉しい。
庄司 紗矢香のソロも絶品で、この40分に及ぶ救いの無い音楽に身を浸すことができた。
庄司の演奏を生で聴くのは初めてだが、何よりも共感したのは、聴衆の喝采をもらうために演奏をしようという姿勢が全く感じられないことだ。
それよりもたいせつなことに意識を向けていることが、その演奏姿からヒシヒシと伝わってくるのだ。
それは、簡単に言えば、作品の本質に迫ることを最優先する姿勢といえるだろうか……。
結局、聴衆の反応というものがそれほどあてになるものではないことを理解しているのだろう。
そんなものよりも重要なことがあるということを理解しているのだろう。
実際、耳の肥えた聴衆は、単に興奮させてくれたり、熱狂させてくれたりする演奏を求めているのではなく、その表現の奥深さや崇高さに畏怖の念を抱かせてくれるような圧倒的な高みを湛えた演奏と出会えることを期待している。
その意味では、庄司の表現者としての在り方は正にそうした聴衆が求めるものだと思う。
後半のベートーヴェンも実にコクがある内容のギッシリ詰まった演奏だった。
ペンデレツキの指揮振りは実に素人臭いもので、実質的に都響に全面的に下駄を預けていたようにも思えたが、しかし、実際に生みだされた音は実に充実したものだった。
オーケストラのアンサンブルの強靭さも特筆すべきもので、全ての声部が常に充実して鳴り響く様に圧倒されたが、この作品を聴いて、これほどまでに凄まじい音塊を体に浴びたのは初めてのことだ。
あの片腕をほとんど同じように振るだけの指揮者の動作から演奏者が何を受けとめていたのかは検討がつかないが――何となく映像で見たマタチッチの指揮を思い出した――その「不器用」で恣意性の無い指揮からあれほどまでに感動的な音楽が生まれてくるのは何とも不思議である。
こういう演奏を聴くと、「指揮技術」を云々することの無意味さを痛感させられる。

ところで、ペンデレツキのバイオリン協奏曲だが、これは「20世紀のファシズムの記憶」の音楽などではなく、21世紀の社会のありのままの本質に霊感を得た作品である。
実際、作品を聴きながら、現代人の内面に恒常的に流れる――たとえそれが意識の閾値下にあるものだとしても――絶望感と無力感を素朴に表現しているものであることは、少し敏感な聴衆であれば、容易に察知できるだろう。
それは人間が物化され、巨大なシステムの中で資源として消費されていく狂気の世界において、その途轍もない暴力に声を上げて抗い、そして、その奔流に押し流されていく人間に襲い掛かる宿命を描いたものである。
ある意味では、ルドルフ・シュタイナーが言う「アーリマン」に支配された世界の中で高貴な人間の精神が発する悲しみと喘ぎを音楽にした作品だと思う。

 

新日本フィルハーモニー管弦楽団
#607 ジェイド
日時:2019年7月4日
場所:サントリーホール
https://www.njp.or.jp/concerts/4156

 

ブラームスの傑出した合唱曲を3つ並べた重量級プログラムで、この作曲家のファンが数多く会場に集まっていることが会場の雰囲気に触れると肌で感じられた。
また、栗友会合唱団の合唱も格別に素晴らしいもので、新日本フィルの上質な響きに支えられて鳴り響くその清聴な歌声は極上のものだった。
但し、指揮者のベルトラン・ド・ビリーは、こうした演奏者の素晴らしさを台無しにする無内容なもので、その無味無臭の解釈は、「ドイツ・レクイエム」のような傑作をもムード音楽のように響かせるものだった。
感覚としては、清涼飲料のそれを想起させるもので、まるでツルツルとした表面の上をスイスイと滑っていくよう。
音響的には極上だが、この作品に籠められた「意味」を感じさせてくれる瞬間がまるで無く、1時間以上の演奏時間中少しも心を揺さぶられることがなかった。
確かに、この作曲家の合唱作品の魅力は、今回のように、純度の高い清冽な響きをとおしてこそ開示されると思うが、これほどまでに空疎ではどうにもならない。
どんな演奏会を聴いても、ほんの少しは感動を覚えるものだが、これほどまでの無感動をあじわうのはほんとうに珍しいことだ。
舞台上のその存在感に全くオーラが無いことも気になった。「情念に曇らされないブラームス」といえば格好はいいが、わたしには単に深みを欠いた演奏でしかない。

 

