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出版のおしらせ:『 入門 インテグラル理論 :人・組織・社会の可能性を最大化するメタ・アプローチ』

 

https://pub.jmam.co.jp/book/b497306.html

 

上岡 敏之氏の退任のしらせに思う

先日、新日本フィルハーモニー(NJP)のHPで告知があり、現音楽監督の上岡 敏之が2020〜2021年をもって退任するという。
あまりにも残念なしらせに、愕然としてしまった。
極端なことを言えば、これでNJPを聴く理由が無くなってしまったとさえいえる。
国内・国外の著名な演奏家の生演奏を聴いても、たとえそれが非常に立派な演奏であるとしても、非常に例外的な場合を除いて、結局のところ、そこに展開するのは「想定内」のものばかりである。
それは国内の演奏会だけでなく、「本場」の演奏会にもあてはまることである。
欧米の主要都市に出張する折には、いわゆる名門団体の演奏会にも脚を運ぶようにしているが、同じようなものである。
しかし、上岡 敏之という音楽家は地球上のどの演奏会場でも聴くことのできない唯一無二の演奏を期待させてくれる。
もちろん、あきらかに「失敗」と思われる演奏もあるのだが、逆に感激と感動のあまり気絶するほどに素晴らしい演奏もあるのである。
それは生演奏を聴くことの醍醐味そのものであり、そういう音楽を奏でられる芸術家というのは、世界を見渡しても極々少数しかいない。
実際、これまで上岡の指揮するNJPの演奏を聴いて、「この極東の地になぜこんな欧州の香りを湛えた音楽が鳴っているのだろう」と何度も驚愕させられたものである。
上岡はその存在を通して何か超越的な集合精神を媒介しているようにしか思えないのだが、こんな指揮者が日本に生まれたことの不思議にただただ心を打たれたのである。
そういう指揮者をてばなすとは、NJPは何と愚かなことをするのだろう……。
それに、わたしのよう素人から診ても、上岡監督の下でNJPが成し遂げるべきことは、まだまだたくさんあるはずだ。
あの超繊細な最弱音を音が痩せることなく奏でることも、全強奏の部分で美感を保った音響を響かせることも、そして、アンサンブルの総合的な強靭性と安定性を高めることも……。
そうした技術的な課題を上岡氏の高い芸術的な要求の下で応えることができてこそ、はじめてこのアンサンブルは次の次元に行けるのではないか。
無論、「個性的」ということばでは全く追いつかないほどに個性的な芸術家なので、その音楽性と肌が合わない演奏者もいることだろうし、また、ああした芸術至上主義的な音楽を解する聴衆が極端に少ないために、集客に苦労をしているのも事実であろう。
しかし、ここで音楽監督を替えて、NJPの「次」があるとはとうてい思えない。
だれにでも「素晴らしい」と称賛されるありきたりの「立派」な音楽を奏でる指揮者を迎えたところで、現在の日本の音楽団体の水準の高さを鑑みれば、そんな音楽は「あたりまえ」のものとして、それほど注目されることもないだろう。
いずれにしても、今回の決断は、NJPにとっては最悪のタイミングで為された最悪の内容のものといえる。
ここ数年のあいだに、上岡体制の下で着実に驚異的な成果を上げつつあったのを道半ばで放棄して、NJPはこれからどういう構想と方向性をもって活動を展開しよういうのだろう?
これまで定期会員として応援をしてきたが、今回のしらせには深く落胆をし、また、今後の東京地区の音楽文化の将来を思うと暗澹とする気持ちに陥るのである。
何と愚かなことを……。

 

告知:オンライン開催:「ティール・ブーム」のその先へ インテグラル理論を手がかりにこれからの個人・組織を考えるDIALOGUE

https://integral200309.peatix.com/

 

詳細

2月18日(火)に行った下記のDialogueの続編です。
前回、ご参加いただいた方はもちろんのこと、
残念ながら参加できなかったという方にとっても、
「ティール・ブーム」のその先を考えるうえでの手がかりが得られるのではないでしょうか。

誰もまだ見たことのない
「ティール・ブーム」のその先
をみなさまとともに探求できることを楽しみにしています。

みなさまのご参加、心よりお待ちしています!

<3/9(月)テーマ(予定)>
・個人の変容と組織の変容
・ティール段階と「インテグラル・ライフ・プラクティス」
・「インテグラル・ライフ・プラクティス」実践編
・「インテグラル・ライフ・プラクティス」と「自然のシステム」
・「影(シャドー)」といかに向き合うか?
・組織における実践 など
*内容は変わる可能性があります。ご了承ください

