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表現意欲の欠如


11月21日
第60回 東京藝術大学シンフォニー・オーケストラ 定期演奏会 @ 奏楽堂
ベートーヴェン:三重協奏曲
ベルリオーズ:幻想交響曲
指揮:迫昭 嘉

いつものことながら、東京藝術大学の在学生のレベルの高さに感心させられる。
技術的に優秀であるだけでなく、他の音楽大学の演奏にはないどくじの品格の高さがある。
前半のベートーヴェンの三重協奏曲では伴奏の響きの充実度に驚かされたし、また、後半のベルリオーズの幻想交響曲では、冒頭の弦合奏の清澄な響きを耳にしたときには、この作品がまぎれもなく若い青年のいじらしい音楽であることを思いださせてくれた。また、交響曲の後半では、どれほど大きな音響が鳴り響いても、音楽を構成する要素が磨り潰されることなく、明確な輪郭を維持して響いてくる。その見通しの良さに感服した。

但し、「三重協奏曲」は、この作曲家としては内容的に乏しい作品であることはあきらかで、3人のソリストの部分も比較的に大人しく書かれているために、われわれが協奏曲に期待するような丁々発止としたオーケストラとのやりとりを聞くこともできない。また、3人のソリストもいわゆる「攻め」の演奏をする人達ではないので、古典的な拡張は維持されているのだが、そうした作品の弱点を補うものではなかった。

「幻想交響曲」に関しては、個人的には、特に中間の第3楽章が難しいと思っている。ここを面白く聴かせることができないと、演奏全体が弛緩してしまう。そこは指揮者の腕の魅せどころである。
そうした意味では、今日の演奏の課題は、正にここにあったと思う。指揮者の迫氏は、正攻法の解釈をする人だが、これだけ狂気を秘めた作品でありながら、臨界を超えたところに演奏者を誘おうとする表現意欲が乏しく、聴いていて、迫氏がこの作品をとおして果たして何を表現したいのかということが伝わらずに終わった。

先日のブラームスの交響曲第1番を指揮したジョルト・ナジの過剰なまでに作為的な指揮にも大いに不満を覚えたのだが、このところ指導教員達の指揮者としての不甲斐無さが目につく。
これだけたくさんの聴衆を前にして演奏する貴重な機会なのだから、舞台芸術の醍醐味を体験させてあげる「魔術」を指導者が発揮しなければ、教育をしたことにはならないのではないか……。

 

11月22日
新日本フィルハーモニー
指揮者:キンボー・イシイ
チェロ:山崎 伸子
@ 墨田トリフォニーホール

シューベルト:交響曲第1番 ニ長調 D82
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 op. 33
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op. 67 「運命」

恐ろしく熱量の低い「運命」を聴いた。
演奏会本番直前の指揮者交代もあり(当初は太田 弦が予定されていた)、少し嫌な予感がしていたのだが、これほどまでに圭角が無く、表現欲求の希薄な「運命」を初めて聴く。
この団体の上質な響きを素材にして、この傑作をどう料理するかということが、指揮者には問われるはずだが、これほどまでに問題意識が希薄だと、もう「ムード音楽」にしか聞こえない。
しばらくまえに晴海のトリトン・スクエアで東京ユヴェントス・フィルハーモニーによる同局の超絶的な名演を聴いているので、余計にそう感じるのかもしれないが、このしばらくのあいだNJPの演奏会に通いつづけて、最もつまらない演奏会だった。
前半の「ロココ風の主題による変奏曲」でソロを務めた山崎 伸子の演奏は、初めて生で聴くが、端正ではあるが、技巧的に安定性を欠き、また、全体的に響きが小ぢんまりとしていて、聴衆の心を揺さぶってくれない。
端的に言えば、音楽が舞台の上に留まってしまい、訴求力をもって客席に届いてこないのである。
たまたま昨日も奏楽堂で同じ東京芸術大学の教員をソロに迎えた「三重協奏曲」を聴いたのだが、彼等の演奏にも同じような印象を抱かされた。
少し意地悪く言えば、先生には誉められはするのだが、舞台人として要求される圧倒的な表現意欲を生々しく息づかせているかといえば、甚だ疑問があるのである。
まあ、彼等はそれでいいとしても、彼等の下で修行をしている生徒さんのことは心配になる。
但し、山崎氏がアンコールで弾いた「鳥の歌」は素晴らしいものだった。
その掠れ勝ちな音の中から、切々とした祈りの歌が確実に聞こえてきた。
いずれにしても、今日の演奏会で問題に思ったのは、21世紀の日本に生きるわれわれ聴衆にあえてこれらの作品を届けることの意味づけが演奏者達によりまともに為されているようには感じられないということだ。
そうした問いかけが無ければ、シューベルトもチャイコフスキーもベートーヴェンも途端に埃を被った古臭い作品に堕してしまう。
あちこちの楽団では「アニヴァーサリー・イヤー」ということで、シューベルトやベートーヴェンの作品を積極的にとりあげているが、そうしたことよりも、むしろ、演奏者がそれらの作品をとりあげる内的な意味づけを徹底的にしてくれていることの方がもっともっと重要である。
キンボー・イシイの音楽からはそうしたものは全く聞こえてこなかった。

 