国立音楽大学ブラスオルケスター 第60回定期演奏会
日時:2019年7月10日
場所:東京オペラ・シティ
https://www.kunitachi.ac.jp/event/concert/college/20190710_01.html

 

何といっても最後のバーンズの『パガニーニの主題による幻想変奏曲』に魅了された。
流石に吹奏楽の表現の可能性を知り尽くした作曲家によるもので、この日とりあげられた他の作品を圧倒していた。
正直なところ、「なぜあえて吹奏楽で演奏する必要があるのだろう?」と思わせられる作品もあり、前半は少々当惑したのだが、演奏者も尻上がりに調子を上げていき、後半はチャイコフスキーも含めて非常に充実していた。
また、随所の個人技もレベルが高く、特にバーンズの作品ではその魅力を完璧に聴衆に届けてくれた。
フランソワ・ブーランジェの指揮は基本に忠実なもので、それほど特徴のあるものではないが、若い演奏者達の力をストレイトに引き出していたように思う。
静かな喜びをあたえてくれるいい演奏会だった。

 

読売日本交響楽団 第590回定期演奏会
日時:2019年7月11日
場所:サントリーホール
https://yomikyo.or.jp/concert/2018/10/590-1.php

 

ヘンリク・ナナシという指揮者の演奏は初めて聴いたが、それなりにあじのある解釈をする音楽家という印象をあたえられた。
同郷の作曲家であるコダーイの『ガランタ舞曲』でも、全体的に整理整頓された演奏運びをしながらも、聴衆が期待する郷愁を演奏の中にしっかりと息づかせてくれる。
個人的にはもっともっと濃厚なあじつけを求めたいところだが、少なくとも、作品の魅力は十分に満喫させてくれる。
ところで、この日の最大の驚きは、リュカ・ドゥバルグをソリストに迎えて演奏されたサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番だった。
何の期待もなしに聴きはじめたのだが、この作品がこれほどまでの魅力を秘めた作品であるとは想像もしなかった。
口ずさめるような旋律があるわけではないが、湖面を揺蕩うように美しい旋律が煌めいては消えていくその旋律に波に身を浸していると、徐々に全身が浮遊しているかのような感覚にとらわれる。
情念に深く沈潜することなく、また、深い思想や哲学を籠めているわけでもないのだが、それでいて意識の襞に優しく浸み込んでくる不思議な魅力を湛えた音楽である。
後半はバルトークの『管弦楽のための協奏曲』だが、この作品を聴くと、来るべき時代にたいする恐怖の叫びが聞こえてくる。
人間が機械に押し潰され、そして、人々は絢爛とした社会の狂騒に捕らえられ正気を失っていく……――そんな様が天才作曲家の筆で描きだされていく。
最後の盛り上がりは、狂気を歓喜と錯覚してしまい、もはやそのことも認識できなくなった「精神」のあられもない姿を見せつけられるようだ。
それは、たとえばショスタコーヴィチが交響曲第8番の最後にどれほど生々しい悲劇の記憶でさえ易々と忘却し、その「忘却」を癒しと錯覚してしまう人間の性を嘆いたのと同じ心を聞くような気がする。
但し、これはあくまでも勝手な想像ではあるが、ショスタコーヴィチが大衆を冷徹に見詰めていたのにたいして、バルトークは、そんな大衆の心情を自己の中に見出して、みずからも時代の享楽の中に身を投じてしまいたくなる誘惑に駆られていたようにも思えるのである。
この日の演奏は全体としては「可もなく不可もなく」という印象だが、第3楽章(悲歌)は作品に籠められた慟哭を実に見事に表現していて、思わず身を乗り出してしまった。

 

『インテグラル理論』出版に寄せて

先日、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の“Theory of Everything”が大幅な改翻訳のうえ、『インテグラル理論』として日本能率協会マネジメントセンターより出版された。

 


https://pub.jmam.co.jp/book/b454124.html

 