<場所>
Zoomにて
*お申込者にURLをお知らせします

<参加料>
2000円

<定員>
20名

<申込み方法>
Peatixにてお申込みください
https://integral200309.peatix.com/

<スピーカープロフィール>*50音順
鈴木 規夫(すずき のりお)
2004年にCalifornia Institute of Integral Studies(CIIS)で博士課程を修了(Ph.D.)。
専門は東洋と西洋の心理学(East-West psychology)。
日本に帰国後アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。
主な著書・訳書に『実践インテグラル・ライフ―自己成長の設計図』(春秋社)、
『インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論』『インテグラル理論入門競Εルバーの世界論』(春秋社)、
『インテグラル・シンキング―統合的思考のためのフレームワーク』(コスモス・ライブラリー)等がある。
URL http://integraljapan.net/

​吉原 史郎(よしはら しろう)
日本初「Holacracy(ホラクラシー)認定者」。
神戸大学経営学部卒業。2006年証券会社に入社、投資経験を経て2007年リサ・ パートナーズに入社。
大規模リゾートホテルの事業再生業務の経営に総支配人として従事 。
2011年三菱UFJリサーチ&コンサルティングに入社。組織開発を通じての経営支援に従事。
2017年にNatural Organizations Lab 株式会社創業。
自然から学ぶ「いのちの循環」を軸にした経営支援に取り組む。
著書『 実務でつかむ!ティール組織』(大和出版 2018年)。
「実務とつなげる経営の新潮流」にて経営に関するレポートを公開。
URL https://nol-blog.com/

​吉原 優子(よしはら ゆうこ)
自然の恵みが循環する畑を実践研究中。
京都大学法学部卒業。2006年関西電力入社。長期成長戦略策定に携わる。
2011年オーダー靴の靴職人として修業を開始し、2013年に「ユメノハキゴコチ」を開業。
「オシャレ×履き心地が良い」ハイヒールを進化させ続ける。
靴づくりで土に還らないゴミが出ていくのを目の当たりにし、
自然の循環とは何かを考え始めた時、自然農法・無肥料栽培に出会う。
2017年Natural Organizations Lab株式会社設立。
循環を活かした畑を作ることができる方法を日々実践研究。
「野菜の庭部」にて、野菜作りに関するレポートを提供中。
URL https://vege-bu.com/

<キャンセルポリシー>
開催2営業日前までのキャンセルは、手数料を差し引き、全額を返金いたします。
それ以降のキャンセルの場合、返金はいたしかねますのでご了承ください。

<主催/問い合わせ先>
日本能率協会マネジメントセンター 出版事業本部
担当:柏原里美
publishing@jmam.co.jp
03-6362-4537

成人発達と日本の同調圧力

最も重要なことは、「頭がいい」ことではなく、そもそも考えるに値する問題に気づけるかどうかということなのではないか……?
このところ、そんな気がしている。
いかに優秀な知性を有していたとしても、それを活用して真剣に考えるに値する問題を発見できなければ、それは無駄になるか、あるいは、それほど重要ではない問題にとりくむのに無駄に浪費されることになる。
日本にも非常に優秀な人はたくさんいるはずなのだが、実は、彼らは自らの優れた知性を真に重要な問題について検討するためにあまり発動していないのではないかという気がする。
むしろ、そうした「優秀」な人達ほど、早くから既存の教育制度の中にとりこまれて、外部からあたらえられた問題について考えるように「訓練」されてしまうのかもしれない。
優秀な知性の持主は、社会にとって貴重な存在であるが、社会はまた社会を支える諸々の文化的装置(「規範」「慣習」「常識」「価値観」「世界観」)が覆されないように、そうした人達を早期に発見して、既存の社会構造の維持に専心するようにその意識を巧妙に操作する。
規範の範囲内では批判的であったり、創造的であったりすることを奨励するが、それを超えて――それを対象化するかたちで――批判的であったり、創造的であったりすることは厳しく禁じる。
今日、われわれは、常に忙しく頭脳を働かせているのだが、こうした文脈の中の長く暮らしていると、特定の領域の話題や問題には意識を向けて積極的に思考をしないことがあたりまえになってしまう(あるいは、そうした領域があることそのものに気づけなくなる)。
思考という行為をはじめるまえの段階で、実はわれわれの思考は、ある特定の領域に向けて方向づけされており、その領域の中にある課題や問題だけを探求するように誘導されているのである。
インテグラル理論においては、21世紀を生きるわれわれの意識を呪縛するこうした集合的なエトスを「フラットランド」と形容している。
簡潔に説明すれば、それは人々に「得になる」ことだけについて思考をするように誘導をするものといえるだろう。
この概念を提唱したケン・ウィルバーが指摘するように、全く「得」にもならない「美」や「善」のために思考をすることについては、一顧だにしないのである(そうしたことについて検討がされるのは、それにより何らかの実利的な得が見込まれるときくらいである)。
成人発達理論的には、人間の思考というものが、文化的な諸条件に呪縛されて営まれるものであることを認識できるようになるのは、「後慣習的段階」(post-conventional stage)に到達してからだといわれる。
インテグラル理論では、いわゆる「グリーン」(Green)といわれる段階がそれに相当するが、正に「後慣習的段階」という名称が示唆するように、これは慣習や常識を逸脱した非常に珍しく、また、会得するのが困難なものである。
われわれは基本的に完全な自由意志にもとづいて思考をしていると思い込んでいるが、実際には同時代の中で「奨励」される形態で思考をしているに過ぎないのである。
そのことを認識して、社会の中で思考や探求の光に照らし出されていない領域にある課題や問題を積極的に探求しようとするのが、「グリーン」(Green)や「ティール」(Teal)といわれる段階である。
発達心理学者のザッカリー・スタイン(Zachary Stein)は、今日の社会の頽廃の根本的な原因を共同体の意思決定を司る「エリート」の腐敗に見出している。
優秀な知性を与えられた人々が徹底して既存の「価値観」や「世界観」の中で「自身の得になる」ことのためだけにしか、あたえられた「才能」を遣おうとしないという現状を告発しているのである。
それは、換言すれば、素晴らしい才能が、ひたすらに慣習的段階の枠組の中で運用されているということであろう。
発達心理学者のSusanne Cook-Greuterは、「ある程度のIQは、高次の発達段階を確立するための必要条件ではあるが、十分条件ではない」と述べていたが、即ち、それは、IQを補完する他の条件がそろわないために、数多くの「優秀」な人達が停滞を強いられているということだ。
共同体というものは、基本的には、現状の均衡を維持するために後慣習的段階の創発を阻害しようとするものであるが、ただ、いっぽうでは、成熟した共同体というものは、そうした在り方が長期的には衰退を招くことを認識しているために、自らの中に「逸脱」を許容する仕組や空間を包含しているものである。
日本の場合には、もしかしたら同質性を志向する同調圧力が高いために、そうしたものをほとんど設けることができていないのだろう。
実際、こうした社会のダイナミクスが個人の発達に大きな影響を与える可能性があることはウィルバーも著書の中で明確に指摘しているところで、そうした洞察は特に日本のような文化には非常に関連性の高いものといえるだろう。