二つのマーラー演奏会

11月14日
藝大フィルハーモニー定期演奏会
東京藝術大学奏楽堂
指揮:高関 健

奏楽堂で高関 健&藝大フィルハーモニーの演奏で藤倉 大の新作とマーラーの交響曲第5番を聴いてきた。
まだあまりひろく認知されていないが、高関 健という人は非常に優れた指揮者だ。
数年前に彼の指揮のもと、東京藝術大学の在学生により編成されたオーケストラの演奏で、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を聴いたときには、そのあまりに素晴らしさに度肝をぬかれた。
実際、そのときの感動は、その少し前にロンドンで聴いたサイモン・ラトルの指揮するLSOの演奏会の感動を完全に凌駕するほどのものだった。
その後も奏楽堂で在学生をソリストにむかえた演奏会でたびたび高関の演奏に接しているが、その見事な指揮技術にも感心させられるが、それ以上に、全体のバランスを毀すことも厭わずに、重要なところで表出する先鋭的な表現意欲に感服させられている。

今回の演奏会では、先ず話題の作曲家・藤倉 大の新作が演奏された。
個人的には、非常にありがちな「現代音楽」の作品の域を出るものではないと思った。
少しアンリ・デュティユーの作品を想起させたが、後半に作品が盛り上がっていくと、そこに清涼な空気が吹き抜け、そうしたところに藤倉の独特の魅力が感じられた。
とはいえ、こうした作品は結局は純粋に音響的な実験をしているだけのものなので、それ以上の感動はあたえてくれない。
プログラムを読むといろいろと解説が書かれているが、そうした作曲者の目論見に真面目につきあおうとも思わないのである。
演奏会にいくと、こうした「現代音楽」の作品が前座で演奏されるので、いろいろと聴かされるのだが、ほとんどの場合において、なんとも空虚な時間が過ぎていく。
今日もそうした感覚がつきまとった。

後半のマーラーの交響曲第5番はたいへんな熱演だった。
特に第4楽章は絶美の名演だったと思う。
常にデリカシーを保ちながら絶唱する弦合奏に身を浸しているだけで、作曲者がこのときに享受していた束の間の至福が感じ取れ、自然と涙が出てきた。
また、ハープは、単に美しいだけでなく、聴き手の心臓を揺さぶるほどのドキリとするような深い音を奏で、陶酔的な愛の中に漂う死の香りを見事に表現していた。
この作品では、トランペットをはじめとして、全編金管楽器が大活躍するが、重要なところで大きな事故が起こってしまったとはいえ、藝大フィルハーモニーの演奏者は大健闘していたと思う。
これだけの高水準の演奏能力をそなえているのであれば(また、これほどまでに素晴らしい演奏会場をもっているのだから)、もっともっと社会に存在感を示してもいいのではないだろうか……。

ところで、これは演奏との優劣とは全く関係が無いのだが、この作曲家の交響曲の中では、この作品は最もまとまりが欠けている作品であることを思い知らされた。
初期の交響曲とくらべると非常に私小説的な性格が強いために、マーラーという個人の卑近ともいえる感情の大袈裟なドラマにつきあわされている感覚がつきまとうのと、その起伏があまりにも極端に躁鬱的なものであるために、陰影のようなものを全くあじあわせてくれない。
そこに嘘が無いために聴いていられるが、果たしてそれほど完成度の高い作品であるかどうかといえば、そうとはいえないのである。
また、第3楽章と第4楽章は特に冗長で、あきらかに必要な推敲を怠っているようにしか思えない(また、これらの楽章においては、音楽が非常に錯綜するために、しばしば、音楽の流れそのものが掴めなくなることがある)。

11月16日
東京交響楽団定期演奏会
サントリー・ホール
指揮:ジョナサン・ノット

今度こそはマーラーの交響曲第7番を好きになれるのでは……と期待したのだが、残念ながら、今回も全く心に訴えてこなかった。
確かに「興味深い」作品ではあるのだが、これほどまでに作品が冗長だと、途中までくると付き合いきれなくなり、退屈してしまった。
あえていえば絢爛豪華ではあるが、ひどくノッペリとした屏風や壁画を眺めさせられている感覚がつきまとう。
大編成のオーケストラが巨大な音響を奏でるが、それが真の意味の音楽に昇華されないままに終わってしまう。
数日の間にこの作曲家の交響曲を二回聴いたが、あらためて中期以降の作品に関しては相性の悪さを実感した。
マーラーの場合、青年期の憧れと夢を失いはじめると、途端に作品が中年期の凡庸な苦悩を大袈裟に吐露するだけのものに劣化するような気がしてならない。
また、悪いことに非常に高い「能力」があるために、あたかもそうした内容的な空疎性を覆い隠すかのように、作品は窮極的なところまで技巧を凝らして書き込まれ肥大化してしまう。
特に第7番の場合、あれほどまでに壮麗な音響が鳴り響いているのに、そこに心の内から真に迸りでるものが感受できないというのは、あまりにも皮相である。

逆に前半のベルクの「管弦楽のための3つの小品」は非常に興味深く聴けた。
決して好きな種類の音楽ではないが、少なくとも昨今の音響的な実験に傾斜した「現代音楽」とは異なり、内的な探求の痕跡が深く刻み付けられており、まるで謎をつきつけられているような感覚に襲われる。
休憩中に外に出て思わず夜空を見上げてしまった。