先日、本書を担当された編集者の方と御会いしたときに御聞きしたところでは、売り上げも順調ということで、何よりである。
2005年代初頭に、ウィルバーの思想やロバート・キーガン(Robert Kegan)等の発達理論を紹介しようとしたときには、極々少数の人を除いて、全く受け容れられなかったが、この15年程のあいだに市場の状況が確実に変化したということなのだろう。
欧米でウィルバーの思想にたいする関心が高まったのは、
Sex, Ecology, Spiritualityが出版された1995年頃のことだが、それとは異なる形態であるとはいえ、こういう類の思想にたいする興味・関心が日本でもある程度の醸成されてきているのである。
これは素朴に非常に嬉しいことである。
今回の再翻訳にさいしては少しだけ支援をさせていただいたこともあり、翻訳者の門林さんと監修者の加藤さんだけでなく、担当編集者の方とも意見交換をさせていただのだが、共通した認識は、まだそれほど顕著なものとはいえないが、社会の中にこうした思想にたいする感受性が芽吹きはじめているということである。
端的に言えば、いわゆる「合理性段階」(“Orange”)の枠組を脱出して、それとは質的に異なるものを希求しようとする欲求が集合規模で芽生えはじめているのである。
もちろん、そうした欲求は、基本的には、Orange的な価値観・世界観の中で設定された目的・目標を実現するために(例:経済的な成長)役に立つ「知識」や「情報」を得ようとするactionとして発露するわけだが、少なくともそこには自己の生きる文脈の中には存在しない質的に異なる世界を垣間見させてくれるものにたいする「予感」が息づいているのであり、それを次の段階にいかにつなげていくのかということが重要になる。
即ち、質的に異なる世界にたいする憧憬を、それに関する知識・情報に触れることをとおして、心の中に映像として思い描いたあとに、それを実現するための具体的な実践に定着させる必要があるのである。
実際、編集者の御話しでは、読者の中には、単に書籍を読了するところで終わりにするのではなく、その次の段階に進むための道を模索している方々が多数いるというということなので、正に読者層の中に合理性段階を特徴づける「責任能力」(agency)がひろく定着しているということなのだろう(こうした条件が整っていないと、知識や情報は熱心に消費されるだけで終わってしまう)。

いっぽう、今後のインテグラル思想に関する理解を深めていくうえで、読者が注意をしなければならないのは、そこで言われているのは、そこで示されていることが本質的に変容(transformation)を不可欠の要素とするものであるということだ。
現在設定している目的・目標を実現・達成するためにあたらしい知識や情報を収集して工夫を重ねることが合理性段階の行動論理であるとするならば(single-loop learning)、前期システム思考(“Green”)、及び、後期システム思考(“Teal”)段階に意識を深めていくことは、とりもなおさず、現在、心の中に描いている目的・目標そのものを再検討する思考を獲得するということである(double-loop learning・triple-loop learning)。
それは、そうした目的・目標を設定した自己の思考や発想そのものに疑問を投げかけることであり、また、目的・目標を設定してそれに向けて効果的・効率的に努力をしていくという合理的な精神そのものに批判的になれるということである。
即ち、現代社会において「生産的」であるための条件としてひろく推奨される行動論理そのものが実は特定の時代的・社会的な文脈の中で真実として信奉されている「虚構」に過ぎないことに気づくことができるようになるのである。
深い内省を恒常的に行いながら、自己の思考や行動の背後に存在する「前提」や「物語」や「枠組」を問う姿勢こそは、正に自己変容型のものといえるが、当然のことながら、それは生活にたしかな方向性をあたえてくれた基盤を積極的に崩そうとする「破壊性」を内包したものであるために、往々にして、精神的な危機を伴うことになる。
システム思考段階(“Green”〜“Teal”)が実存的段階と形容される所以は正にここにあるのである。
また、こうした段階について研究を重ねたエイブラハム・マズロー(Abraham Maslow)は、こうした意識を自己実現欲求に支えられた段階と説明しているが、ここで注意すべきは、そこでいう「自己実現」とは、同時代に流布している価値観・世界観を前提として、その枠組の中で設定した目的・目標ではなく、そうした時代的な呪縛をこえるための拠所を自己の存在の内に求め探求した末に「発見」された価値や構想や直感を実現化しようとする営みであるということだ。
また、こうした自己探求に長期的にとりくんだ者であれば認識しているように、そうした価値や構想や直感は実は当事者が自由に選べるものではなく、往々にして、「宿命」のように自己の存在に刻印されているものなのである。
「自己実現」という言葉で意味されているのは、実は「世界」や「宇宙」が自己の存在の中に既に付与しているものを受容して、それに声をあたえることなのである。
それは合理性段階の目的や目標の設定とは大きく異なり、「この時代や社会の中でどのように評価されるのか」「この時代や社会の中でどのような利益をもたらすのか」等の「実利的」な関心を脇に置いて、自己の宿命を生きることを決意するということである(実際、それは同時代に生きる人々が真実として信奉する価値や物語に反旗を翻すことを当事者に強いることになる)。
正に「自己実現とは自己中心性が小さくなることである」というウィルバーの至言が示唆するように、それは自己の実存的条件の前に首を下げることなのである。
正にそうであるから、自己実現は危険を伴うのであり、それゆえにマズローは「自己実現段階に到達している人達は、しばしば、周囲の攻撃の対象にならないように注意をして慎重に振る舞う術を有している」という旨の発言をしているのである。