雑感:2月14〜21日


2月21日
USの大学に在学していたときのこと。
一般教養課程の必須授業のひとつに「政治科学」(political science)という授業があり、その101を受けたのだが、そこで紹介された教科書のひとつが、有名なマイケル・パレンティ(Michael Parenti)の著書だった。
今でも覚えているのは、「あなたは政治に興味無いないかもしれないが、政治はあなたに興味をもつだろう」という言葉。
換言すれば、「あなたは政治に関心は無いかもしれないが、政治はあなたを統治の対象としてみなして、いろいろとあなたの人生に介入をしようとするだろう」ということだ。
そうした「介入」にいかに対峙するのか?――という問題について探求をするように大学は学生に求めたのである。
ケン・ウィルバーがインテグラル理論の中で「フラットランド」という概念を用いて批判をしているのは、ひとつには、実利的に「得になる」ことにしか興味・関心を示さず、こうした社会的・政治的な問題と格闘しようとしない態度のことである。
それは、今流行りの言葉で言うと、「教養の欠如」のあらわれと言えるかもしれない。
そして、もう少し端的に言えば、「愛の欠如」に起因する症状ともいえるだろう。
愛する人達にどのような世界を遺していくのかということを少しでも考えようとするならば、こうした問題に無関心であるわけにはいかなくなる。
しかし、それが無ければ、そんなことはどうでもよくなるのである。

 

2月20日
東京藝術大学の奏楽堂で開催されたモーニング・コンサートを聴いた。
後半のブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きながら、あらためて「ブラームスの音楽が、行き場を失ったエロスの懊悩」を描く作品であることを実感した。
ソリストの野口 わかなさんの音は、華麗に歌うものではなく、中域に留まる渋めのものだが、これはこれで作品に合致していたと思う。
ただし、作品には、時として迸るような想いの表出をする瞬間があり、そうしたところではソリストにも一線を超える表現を求めたくなる。
野口さんは、そうした箇所においても、みずからの表現の可能性の限界に迫ろうとするところがなく、そこには欲求不満が残った。
それにしても、この作曲家の緩徐楽章は美しい。
こういう音楽を書けたことで、彼も随分と救われたことだろうし、また、聴いているわれわれも慰められる。

 

2月19日
先日、出版社で開催されたイベントに参加したのだが、講演者間の議論の中で非常に興味深い主題が繰り返し出てきた。
即ち「真に成熟した人はみずからが立脚する物語を脇に置いて、現実そのものを謙虚に見つめようとする」ということだ。
登壇者曰く――たとえそれがどれほど優れた物語であろうとも、現実と相対するときには、それを留保して「ありのまま」に現実を見つめようとする。そして、彼らはみずからの物語が現実の前に揺さぶられたり、否定されたりする中に生まれる自由と解放に喜びを感じることができる。
これは、発達理論的には、「オレンジ」から「グリーン」への移行をはじめるときの認知の深まりを描いたものといえるが、その何と難しいことか……

 