大評判のジョナサン・ノットは生ではじめて聴くが、確かに素晴らしい指揮者だと思う。
いわゆる天才性のようなものは感じないが、表現意欲が非常に高く、その熱意と情熱が奏者に確実に伝わっている。
先日、畏友が「指揮芸術とは本質的には手話のそれなのです」と述べていたが、ノットの指揮は正にそうで、あの一線をこえた気迫ある指揮振りは稀有なものだと思う(たとえば、コンクールで高く評価されてしまう仕事上手の優等生的な指揮者のそれとは全く異質のものである)。
東京交響楽団は金管セクションに少々弱さがあるが、総じて大健闘で、これからさらにアンサンブルの次元を上げていける「伸び代」を感じる。
心から応援したい団体のひとつである。

 

Orangeの真の可能性に気づくこと

先日は、長年にわたりIntegral Japanで活動を共にしている後藤 友洋さんのインテグラル・エジュケーション講座に出席してきた。
後藤さんは国内でも最も優れたインテグラル理論の理解者のひとりだが、彼の場合、長年にわたり教育の現場に身を置いて実践を重ねているために、事例も豊富で、その説明に非常に説得力がある。
話もじょうずで全く飽きさせない。
この連続講座も、会を重ねるごとに参加者の理解が確実に深まっていくのが感じとれる。

 

ところで、今日の話題のひとつとなったのは、「現在、“Green”や“Teal”として分類されている諸々の現象は果たしてほんとうにGreenやTealなのか? むしろ、それはOrange段階の現象として理解されるべきなのではないか?」というものであった。
こうした疑問が沸いてくる背景には、現在の社会に於いてOrange段階そのものが「フラットランド」(flatland)の影響下で非常に病理化しているということがある。
そうした病理があまりにも深刻であるために、Orangeの可能性が悉く歪曲され破壊的なものに結実してしまっているために、Orangeの価値や利点が酷く覆い隠されてしまっているのである。
こうした時代的な状況のなかで、その限界をのりこえようと、さまざまな画期的な施策や発想がこころみられているわけだが、それらを子細に眺めていくと、ほとんどの場合において、そこで活用されている思考や発想の型はOrange(Advanced Linear Thinking)であるように思われるのである。
呈示されている具体的な施策はなかなか斬新ではあるが、そこで用いられている思考の「形態」(form)そのものはOrangeなのである。
それらの施策が非常に斬新なものにみえるのは、それらが真に健全なOrangeの思考を発揮しているからである。

実際のところ、われわれは健全なOrangeが発揮される場面に出会うことはほとんどない。
健全なOrangeと出会うとき、それがあまりにも馴染みのないものであるために、われわれの目にはあたかもそれが全く別次元のものであるかのようにみえることになる。
それほどに現代のOrangeは極度に病理化しているのである。
社会そのものが「フラットランド」に徹底的に冒されている状況に於いて、それに感染せずに健全なかたちで発揮されているOrangeとはどのようなものか? と問われると、われわれには想像もできないのである。

結局のところ、真に重要なのは、高次の思考や発想を発揮することではない。
真に重要なのは、真の治癒や成長を実現するためにこの時代が必要とするものを実践することである。
そして、実際のところ、いまわれわれが必要としているのは、高い次元の思考や発想ではなく、今日の社会を支配する思考や発想の形態を健全なものに治癒することなのである。
ある程度の健全性を回復しないままに高い次元をめざしても、それは失敗に終わるだけである。
そして、そうした治癒的なとりくみに、GreenやTealといった名称があたえられているということなのだろう。

しかし、裏返して言えば、これは、いわゆる「Orange」(Advanced Linear Thinking)の潜在性をわれわれはまだまだフルに利用しきれていないということでもある。
「フラットランド」の拘束のもと、非常に限定的にしか用いていなかつた能力を健全な方向で運用すると、そこには非常に異なるが生み出しえるのである。

 

思想家のケン・ウィルバーも指摘していることだが、目の前であたらしいことが起こると、人はそれが歴史的に画期的なイベントであると思いがちになる。
人は自分が特別な時代に生まれあわせていると思いたいものなのである。
それは人の性のようなものなのかもしれない。
こういう事情もあり、われわれは目の前にあるあたらしいものにGreenやTealといった名称をあたえたくなるのだろう。

成人発達理論を巡る「都市伝説」


先日、Human Potential Labの御招きで、懇意にしている編集者の方と一緒に、インテグラル理論の導入的な講義をした。
特に現在注目を集めている成人発達理論に関しては、いろいろな「都市伝説」が蔓延しているので、そうしたものに惑わされないように特に重要な留意点について紹介したのだが、参加者の方々が思いの外に心を開いてそうした指摘を開いてくれたことは嬉しい驚きだった。
想像するに、これまでに無数の「経営書」や「成功哲学」を通してそこで紹介されている「夢物語」に触れ繰り返し幻滅をあじわうことで、人間や社会というものがそうそう簡単に変わるものではないことをある程度認識している人が増えているのだろう。
端的に言えば、社会の価値観や世界観が大きく変わるためには数世紀の時間が掛るのであり、その枠組の中で生きざるをえない個人は、たとえどれほど進歩的な価値観や世界観をそなえていようとも、そうした社会的・時代的な文脈と交渉をして生きていかないといけない。
その交渉の在り方はいろいろとあるとしても、過去の発達心理学者達が注意をしているように、そうしたスキルなしに発達理論にいれこむのは危険だということだ。
また、「……段階に到達すると……ができるようになり、社会的な成功を収めることができるようになるはずだ」という「物語」を安易に奉じるのも危険なことで、実は発達が成功や幸福を保証するものではないことは既に指摘されているところである。
これまで長年にわたりインテグラル理論等を勉強してきた友人と話をすると、そもそも「組織」(自己の所属する組織)を主語にして「ティール」(Teal・Advanced Systems Thinking)について云々することそのものに違和感を覚えるという意見をよく聞くのだが、実際正にそのとおりで、この段階の思考の特徴は、個人や組織や社会を呪縛するマクロ的な構造そのものを対象化して、それについて批判的に検討するところにあるので、単純にその構造の中で成功を収めようとする発想とは縁遠いものなのである。
こうしたポイントについて噛み砕いて説明をしたのだが、それほど違和感なく話を聞いていただけたことには、正直なところ少なからぬ驚きを覚えた。