こうしたことをみるだけでも、実際にシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を獲得することが――それに関する知識や情報を得るだけではなく――いかに難易度の高いものであるかということが窺い知れるだろう。
但し、ここで思い出すべきは、個人の意識が発達段階的な変容をひとつ実現するために、たとえどれほどの好条件が整ったとしても、少なくとも5年程の時間が必要となるというキーガンの発言である。
また、ウィルバーはその著作の中で人類が歴史的に経験した意識の進化の過程について俯瞰的な解説をこころみているが、高次の意識が集合規模で共有されるようになるためには数世紀という時間が必要となるものである。
たとえば、もし人類がシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することができるとすれば――もしそれだけの時間が残されていればということだが――それは数百年後のことだろう。
今日の人類社会は、表面的には合理性の衣を纏ってはいるが、その本質は極々少数の特権階級が地球の富の大半を簒奪・占有する「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理の支配下で営まれているというものである。
そうした状況を的確に理解することなく、“Green”〜“Teal”の確立をめざしても、それはあまりにも夢想的な発想といえる。
それは知的遊戯としては面白いものかもしれないが、所詮はそれだけのものでしかない。

われわれが必要としているのは、システム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することではない。
もちろん、個人的にそうした意識を自己の内に涵養するための「努力」や「修行」を積むことは奨励されるべきではあるが、
同時代の社会構造が整わない中でそうしたとりくみに励むことは、他者との疎外と苦悩を生むことになり、生きることそのものを苦行に転じてしまう危険性を内包していることを心すべきであろう。
また、そうした意識をとおしてとらえた自己の真実を日常の社会生活の中で実践しようとしても、ほとんどの場合において、それは徒労に終わることになるだろう。
むしろ、われわれが必要としているのは、「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理に支配された今日の社会の中に少しでも合理的段階の精神を注入することであり、また、同時に、「フラットランド」(“flatland”)の影響下で極度に病理化をした「合理性段階」(Orange)の中に「前期システム思考段階」(Green)の知識や情報を導入することで、その治療にとりくむことである。
こうした「発達理論」にもとづいた理論に触れると、初心者は短絡的に構造的な変化を実現しようと思い込んでしまうものだが、それは社会や組織というものを操作可能な対象として単純化して見做してしまう発想にもとづいていることに注意をすべきであろう。
構造的な変容はあくまでも最終的な手段であり、そこに至るまでに、われわれは、高次の段階の発想を知識や情報として導入する等、実にたくさんのことができるのである。

 

『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』翻訳者解説

先日、ケン・ウィルバーのTheory of Everythingが再翻訳され、『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』(日本能率協会マネジメントセンター)のタイトルで近々出版されることをおしらせしたが、本日、翻訳者の門林 奨さんの紹介文をIntegral JapanのHPに掲載したので、こちらについても紹介しておきたい。

 

http://integraljapan.net/index.htm

 

新日本フィルハーモニー第606回定期演奏会を聴いて

新日本フィルハーモニー(NJP)の第606回定期演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。今日の指揮者はフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)。

 