2月18日
インテグラル理論の「フラットランド」という概念だが、それが考案された理由のひとつは、「適応主義」を批判することにある。
「時代や社会がどうであれ、とりあえずそこに適応しておこう、あるいは、とりあえずそこで繰りひろげられているゲームに参加して、成功や勝利をすることが大事である」という「適応主義」に対する批判である。
それゆえ、フラットランドという概念を真に理解している人は、必ずそうした時代の趨勢に抗おうとする姿勢を示すものである。
即ち、「勝つ」ことを無条件に善とする価値観が蔓延することで、そこからはじきだされる人々の感性に注意をしようとするのである。

 

2月17日
今回のパンデミックに関しては――東日本大震災時の福島原子力発電所の過酷事故のときもそうだったが――政権の危機管理能力の弱さが指摘されている。
しかし、この状況をひとつの社会実験として眺めると、全く異なる景色が見えてくる。
こうした状況に大衆がどう反応するのかを観察するためには、素晴らしい「実験場」なのではないか……。
日本人は自らが「被験者」であることを意識せずに、あたえられた「ゲーム」の中であたえられた情報と物語を無批判に受容して、その枠内で反応をしてくれる……。
権力者に対して懐疑の眼差しを向けることを基本的な「常識」として心得ている国では、そうはいかない。
こんなにいい実験場はないのではないか……

「パニック」は治世者にとり最高の機会である。
大衆の意識が正常に機能しているときには実現できない施策を実現するには絶好の機会なのである。
Social Engineeringの要諦は、大衆の意識状態を操作すること。
批判的な思考ができる状態そのものをいかに破壊するかということが肝となる。
そうした能力が発動されない状態を生み出すこと、あるいは、思考能力がプロパガンダの正当化のために運用される状態をつくること――それこそが追求されているのだ。
それゆえ、ひたすらに政府の「無能」を指摘するだけでは、論点を外す可能性がある。
角度を変えれば、状況を放置し悪化させることこそがそもそもの計画なのではないかという視点が必要なのだ。
カキストクラシーを現実として理解することができると、こうした発想は常識となる。
(予想通り、この混乱に乗じて、途轍もない法案が国会に提出されるようである:https://38news.jp/politics/15398

 

2月15日
ニコライ・アレクセーエフ&新日本フィルハーモニー@サントリーホール。
まず「スラヴ行進曲」にやられた。
これほどまでに重い情念と憂愁を背負った曲だったとは……。
冒頭の仄暗い歩みに耳を傾けているだけで、泪が流れてくる。
それでいて、音楽には常に詩情に息づいている。
指揮者の音楽性の高さとNJPの品性をそなえたアンサンブルが相乗効果を生みだしている。
いわゆる名曲コンサートで聴く「スラヴ行進曲」とは全く別次元の音楽だ。
そして、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲であるが、ほんとうに何という作品だろう!!
狂気の時代に正気を保って生きる者が、その心の内で経験する苦悩と懊悩をそのまま音楽にしたような作品だ。
崔 文洙のソロも素晴らしく、あえて歌わずに、まるで薄明の中に漂う声のように、ひたすらに魂の声を奏でる。
NJPの伴奏も充実していて、打楽器群(ハープを含む)の発する暗い音が、そこに無限の悲劇と死の香りを漂わせる。
凄まじい音楽……。
あの時代の中でこういう作品を書くことの危険を鑑みれば、この音楽が正に命を懸けた表現であることが判る。
交響曲第6番は、はじめて生で聴いたが、傑作だと思う。
特に第1楽章は、もう天才だけが見ることのできる世界を垣間見させてくれるような感覚に襲われる。
NJPとの相性も最高で、これは長くつきあう中で少しづつその魅力を明らかにしてくれる作品である。
逆に、第2・3楽章は、音楽に派手な盛り上がりを期待せざるをえない聴衆のグロテスクな感性を嘲笑するような毒を秘めていて、それなりにおもしろいとは思うが、深い感銘はあたえられなかった。
傑作は第1楽章である。
会場はガラガラで、あまりにももったいないと思うが、このような屍臭の漂う音楽が響く大ホールが聴衆で一杯になるというのもおかしなことなので、これはこれでよかったのかもしれない(ただし、NJPの事務局の広報力の弱さはどうにかならないものだろうか……)。
この演奏会を聴きながら思ったのは、その時代の真実というのは、そこに生きた個人の内奥に生まれる真実の感情の中に刻印されるのだなということだった。
社会を覆い尽くすに喧騒はしばらくのあいだは人々の注目を集めるが、それらは忘却されていく。
しかし、個人の心の中に切実に感じられた深い感情は、非常に個人的なものでありながら、集合的な真実をとらえたものとして遺されていく。

 

2月14日
その発言者が信頼に足るか否かを見極めるためには、まずどの話題に着目しているかを診ればいい。
その時代的な文脈の中でとりあげるに価する話題に注目しているのかどうか……ということだ。
そこに注目すると、その人が同時代を規定する「物語」とどのような関係を営んでいるかが視えてくる。

 