 

「享楽」という叡智――不思議な演奏会


シャブリエ:狂詩曲「スペイン」 Chabrier: España, Rhapsody for Orchestra
ピアソラ:バンドネオン協奏曲* Piazzolla : Bandoneon Concerto*
ベルリオーズ:幻想交響曲 op. 14 Berlioz : Symphonie fantastique: épisode de la vie d’un artiste, op. 14

指揮:ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)
バンドネオン:小松亮太*

https://www.njp.or.jp/concerts/8667

 

ミシェル・プラッソン(Michel Plasson)&新日本フィルハーモニー(NJP)の演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。
周知のようにプラッソンには膨大な数の録音があるが、生で聴くのは初めてである。
その音楽の特徴を一言でいえば、徹底して垂直性の希薄な音楽といえるだろうか……。
総じて深刻さとは無縁の音楽で、意味を追及しようという姿勢が全く感じられないことに、個人的には、演奏中に戸惑いと退屈を覚えた。
いわゆる高い精神性のようなものを求めると肩透かしにあうことになるが、それでは、それに替わる魅力があるのかというと、実はそうでもない。
確かに、いわゆる老匠の枯れたあじわいのようなものはあるのだが、果たしてそれがこの指揮者の円熟の徴なのかというと、それほどの深いものでもないような気がする。
たとえば、後半の「幻想交響曲」の冒頭では、実に落ち着いたテンポで音楽をはじめていくが、それが単に遅いだけで、この作品のあらたな魅力を開示してくれるというところには至らない。
また、そこには作曲者の狂気に迫ろうとする姿勢があるわけでもなく、85歳の老指揮者があえてこの作品をとりあげた意図は果たしてどこにあるのだろう……と聴衆を困惑させる。
もちろん、NJPの非常に献身的な演奏に支えられて、
演奏そのものは大きな違和感を感じさせることなく壮麗に展開していくのだが、結局のところ、指揮者の中にこの作品を演奏することの必然性が無いためなのだろう、どうしても細部の詰めが甘くなり、それが演奏に雑な印象をあたえてしまう。
個人的には、3月に川崎で聴いた東京音楽大学フェスティバル・オーケストラ(指揮は小林 研一郎)の演奏の方が数段優れていたと思う。
彼等の演奏には「幻想交響曲」という作品の本質に迫ろうとする姿勢が息づいていたし、また、その作品を演奏することの必然性(意味づけ)が十全にできていたと思う。
前半のシャブリエの「スペイン」とピアソラの「バンドネオン協奏曲」に関しては、作品そのものが純粋な娯楽性で聴衆を魅了するものであるために、プラッソンの音楽性に合致していたように思う。
ただ、協奏曲のソリストを務めた小松 亮太のバンドネオンには、この作品に必要とされる哀愁や倦怠感や焦燥のようなものが希薄で、少し厳しい言い方をすれば、無菌室で純粋培養された優等生の音楽という印象が拭えなかった。
第2楽章のバンドネオンの内省や楽章の末尾にハープが奏でる祈りなどは実に素晴らしく、それなりにたのしませてはくれるのだが、作品そのものの弱さを忘れさせてくれるまでには至らなかったように思う。

今日の演奏会で最も感動したのは、アンコールとして演奏された「カルメン」の前奏曲であった。
「幻想交響曲」を演奏したあとの会場の喝采を浴びる最中、突如演奏がはじめられたこの底抜けにあかるい音楽を聴きながら、不思議なことに、思わず泪が流れてきてしまったのだが、そこでこちらの心に届いてきたのは、「そんな生真面目なことはどうでもいいのだよ……」とでも言うように全てを笑いと喜びの中に包摂していく叡智であった。
こいい意味で享楽的な音楽性こそがミシェル・プラッソンという指揮者の個性であり、そして、それがひとつの境地として表現されたのが、あのカルメンの演奏だったのだろう。

 

紹介:「対局性の管理」のオンライン講座

前回の記事で紹介したように、成人発達理論において「Green」と「Teal」と呼ばれている段階は、共にシステム思考を効果的に活用する段階である。
とりわけいわゆる「弁証法」といわれている思考法は、この段階の思考を特徴的に示すものだが(特に基礎となるGreen段階の思考を体得するためには必須のスキルといえるだろう)、実際の課題や問題に対処するときにそれを活用するのは思いのほか難しい。
そこで「弁証法」を実務領域で活用するための方法として紹介したいのが、Barry Johnsonの「対局性の管理」(Polarity Management)である。
これについては『インテグラル・シンキング』の中でも簡単に紹介したが、今回、Integral Lifeでは、この方法をインテグラル理論の枠組にもとづいて発展させたBeena Sharmaを講師に迎えてオンライン講座を開催するという。
Beenaとは、昔Susanne Cook-Greuter博士のトレイニングを受けていたときに数年にわたり時間を共にしたが、非常に優れた実践家であるので、日本の関係者の方々にも是非紹介したいと思う。