まず、今日のメインとして置かれたシューマンの交響曲第2番に関して。
聴きながら思ったのは、「もしこの作品がロベルト・シューマンという有名作曲家のものでなかったとしたら、これほどまでに長くにわたり聴きつづけられたのだろうか……?」という素朴な疑問だ。
少なくとも第1・2楽章は全く凡庸な音楽だと思う。
確かに第3・4楽章は聴くに耐える出来ではあるが、古今東西の無数の名曲の中から、あえてこの作品を演奏会のメインとしてとりあげるほどの価値があるとは信じられないのである。
個人的に特に気になるのは、作品の中に包含される感情の揺れ幅が非常に「狭い」ということだ。
音だけを聞くと、そこには大きな高揚があるように思われるが、それらの音を書いている作曲者の心が真にそうした起伏を感じているとは到底思えないのである。
そこには「嘘くさい」雰囲気が常につきまとうのである。
また、そうした「齟齬」にたいする作曲者の苦しい葛藤があるかというと、必ずしもそういうわけでもない。
感情のダイナミズムを喪失した状態で書かれたこの作品は、表面的には交響曲の作曲作法に則っており、形式的には起伏のあるドラマが描かれているようにみえるが、どうしてもそれらは作曲者の内的な真実と乖離したところで作りあげられた嘘に思えてしまうのである。
あえていえば、第3楽章の深い悲しみに作曲者の本音が垣間見えるくらいである。
もしかしたら、こうした作品の「歪さ」が高く評価されているところなのかもしれないが、それはあくまでも作曲当時の作曲者の精神状態を知識として仕入れていればこそあじわえる愉しみ方であり、窮極的には作品そのものの力ではない。
単なる知的な愉しみでしかないのである。
今宵のNJPの演奏は最上のものだったと思うが、こうした作品そのものにたいする違和感は払拭できず――また、こうした作品を名曲と信じ込まされて聞かされていることにたいする居心地の悪さもあり――ほとんど感動をあじわうことはできなかった。
真に優れた古典音楽というのは、普段こうした音楽を聴かない聴衆をも圧倒するようなものでなければならないと思うのだが、そうした意味では、作品の力が弱過ぎる。

これにくらべると、前半の二曲は上々の出来だと思った。
はじめの序曲「フィンガルの洞窟」を耳にしてまず印象的だったのは、ヘレヴェッヘが指揮をすると、NJPが実に古雅なあじわいを湛えた音を紡ぐこと。
それでいて、上岡体制のもとで育んだ繊細な感性があらゆるところに瑞々しく息づいている。
古い西欧の風景画を眺めていると――実際に自分の目で見たわけでもないのに――額縁の中に収められた「失われた過去」にたいする淡い郷愁を覚えるものだが、今日の演奏を聴きながら、それと似た想いが心に去来した。
メンデルスゾーンは必ずしも普段積極的に聴きたいと思う作曲家ではないのだが、この作品は「詩情」という言葉のほんとうの意味をおしえてくれるような逸品であることにあらためて気づかされた。
次のシューマンのピアノ協奏曲は、ソリストに仲道 郁代を迎えての演奏で、特に第1楽章が絶品だった。
ゆったりと間をとり、たいせつなところで弱音を奏で聴衆を魅了していく。
また、仲道の奏でる音には常に優しさと温かさが息づいている。
こうした響きがこのピアニストの何よりの魅力だと思う。
あえていえば、それは幼子に子守唄を歌う母親の姿に宿る愛のようなものを想起させる。
また、仲道の演奏を聴きながら思ったのは、演奏者の音には実にその人柄が滲み出るものだなあ……ということだ。
彼女のインタビュー動画等を観ると、美貌と才能をあたえられていることにくわえ、経済的な豊かさ等も含めて、様々な意味で恵まれた人であることが推察されるが、そのように祝福されて生まれていることが、実に素直な幸福感として音に託されているように思われる。
確かに、芸術には苦悩や寂寥のようなものも必要だと思うが、しかし、そうしたもので勝負するのではなく、むしろ、この世に生きる極少数の人達だけが享受することのできる屈託のない祝福を音に託して届けてくれる演奏家がいてもいいと思う。
この作品は正に作曲者が愛する者にその想いを告白するようなひたむきさに溢れた作品だが、仲道の奏でる美音には、ときには寂しさが、また、ときには喜びが過度な刺激を伴わずに息づいていた。
第3楽章はさらなる強靭な躍動感がほしいところだが、全体としてはとても素敵な演奏だったと思う。
実際、第1楽章では、シューマンのあまりにもひたむきな想いに心を動かされ、思わず落泪してしまった(周りの聴衆の方々もハンカチで目をぬぐっていた)。

告知:ケン・ウィルバーのTheory of Everything 再出版のおしらせ

6月中にケン・ウィルバー(Ken Wilber)のTheory of Everythingが再出版されることになりました。

 

『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』
(ケン・ウィルバー著, 加藤洋平 監訳, 門林奨 訳)
(日本能率協会マネジメントセンター)

 

https://pub.jmam.co.jp/book/b454124.html

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4820727346

 

後日、翻訳者の門林さんに執筆いただいた紹介文をIntegral JapanのHPに掲載します。