吉松とラフマニノフ

久しぶりに東京藝術大学の奏楽堂で開催される「モーニング・コンサート」を聴いた。
年間のscheduleが公開されたときにまず目に飛び込んできたのが、今日の第12回だった。
吉松 隆の傑作「サイバーバード協奏曲」が聴けるという。
これは万難を排して聴きにいかなければならない……

演奏が開まると途端に釘付けになった。
この作曲家のファンであることもあり、この作品を生で聴けるというだけで嬉しいのだが、この最高の音響効果を誇る奏楽堂の空間は、演奏に気品とあたたかみを付与して、一段との演奏の質を高めてくれる。
もう喜悦の泪が溢れてくる。
何という作品の素晴らしさ!! そして、ソリストの五島 知美さんの演奏の何という素晴らしさ!!
この作品には須川 展也や上野 耕平による名演奏があるが、少なくとも、五島さんの演奏を聴いている間は、それらの演奏を完全に忘れることができた。
技術的には全く危なげないのはもちろんのこと、その気迫は凄まじいもので、ときにはまるで格闘家を眺めているように感覚にとらわれた。
周知のように、この協奏曲にはロックやジャズの要素がふんだんに盛り込まれた非常に愉しい作品であるが、そこにはまた青空のように澄んだ躍動と哀しみと瞑想が息づいている。
30分に満たない作品だが、聴いていると体中に感動と興奮が満ち溢れて全身が爆発しそうになる。
今日は正に至福の時間をあたえられた。
伴奏は想像していたよりも小編成だが(第1ヴァイオリンは8人)、山下 一史の指揮する藝大フィルハーモニアの演奏は冒頭より非常に充実しており、心から感激した。
「モーニング・コンサート」は基本的に在学生をソリストに迎えた協奏曲が中心となるが、時として驚愕するような充実した伴奏に出逢うことがある。
今日のも正にそうしたものだった。
そして、今日、会場を満席にした聴衆の高い集中力にも感謝である。

前半だけでもう満腹状態で、後半のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番に関しては、十分な集中力を保てるか心配だったのだが、鈴木 優輔さんのピアノ・ソロの美音に魅了され、これも深い感動をあたえられた。
冒頭の鐘のような音を耳にするだけで、無為に聞き流せない演奏であることがわかる。
決して感傷に耽溺することなく、比較的に早いテンポで音楽を奏でるのだが、ひとつひとつの音の粒の中に心を揺さぶる力が息づいているために、全く薄味にならない。
素晴らしいセンスの持ち主だと思う。
また、伴奏が、吉松の伴奏をさらに凌駕するほどに圧倒的な音楽を奏でる。
特に第1楽章の盛り上がりの轟然とした響きにはドキリとした。
昨年の日本音楽コンクールの本選で同曲を続けて2回ほど聴いたが、今日の演奏はそれらの演奏を質的に完全に凌駕していたと思う。
鈴木さんの演奏を聴いていると、この作品が作曲者の魂の蘇生と勝利の凱歌を奏でる音楽であることが良くわかる。
数十年も聴きつづけて、少々聞き飽きていたこの作品の素晴らしを見直させてくれた。
これまた感謝である。

「聴く」ことについて

 