 

INTEGRATING  POLARITIES
https://integrallife.com/polarity-wisdom-mechanics-of-integral-thinking/

 

「Green」と「Teal」の違いについて


現在、ひろく注目を集めている成人発達理論であるが、そうした文脈の中で高次の発達段階(post-conventional stages)として位置づけられる「Green」、及び、「Teal」といわれる段階の違いは非常に理解しにくいものである。
関連論文を紐解くと、共にシステム思考をその特徴とする段階であると説明されているが(前者はEarly Systems Thinking、そして、後者がAdvanced Systems Thinking)、同じ範疇にはいるものであるために、それらがどのように質的に異なるのかを問われたときに明確な回答が示されることは非常に稀である。
また、過去40年程にわたり、成人発達理論を参照して一般向けに紹介をしてきたケン・ウィルバー(Ken Wilber)の著書を見ても、両者の微妙な差異は――特に1990年代後半以降の著作に顕著であるが――過度に戯画化(単純化)されて紹介をしているために、大きな誤解を生んでいるように思われる。
共にVision Logic段階の範疇に含まれる非常に高度な認知能力を有する段階と紹介しつつも、同時にGreenの本質を歪めてその価値をあからさまに蔑む説明を繰り返すために、結果として読者にこれらの段階の本質を見失わせることになってしまっている。
ここではあらためてこれらの段階の差異を理解するためのヒントを示したいと思う。

Green:
Green段階の思考の特性を理解するためには、「弁証法」(dialectic)を思い浮かべるといいだろう。
Aという視点とBという視点が対極的なものとして存在している。そして、それぞれが独自のレンズをとおしてものごとを眺めている。それらは共に独自の角度から真実をとらえているが、同時に独自の盲点を内包している――こういう状況である。
Greenの段階においては、それぞれのレンズに意識を重ね合わせて、それが開示する真実を共感的に理解をしようとする。くわえて、それらの視点間の対話や交流を促すための仕組をデザインして、また、実際にその対話や交流を支援することで、複数の異なる真実がひとつ高いところで融合されるようにプロセスを牽引する。
Green段階においては、視点というものが「構築」されたものであることを認識できているので――しかし、そうは言っても、それぞれの関係者には自身の視点に固執せざるをえない事情があることを認識できているので――諸々の視点の中でどれが正しいのかと問うのではなく、それらの視点がどのように相補的に共存することができるのかと問うことができるのである。
Green段階においては、このような統合に向けた対話を牽引するために、関係者が対話の起点として合意することのできる構想や戦略を明示して、その文脈の中でそれぞれの視点の正当性を明確化する。そして、その上で関係者が納得性をもって他者の視点を理解して、相互理解と視点の融合に向けて主体的に前進できるように支援をしていくのである。