わたしは普段は企業組織に於いて人材育成や組織開発の業務に携わっているが、そうした活動に従事する中で最も活用しているのが「聴く技術」である。
もちろん、業務の中には、それ以外の多種多様な要素が存在しているのは事実である(例:企画について調査・構想・設計・実施すること)。
しかし、少なくてもわたしの場合、それらの活動の中心にあるのが「聴く」という行為である。
実は、この「聴く」ことに関して自分を最も鍛えてくれたのが音楽である。
特にクラシック音楽は、聴くことの奥深さを最も訓えてくれた。
クラシック音楽に於いては、音楽を聴くとは、結局のところ、その音響を聴くことだけでなく、そこに籠められている意味や意志や真実を聴くことにほかならない。
音響としての音楽は聴覚さえあれば感覚的にとらえることができるが、その音楽が内包しているものは、心と魂で聴くことしかできないのである。
そういう聴き方をしていると、はじめは何も語りかけてこなかった作品があるとき突然に深い意味を語りはじめてくれる。
また、ときには、あたかも自身が作曲者になったかのように全ての音符の意味が直接に感得できることさえある(これは正にエイブラハム・マズローが「至高体験」と呼んだものであろう)。
11〜12歳の頃にTVで放映されていた『スター・ウォーズ』を観たときに劇中に流れていたジョン・ウィリアムズの音楽に感激して以降、40年近くにわたりオーケストラ音楽を夢中に聴き続けてきたが、現在の日々の仕事を支えてくれる中心的な技術は基本的にこの過程で育まれたものである。
後年、いわゆる「傾聴」に関する解説書を読んだとき、そこに書かれていることが、真剣に音楽を聴くことにくらべれば、あまりにも「常識的」であり、また、あまりにも「表層的」であることに呆れたが、そのように思えたのも、ひとえに音楽の恩恵なのである。
音楽を聴くことは、ある意味では、他者(作曲者と演奏者)の中に開示された真実に触れることだが、ときとして、そうした行為を通して、われわれ鑑賞者の存在そのものが変容してしまうことがある。
実際、自身のことを振り返っても、そうした演奏会を何回か経験している。
それほどまでに音楽には人間の存在に深く作用する力が息づいているのである。
また、これは特に演奏会場で生の演奏に触れると肌感覚で判るのだが、音楽には、会場にいる人間の意識の状態を一瞬にして変えてしまう超常的な力が宿っている。
その演奏者が音楽を奏ではじめてほんの数秒のあいだに、大会場の空気が変質してしまい、また、聴衆の目に自然と泪が溢れてくるということは、確かにあるのである。
たとえば、個人的な体験でいえば、2017年に東京オペラシティで開催された日本音楽コンクール本選のバイオリン部門に於いて、当時高校生の大関 万結さんがシベリウスの協奏曲を演奏したときのことを鮮烈に憶えている。
実はこの本選ではたまたま3人のソリストがこの作品を選んだため、われわれは同じ曲を続けて聴かされることになり、少々辟易していた。
しかし、後半に登場した大関さんが第1楽章のソロを弾きはじめると、会場の空気は一変してしまい、わたしも途轍もないものに打たれた感覚に襲われて、思わず前に乗り出してしまった。
面白いことに、伴奏を務めていた神奈川フィルハーモニーの音質も途端に生命力を増して、正に協奏曲の名に相応しく、この若いソリストの清冽な響きと四つに組んで、高い燃焼度の音楽を奏ではじめた(もちろん、演奏者達は、それまで手を抜いていたわけではないだろうが、芸術とはそういう容赦の無いものなのだ)。
国内最高峰のコンクール本選に勝ち残ったソリスト達であるから、彼等が非常に高度の技術を有しているのはいうまでもない。
しかし、こうした舞台に於いて窮極的に求められるのはそうしたところではない。
端的に言えば、それは、聴衆の心と魂を揺さぶることができるのかどうかということだ。
そうした意味で、大関さんは、他の年上の演奏者を完全に圧倒して、われわれ聴衆の存在そのものを変容させてしまったのである。

こうした奇跡的な舞台に立ち会うと、われわれ聴衆に求められるのは、「聴く」ための技術を鍛錬しておくことだと強く思う。
われわれがそうした鍛錬を怠れば、われわれを神聖な領域につなげてくれる優れた芸術家を埋もれさせてしまうことになる。
それは、社会にとり、そして、人類にとり大きな損失である。

研究生時代に哲学者・中村 雄二郎の著書を集中的に読んだことがあるのだが、その中に「古来より神の声は“聴く”ものとして認識されていた」という意の文章があり、今も印象深く記憶している。
われわれ人間にあたえられている器官は、この現象世界だけでなく、それを超えた神聖な世界に開かれているが、正に中村が述べるように、中でも「聴覚」はそうした特性を顕著に有しているように思う。
幸いなことに、東京は世界最大の音楽都市である。
これほどまでに優れた演奏会場が複数あるだけでなく、世界水準のオーケストラがこれほど多く活躍している都市は他に存在しないと思う(また、近年は地方都市の団体も水準を上げ、素晴らしい活動を展開している)。
そうした意味では、内的探求を深めていくためには、われわれは最も恵まれたところに暮らしているといえる。

 

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表現意欲の欠如


11月21日
第60回 東京藝術大学シンフォニー・オーケストラ 定期演奏会 @ 奏楽堂
ベートーヴェン:三重協奏曲
ベルリオーズ:幻想交響曲
指揮:迫昭 嘉

いつものことながら、東京藝術大学の在学生のレベルの高さに感心させられる。
技術的に優秀であるだけでなく、他の音楽大学の演奏にはないどくじの品格の高さがある。
前半のベートーヴェンの三重協奏曲では伴奏の響きの充実度に驚かされたし、また、後半のベルリオーズの幻想交響曲では、冒頭の弦合奏の清澄な響きを耳にしたときには、この作品がまぎれもなく若い青年のいじらしい音楽であることを思いださせてくれた。また、交響曲の後半では、どれほど大きな音響が鳴り響いても、音楽を構成する要素が磨り潰されることなく、明確な輪郭を維持して響いてくる。その見通しの良さに感服した。

但し、「三重協奏曲」は、この作曲家としては内容的に乏しい作品であることはあきらかで、3人のソリストの部分も比較的に大人しく書かれているために、われわれが協奏曲に期待するような丁々発止としたオーケストラとのやりとりを聞くこともできない。また、3人のソリストもいわゆる「攻め」の演奏をする人達ではないので、古典的な拡張は維持されているのだが、そうした作品の弱点を補うものではなかった。