Teal:
Tealの段階においては、上記の弁証法的な対話を支援するだけでなく、そもそもAとBという視点が対極的なものとして設定されている状況そのものを問題視する。
たとえば、政治の領域においては、保守と革新という対立軸が設定されていて、それらの陣営が議論をする中で最終的に何等かの解決策が創出されるということになっているが、Teal段階においては、それらの立場を調停することの根本的な限界を認識することができるようになる。即ち、それらを対極的な立場として生み出している構造そのものを問題視するようになるのである(例:たとえ大変な調停作業をとおして発生している問題を解決できたとしても、そうした対極的な立場を生みだしている構造そのものが維持されている限り、同じような問題が次々と再生産されることになる)。換言すれば、Teal段階においては、問題を弁証法的な対話をとおして問題を解決しようとするのではなく、そこで対立軸そのものを生み出している「構造」や「条件」や「意図」そのものに問題意識を向けるのである。
こうした思考とは、それらの対極的な立場の関係者がどれほど対話を重ねても、いつまでも言及されずに放置される課題や問題にたいする意識を向けたり、あるいは、その対立軸を支えている構造に意識を向けたりする思考である。
実際、われわれの身近なところを見渡しても、対立軸が生じるときというのは、その共同体(組織)に何等かのストレスが掛かったときである(例:あたらしい戦略や施策を採用して、組織内で制度や方針の変更が求められる状況)。
そうしたとき、そこには関係者間の対立が生じるわけだが、Teal段階の思考を体得している者が発揮するのは、そうした状況を所与の条件として状況を解決する思考ではなく、そもそもそうした状況を生み出している原因そのものに批判的な眼差しを向けるのである。
たとえば、その原因とは、あたらしい戦略や施策が採用されたことであり、また、それが採用されるまでプロセスの在り方をあげることができるだろう。
そこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものでなければ、結局、そこで関係者がどれほど誠実に対話をして解決策を導きだそうとしても、それは究極的には無駄な努力となるだろう。
また、たとえそこで採用されている戦略や施策が真に理に適ったものであるとしても、それを構築する一連のプロセスが共同体(組織)の関係者の納得を得られるものでなければ、それにつづく関係者間の対話は常に不全感を内包したものとなるだろう。
往々にして、共同体(組織)の関係者は、自身がとりくんでいる対話の前提となる条件を疑うことなく、対話の中に生じる葛藤や衝突を解決しようとするが、それは実は必ずしも得策ではないのである。
もしあたられた条件そのものが非常に理不尽なもので、そこでどう足掻こうとも最終的に真に満足のいく解決策に辿り着こうないという場合には、その条件そのものを批判の対象とする必要があるのである。
それは、たとえば業界や組織の構造であり、また、少し視野を拡大して眺めてみれば、社会を支配する諸々の構造であろう(例:資本主義という構造・貨幣発行権の構造に関する洞察)。
Teal段階の意識は、同時代の中で「常識」としてひろく受容・信奉されている世界観や価値観(“pre-analytic vision”)そのものを対象化して、それがいかに人々の意識と行動を呪縛しているかということについて透徹した分析をするのである。
もし「そうしたものは、巨大な権力構造や利権構造に支えられているものであり、いかなる批判をしても変えようのないものだ……」と諦めて、そうした思索をすることを辞めているとすれば、それはTealとはいえないのである。
そうした精神的な営みを諦めた途端、人間はあたえられた価値観・世界観の檻の中で思考することしかできなくなるのである。
但し、そうした構造にたいする問題意識を抱くことができるためには、目の前に「あたりまえ」に存在する現実を相対化する――その妥当性に批判的な眼差しを向けることができる――「感覚」「思想」「構想」を有している必要があるといえる。
たとえば、発達心理学者のZachary Steinは、正にTeal段階の支視点から、著書の中で現在の教育システムにたいする批判を展開している。
具体的には、今日の教育システムを支える価値観を「human capital theory」として洞察して(人間を経済システムの中で機能を果たす資源としてとらえ、その資源の機能的能力を高めるための制度として教育を位置づける発想)、その支配の下に全ての教育的な施策が構想・実施されていることを批判的に分析しているのである。
端的に言えば、Steinは、こうした価値観が意識化され超克されなければ、その支配下でいかなる多様な施策が検討されようとも――また、それらが融合されようとも――結局のところ、それらはそうした価値観の実現に寄与するだけで終わってしまう――と指摘しているのである。
いうまでもなく、目の前の現実を支配する価値観を対象化するためには、それとは異なる価値観に支えられた社会が存在しえることを想像できる必要がある。
そして、そのためには、人間というものが同時代を支配する価値観や世界観に支配されて生きざるをえないことを認識して、そして、異なる価値観や世界観を創造的に構想する訓練を積む必要がある。
必然的にそうしたオルタナティヴな価値観や世界観を提唱する思想家の著作に触れて、それらを咀嚼して、自身の思索活動の武器とする必要があるのである。
実際のところ、Teal段階の思考ができるためには、その領域において博士課程を修了するに必要とされる水準の訓練を積んでいる必要があるといわれるのは、そうした施策をするためにどうしてもそれくらいの知的訓練が必要とされるということなのである。
くわえて、同時に重要となるのは、あたえられた価値観・世界観の中で生きる中で自己の内に芽生えた素朴な感覚をとらえ尊重することであろう。
それがいかに合理的なものとして正当化されているとしても、もし違和感が生じたとすれば、そこには何等かの形態で人間性を冒涜したり、抑圧をしたりする構造が内包されている可能性がある。
ケン・ウィルバーは、Teal段階の意識を体と心が統合される意識として説明しているが(“Centaur”)が、これは即ち思考に惑わされずに体の率直な声に耳を澄ませることができる感性の必要性を強調しているのである。

 

発達の危険性に関する覚え書き

現在、インテグラル・コミュニティでは、ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)に続く世代(40代)が台頭して目覚ましい活躍を展開している。
彼等に共通しているのは、KWのインテグラル理論を非常に深く理解していると同時にその課題や問題を批判的に指摘していることで、これまでにインテグラル・コミュニティの中で支持されてきた「常識」を根本的に覆す視点を非常に説得力あるかたちで呈示してくれている。
そうした研究者・実践者の代表格がSean HargensとZachary Steinである(彼等の著書や論文は膨大に存在するが、残念ながら日本語には翻訳されていない)。
今、日本では徐々にインテグラル理論にたいする注目が集まりつつあるが、注意をしないと、あきらかに誤りであることが判明していることがそのままに紹介されてしまうので、そのあたりに関しては、こうした新世代の指摘を勘案してKWの文章を読む必要があるだろう。
ともあれ、個人的にもこうした新世代の興味・関心の方向性を直接に確認したく、現在4箇月に及ぶSean Hargensの講座を受講しているところである。

そんな中で、先日、関係者と興味深い話題について意見交換をしたので、簡単にまとめておきたい(また、偶然にも、同じような話題について、先日、インテグラル理論に造詣が深い若い友人と話をした)。
その話題というのは、いわゆる「後慣習的」(post-conventional)といわれる視点や発想や話題に人々が興味や関心を向ける理由は何であるのか? というものである。
端的に言えば、同時代の常識の枠を外れた話題に興味を抱けるようになる条件とはどのようなものなのか? ということだ。

KWの発達理論の枠組では、Green以降の段階が後慣習的段階となるが、実際にそうした段階に関する論文を紐解いていくと、実際にはそれが独自の苦悩や困難をもたらすことが読み取れる。
一般向けに書かれた書籍では、「発達すると仕事における生産性が高まるのです」と能天気に紹介されていることもあり、誤解をあたえるのだが、実際には必ずしもそうではなく、ときには「生産性」の低下をもたらすこともある。
結局のところ、Green段階に至るときに人間が獲得するのは、その時代や社会に生まれ生きることをとおして、自身が不可避的に囚われることになる価値観や世界観(“pre-analytic vision”)を対象化して、それを批判的に検証したり、あるいは、それと格闘したりすることができるようになるということである。
そこには実利的な意味で得になることは何ひとつないのである。
また、KWは過去の著書の中で後慣習的段階に立脚して思考・行動することは大きな危険を冒すことであり、実際、歴史的にはそうした人物達は厳しく排斥されたり、抹殺されたりしてきたと述べている(ちなみに、他にもCarl JungやAbraham Maslowも「個性化」や「自己実現」が非常に危険なものであることに注意を喚起している)。
そうした状況は21世紀においても本質的に変わらない。
変わったことは、その「排斥」や「抹殺」の方法が多様化したことくらいであろう。
端的に言えば、後慣習的段階に向けた心理的な成長とは、「実利的な利益をもたらしてくれそうだから……」というような動機で起きるものではなく、ある意味では已むに已まれずに起きてしまうものなのである。
それは意図的に起こすものではなく、そうした意図とは関係なしに、大いなる意志の影響下で強制的に起きてしまうものとしてとらえられるべきなのだ。
実際、Maslowが“the Johnna Complex”という概念で説明しようとしたように、そうしたプロセスに巻き込まれた者は往々にしてそうした「召喚」に抗おうとするものである。
そして、そうした自己の意図を超えたものとの格闘をとおして、自己の人格的な成熟を遂げていくのである。
端的に言えば、そこにあるのは、自己の内に息づく高次の「声」との対話と格闘であり、そうしたプロセスを歩むことが利益をもたらしてくれるかどうかを問う損得勘定が入り込む余地は無いのである。
KWは後慣習的段階をVision Logic段階と形容するが、即ちそれは、そうした段階の思考や行動を規定するものが、時代や社会に流通する価値観や世界観ではなく、高次の自己との対話の中で「開示」される構想(vision)や霊感(inspiration)であることを示唆しているのである。

神秘思想家が言うように、結局のところ、人間は自動反応的な機械に過ぎない。
そして、いうまでもなく、現代社会において、そうした機械を誘導する最大の刺激は「金」(money)である。
それをあたえれば、機械は如何様にも操れるのである。
後習慣的な段階において発揮される高い内省能力は、そうした刺激に半ば自動反応する機械的な存在としての自己の在り様を自覚させる。
そして、そうした認識を得ると、骨の髄まで条件付けされてしまった自己の存在そのものを「解決されるべき問題」として再認識することができるようになるのである(実存主義心理学者のRollo Mayの著書の中で指摘されるように、この自己の存在そのものを解決されるべき問題としてとらえる視点こそ、Green〜Teal段階の意識の特徴といえる)。
そうした問題意識を起点として展開する探求の過程において、それはいかなる利益をもたらすのか? という問いは本質的な問題になりようがない(Mayが著書の中で読者に自著に実利的な価値を持つ回答を期待してはいけないと警告していたのは、こういうことである)。

正に、若い友人が言っていたように、後慣習的段階を志向する「理由」(incentive)は基本的にこの実利的世界には存在しない。
むしろ、正にその友人が指摘するように、現代社会において世俗的な成功を遂げようとするのであれば、同時代の中で信奉されている「物語」を寸分も疑うことなく、その物語の中で「成功」とされているものを目指して邁進できる精神――即ち、慣習的段階の精神――を強化することである。
その意味では、後慣習的段階の発想は、「危険」であるだけで、得になることは何もないのである。

しかし、常識的に考えてみればすぐに解ることだが、真の豊かさとは――また、真の正気(sanity)とは――生まれた社会や時代の中で信奉されている物語(価値観・世界観)に囚われない感性を涵養するところに確保されるものである。
そして、現在、生活のあらゆる要素が経済的な成功を収めるための要素として見做されてしまっているが、そうした同時代の狂気に違和感を覚え、それを批判できる大人が絶滅危惧種化していることは真に危険なことだといえる。
そうした意味では、インテグラル理論をはじめとして、いわゆるGreen〜Teal的な思想に関心が寄せられている背景には、そうした危険性に薄々と気づきはじめている人々がひろい範囲に存在しているということなのだろう。
但し、そうした領域の探求をはじめるときに留意すべきは、それが本質的に危険を内包したとりくみであるということである。
もちろん、そうした探求を真にはじめた者には、それを止めるという選択肢は実質的に残されていないわけで、彼等にできることは、そうした危険を考慮しながら、前に進みつづけることだけである。
ただ、彼等には、人間社会というものが、その構造上後慣習的段階に向けた発達を阻害せざるをえないことを理解することが求められる。
こうしたことについては、先述のMayだけでなく、古くからCarl JungやAbraham Maslowも指摘をしているところでもあるので、いわゆる「自己啓発系書」をとおして発達理論と出遭った方々は、そうした心理学者の著書を丹念に読み進めるといいだろう。

 

感想:新日本フィルハーモニー第609回定期演奏会@サントリー・ホール

第609回定期演奏会@サントリー・ホール

上岡 敏之&新日本フィルハーモニー


シューベルト:交響曲第4番
ブルックナー:交響曲第7番

 

https://www.njp.or.jp/concerts/8655

 