「幻想交響曲」に関しては、個人的には、特に中間の第3楽章が難しいと思っている。ここを面白く聴かせることができないと、演奏全体が弛緩してしまう。そこは指揮者の腕の魅せどころである。
そうした意味では、今日の演奏の課題は、正にここにあったと思う。指揮者の迫氏は、正攻法の解釈をする人だが、これだけ狂気を秘めた作品でありながら、臨界を超えたところに演奏者を誘おうとする表現意欲が乏しく、聴いていて、迫氏がこの作品をとおして果たして何を表現したいのかということが伝わらずに終わった。

先日のブラームスの交響曲第1番を指揮したジョルト・ナジの過剰なまでに作為的な指揮にも大いに不満を覚えたのだが、このところ指導教員達の指揮者としての不甲斐無さが目につく。
これだけたくさんの聴衆を前にして演奏する貴重な機会なのだから、舞台芸術の醍醐味を体験させてあげる「魔術」を指導者が発揮しなければ、教育をしたことにはならないのではないか……。

 

11月22日
新日本フィルハーモニー
指揮者:キンボー・イシイ
チェロ:山崎 伸子
@ 墨田トリフォニーホール

シューベルト:交響曲第1番 ニ長調 D82
チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲 op. 33
ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調 op. 67 「運命」

恐ろしく熱量の低い「運命」を聴いた。
演奏会本番直前の指揮者交代もあり(当初は太田 弦が予定されていた)、少し嫌な予感がしていたのだが、これほどまでに圭角が無く、表現欲求の希薄な「運命」を初めて聴く。
この団体の上質な響きを素材にして、この傑作をどう料理するかということが、指揮者には問われるはずだが、これほどまでに問題意識が希薄だと、もう「ムード音楽」にしか聞こえない。
しばらくまえに晴海のトリトン・スクエアで東京ユヴェントス・フィルハーモニーによる同局の超絶的な名演を聴いているので、余計にそう感じるのかもしれないが、このしばらくのあいだNJPの演奏会に通いつづけて、最もつまらない演奏会だった。
前半の「ロココ風の主題による変奏曲」でソロを務めた山崎 伸子の演奏は、初めて生で聴くが、端正ではあるが、技巧的に安定性を欠き、また、全体的に響きが小ぢんまりとしていて、聴衆の心を揺さぶってくれない。
端的に言えば、音楽が舞台の上に留まってしまい、訴求力をもって客席に届いてこないのである。
たまたま昨日も奏楽堂で同じ東京芸術大学の教員をソロに迎えた「三重協奏曲」を聴いたのだが、彼等の演奏にも同じような印象を抱かされた。
少し意地悪く言えば、先生には誉められはするのだが、舞台人として要求される圧倒的な表現意欲を生々しく息づかせているかといえば、甚だ疑問があるのである。
まあ、彼等はそれでいいとしても、彼等の下で修行をしている生徒さんのことは心配になる。
但し、山崎氏がアンコールで弾いた「鳥の歌」は素晴らしいものだった。
その掠れ勝ちな音の中から、切々とした祈りの歌が確実に聞こえてきた。
いずれにしても、今日の演奏会で問題に思ったのは、21世紀の日本に生きるわれわれ聴衆にあえてこれらの作品を届けることの意味づけが演奏者達によりまともに為されているようには感じられないということだ。
そうした問いかけが無ければ、シューベルトもチャイコフスキーもベートーヴェンも途端に埃を被った古臭い作品に堕してしまう。
あちこちの楽団では「アニヴァーサリー・イヤー」ということで、シューベルトやベートーヴェンの作品を積極的にとりあげているが、そうしたことよりも、むしろ、演奏者がそれらの作品をとりあげる内的な意味づけを徹底的にしてくれていることの方がもっともっと重要である。
キンボー・イシイの音楽からはそうしたものは全く聞こえてこなかった。

 

二つのマーラー演奏会

11月14日
藝大フィルハーモニー定期演奏会
東京藝術大学奏楽堂
指揮:高関 健

奏楽堂で高関 健&藝大フィルハーモニーの演奏で藤倉 大の新作とマーラーの交響曲第5番を聴いてきた。
まだあまりひろく認知されていないが、高関 健という人は非常に優れた指揮者だ。
数年前に彼の指揮のもと、東京藝術大学の在学生により編成されたオーケストラの演奏で、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を聴いたときには、そのあまりに素晴らしさに度肝をぬかれた。
実際、そのときの感動は、その少し前にロンドンで聴いたサイモン・ラトルの指揮するLSOの演奏会の感動を完全に凌駕するほどのものだった。
その後も奏楽堂で在学生をソリストにむかえた演奏会でたびたび高関の演奏に接しているが、その見事な指揮技術にも感心させられるが、それ以上に、全体のバランスを毀すことも厭わずに、重要なところで表出する先鋭的な表現意欲に感服させられている。

今回の演奏会では、先ず話題の作曲家・藤倉 大の新作が演奏された。
個人的には、非常にありがちな「現代音楽」の作品の域を出るものではないと思った。
少しアンリ・デュティユーの作品を想起させたが、後半に作品が盛り上がっていくと、そこに清涼な空気が吹き抜け、そうしたところに藤倉の独特の魅力が感じられた。
とはいえ、こうした作品は結局は純粋に音響的な実験をしているだけのものなので、それ以上の感動はあたえてくれない。
プログラムを読むといろいろと解説が書かれているが、そうした作曲者の目論見に真面目につきあおうとも思わないのである。
演奏会にいくと、こうした「現代音楽」の作品が前座で演奏されるので、いろいろと聴かされるのだが、ほとんどの場合において、なんとも空虚な時間が過ぎていく。
今日もそうした感覚がつきまとった。

後半のマーラーの交響曲第5番はたいへんな熱演だった。
特に第4楽章は絶美の名演だったと思う。
常にデリカシーを保ちながら絶唱する弦合奏に身を浸しているだけで、作曲者がこのときに享受していた束の間の至福が感じ取れ、自然と涙が出てきた。
また、ハープは、単に美しいだけでなく、聴き手の心臓を揺さぶるほどのドキリとするような深い音を奏で、陶酔的な愛の中に漂う死の香りを見事に表現していた。
この作品では、トランペットをはじめとして、全編金管楽器が大活躍するが、重要なところで大きな事故が起こってしまったとはいえ、藝大フィルハーモニーの演奏者は大健闘していたと思う。
これだけの高水準の演奏能力をそなえているのであれば(また、これほどまでに素晴らしい演奏会場をもっているのだから)、もっともっと社会に存在感を示してもいいのではないだろうか……。

ところで、これは演奏との優劣とは全く関係が無いのだが、この作曲家の交響曲の中では、この作品は最もまとまりが欠けている作品であることを思い知らされた。
初期の交響曲とくらべると非常に私小説的な性格が強いために、マーラーという個人の卑近ともいえる感情の大袈裟なドラマにつきあわされている感覚がつきまとうのと、その起伏があまりにも極端に躁鬱的なものであるために、陰影のようなものを全くあじあわせてくれない。
そこに嘘が無いために聴いていられるが、果たしてそれほど完成度の高い作品であるかどうかといえば、そうとはいえないのである。
また、第3楽章と第4楽章は特に冗長で、あきらかに必要な推敲を怠っているようにしか思えない(また、これらの楽章においては、音楽が非常に錯綜するために、しばしば、音楽の流れそのものが掴めなくなることがある)。

11月16日
東京交響楽団定期演奏会
サントリー・ホール
指揮:ジョナサン・ノット

今度こそはマーラーの交響曲第7番を好きになれるのでは……と期待したのだが、残念ながら、今回も全く心に訴えてこなかった。
確かに「興味深い」作品ではあるのだが、これほどまでに作品が冗長だと、途中までくると付き合いきれなくなり、退屈してしまった。
あえていえば絢爛豪華ではあるが、ひどくノッペリとした屏風や壁画を眺めさせられている感覚がつきまとう。
大編成のオーケストラが巨大な音響を奏でるが、それが真の意味の音楽に昇華されないままに終わってしまう。
数日の間にこの作曲家の交響曲を二回聴いたが、あらためて中期以降の作品に関しては相性の悪さを実感した。
マーラーの場合、青年期の憧れと夢を失いはじめると、途端に作品が中年期の凡庸な苦悩を大袈裟に吐露するだけのものに劣化するような気がしてならない。
また、悪いことに非常に高い「能力」があるために、あたかもそうした内容的な空疎性を覆い隠すかのように、作品は窮極的なところまで技巧を凝らして書き込まれ肥大化してしまう。
特に第7番の場合、あれほどまでに壮麗な音響が鳴り響いているのに、そこに心の内から真に迸りでるものが感受できないというのは、あまりにも皮相である。

逆に前半のベルクの「管弦楽のための3つの小品」は非常に興味深く聴けた。
決して好きな種類の音楽ではないが、少なくとも昨今の音響的な実験に傾斜した「現代音楽」とは異なり、内的な探求の痕跡が深く刻み付けられており、まるで謎をつきつけられているような感覚に襲われる。
休憩中に外に出て思わず夜空を見上げてしまった。

大評判のジョナサン・ノットは生ではじめて聴くが、確かに素晴らしい指揮者だと思う。
いわゆる天才性のようなものは感じないが、表現意欲が非常に高く、その熱意と情熱が奏者に確実に伝わっている。
先日、畏友が「指揮芸術とは本質的には手話のそれなのです」と述べていたが、ノットの指揮は正にそうで、あの一線をこえた気迫ある指揮振りは稀有なものだと思う(たとえば、コンクールで高く評価されてしまう仕事上手の優等生的な指揮者のそれとは全く異質のものである)。
東京交響楽団は金管セクションに少々弱さがあるが、総じて大健闘で、これからさらにアンサンブルの次元を上げていける「伸び代」を感じる。
心から応援したい団体のひとつである。