録音を含めて、これまでに聴いたブルックナーの交響曲第7番の演奏の中でも指折りの名演。
超越的なものとの邂逅と対話というこの作品の本質を完璧にとらえた演奏で、意識にとらえられたと思うと瞬時に彼方に消えていく恩寵を探し求めるたましいの彷徨が実に鮮烈に描かれていた。
また、これは上岡 敏之の演奏の大きな特徴であるが、その長大な演奏時間をとおして、音楽が一瞬も弛緩することない。
そこには、こうした深い内的な営みに息づく寂寥と共に胸の奥に幽かに灯る希望と確信が最美の音楽として交互に奏でられていく。
上岡の演奏には、常に瑞々しい祈りがあり、また、そこには聴衆の心を優しく暖めてくれる微笑みがある。
ときには天使が舞い降りて、会場全体が清澄な光に充たされて浄化されるような感覚にとらわれさえする。
こうした演奏は、たとえば晩年のギュンター・ヴァントの演奏がそうであったように、聴衆を宇宙の深淵と向き合わせるような厳しい気迫と叡智を宿した凄演とは異なるもので、そうした峻厳な精神の格闘を必要としない、真の意味で祝福された芸術家の演奏であるように思われる。
この日の演奏会では、第1楽章の冒頭から涙腺が弛んでしまいハンカチを忘れたことを後悔したが、気がつくと周囲からも啜り泣きが聞こえてくる。
上岡 敏之の音楽性とはそういう類のものである。

指揮者の超高難易度の要求に懸命に応えようとするNJPの献身にも心を揺さぶられた。
特に第1バイオリンの美しさは唖然とするほどで、大袈裟ではなく、聴いていて気絶しそうになるほどだった。
ホルンを中心として、この作品の音響構造の要となる金管群は少々苦戦を強いられていたようだが、そもそも指揮者の要求そのものが常識を超えたレベルの微細さと繊細さを求めるものであることを鑑みれば、十分に健闘していたと思う。
端的に言えば、演奏芸術の極北を志向する上岡の解釈は、たとえばベルリン・フィルハーモニーのような世界最高峰の技術集団がなければ完璧に音化することは不可能なものであり、そうした意味では、この日のNJPの演奏に散見された些細な事故をあげつらうことに意味はないだろう。
こうした演奏に触れると、あらためて上岡 敏之の芸術性が真に世界的にも類い稀なものであることを痛感する。
真の意味で個性的であり、唯一無二のものだと思う。

個々の楽章について感想を書きはじめると際限がなくなるし、また、この日の演奏には、具体的な箇所について云々することを無意味に感じさせるものだった。
前日に同じ会場で大野 和士&東京都交響楽団のブルックナーの交響曲を聴いたが、それとくらべると、完全に別次元の演奏で、技術的な優位性を誇る都響を駆使して大音響で奏でられた大野の解釈が足下にも及ばないものだった。
結局のところ、これは大野 和士という指揮者がブルックナーの本質をとらえそこねているということなのだろう。
但し、今後、大野が勉強を重ねれば上岡 敏之の水準に到達するかといえばそうではなく、上岡にはそうした比較を絶した突然変異的なものが紛れもなく息づいているように思うのである。

尚、確か日曜日に横浜での公演があると思うので、今日会場に来れなかった方は是非とも足を運んでいただきたい。
一生の宝になると思う。

 

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

 

https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3237&my=2019&mm=9

 

残念ながら、大野 和士はブルックナー指揮者としての資質を著しく欠いているように思う。
世界最高水準の技量を有する東京都交響楽団を豪然と鳴り響かせて見事な音響を構築をするのだが、その音に全く深みがなく、また、間の取り方があまりにも悪いために、常に器の小ささを感じさせてしまう。
そのテンポ設定はひどくセカセカとしたもので、その必然性を全く感じさせてくれない。
われわれがこの作曲者の交響曲に期待する造言が全く聞こえてこないのである。
少々スタイルは異なるが、あのカラヤンのブルックナーを思いだした。
周知のように、その演奏は正に絢爛豪華で陳腐なハリウッド映画の特殊効果を想起させるもので、正にブルックナーのパロディと形容できるものだった。
もちろん、当時のベルリン・フィルハーモニーと比べれば、今の都響には圧倒的に優れたしなやかさがあるので、あれほど暴力的には聞こえないが、それにしても大野の解釈はあまりにも外向的である。
都響の演奏者達はこのような指揮者の解釈にほんとうに共感して演奏しているのだろうか……?――と素朴な疑問を抱いてしまう。
先日、アラン・ギルバートの指揮で圧倒的なブルックナーの名演を聴いたばかりだが、同じ優秀なオーケストラでも、指揮者が変わるとこれほどまでの感動の質が落ちてしまうものなのである。
いずれにしても、大野 和士という指揮者は、その肉体的な年齢とは関係なく、いっさいの老いや衰えとは無縁の活力溢れる壮年期の精神を魅力とする芸術家だと思う。
そうした資質はーーその卓抜した指揮技術と相俟って――たとえば先日のラフマニノフの「交響的舞曲」のような作品では見事に発揮されるが、こうした作品を指揮するときにはその限界が露骨に露呈してしまう。
個人的にも非常に大きな期待を寄せている指揮者なのだが――この指揮者の演奏を聴きたくて、東京都交響楽団の定期会員になっている――こういう演奏を聴かされると、そんな気持ちが雲散霧消してしまいそうになる。