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雑感 - 『君の名は』・演奏会

先日、ようやく新海 誠監督の『君の名は』を観ることができた。

素直に感動した。そして、この作品がひとつの社会現象になったことに納得感を抱いた。
端的に言えば、作品は現代人の等身大の霊性(spirituality)を見事に描いていると思う。
自己の存在を意味づけるためのコスモロジーを示してくれているといえるだろう。
周知のように、現代社会においては、われわれの存在を根源的なかたちで意味づけてくれる社会的・文化的な資産が半ば完全に失われてしまっている。
たとえば、作品の中でも示されているように、主人公達の日常を占める活動(受験勉強や就職活動)は、われわれがこの世界に生まれてきたことに根源的なかたちで意義や価値をあたえてくれるものではない。
つまり、われわれの「魂」や「霊」といわれる領域に全く関係のない殺伐とした営みによって、われわれの日常は占められているのである。
そうした状況は、都会であれ、田舎であれ、ほとんど変わることはない(気を紛らわすために用意されている装置が異なるだけである)。
現代社会の特徴をあらわす言葉として、しばしば「閉塞感」という言葉が挙げられるが、その本質的なものとは、このように時空を超えた領域や文脈にたいして半ば完全に意識を閉ざしている現代社会の根源的な貧困に起因するものとはいえないだろうか……。
大多数の識者は、そうした閉塞感を「打破」するために、これまでよりもさらに懸命に日々の経済活動に邁進するように人々を鼓舞するが、それは、決してわれわれを救済してくれない表層的な領域に人々を駆り立てることでしかない。
もう少し懸命に努力をすれば、現代の不毛な世界は再び意味や意義を湛えたものに変貌するはずだ――そんな的外れの主張の暴力にわれわれは恒常的に曝されているのである。
アメリカの思想家・ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、そうした発想を「フラットランド」(表層主義)と名付けて、「そうした倒錯した発想は、われわれに底の浅い水溜りに頭から飛び込むことを奨励している」と批判している。
そうした狂気に恒常的に囲まれていれば、精神の羅針盤に混乱を来すことになるのは当然のことだろう。
こうしたことを考えると、この作品が、あたかも清涼剤のように、われわれ現代人の精神の深層に働く羅針盤を回復させてくれるような感動と洞察をあたえてくれるものとして受容されたのは、自然なことだと思う。
こうした作品を観ると、あらためて、「ファンタジーは最高の社会批判となりえるのだ」というミヒャエル・エンデの言葉を思い出される。(6月21日)

 

 

ロンドンのRoyal College of Music(RCM)の在学生のオーケストラ・RCM Symphony Orchestraの演奏会に訪れた。
夕刻にCovent Gardenで遅い昼食を摂り、その後Tate Modernに立ち寄り、そこから地下鉄でSouth Kensingtonまで移動して、RCMに徒歩で向かった。
演奏されたのは、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」とバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、そして、リゲティの「Lontano」である。

RCMは、有名なRoyal Albert Hallの目の前にある実にこぢんまりとした学校だが、錚々たる著名音楽家を輩出している(後で気づいたのだが、敬愛する作曲家・James Hornerも在学していた)。
会場のAmaryllis Fleming Concert Hallは、昔の体育館のようで、演奏会を開催するときには、床にパイプ椅子を並べて体裁を整えているような粗末な施設だが――ただし、天井に透明の反響板が設えてある――音響は豊かである(これにくらべると、日本の音楽大学の施設の充実していること!!)。
演奏の素晴しさもあり、冒頭のドヴォルジャークの協奏曲の演奏が開始されたときには、その弦の響きの美しさに思わず涙ぐんでしまった。
ただし、バルトークの作品のような大編成の作品には、会場が小さ過ぎて、音が飽和してしまい、どのような音楽なのか解らなくなってしまう。
くわえて、当日は、バルトークに関しては、金管が随分と荒れており、それもそのことに貢献していたようだ。
この日の白眉は、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲であった。
もしかしたらこの作品を生で聴くのは初めてかもしれないが、あらためてこの作曲家の偉大さをおしえられた。
そして、この作品が古今東西のチェロ協奏曲の王者と言われることに納得した。
作品を貫くのは郷愁だが、それは、換言すれば、年齢を重ねて、自己がとりかえしのつかないものを抱えた存在であることを認識するときに生まれる後悔の念ともいえるだろう。
そして、作品をひときわ魅力的なものにしているのは、そうした想いを微笑みと共に超克していこうとする意志である。
それは、世界にたいする根源的な信頼とでもいえるものである。
RCM Symphony Orchestraの演奏は、こうした作品の魅力をあますところなく表現していた。
そして、こうしたことを、これから将来に向けて羽ばたいていこうとする若い青年演奏家達におしえてもらうというのも、なんとも不思議な感じである。
感謝である。(6月30日)

 

 

東京オペラシティで国立音楽大学の学生オーケストラによるメシアンの「トゥーランガリア交響曲」を聴いた

なにぶん帰国の翌日で時差呆けの状態なので体調的にキツかったのだが、こうしたときでないと、こういう作品に触れることもできないので――それほどひんぱんに演奏会でとりあげる作品ではない――心待ちにしていた。
演奏は実に素晴らしいものだった。
実に不思議な音楽である。
個人的には、あたかも鉱物の響きで構成された作品というような印象をあたえられる。
正直なところ、構成的に随分と冗長なところのある作品だと思うのだが、忍耐強く耳を傾けていると、不協和音がこの世の清濁併せ飲んだ美として心の中に鳴り響いてくる。
また、一聴するとひどく拙いように聞こえる旋律が深い叡智を蔵した旋律として響いてくる。

昨年の暮れより、音楽大学主催の演奏会に脚を運ぶようにしているのだが、在学生の演奏には独特の魅力がある。
たとえば、秋頃に聴いた東京藝術大学の演奏会などは、その直前にロンドンで聴いたサイモン・ラトル率いるロンドン交響楽団の演奏会より何倍もの感動をあたえられた。
それ以降、その理由についていろいろ思いを巡らせているのだが、ひとつには作品にたいする理解を深めようとする現在進行形のとりくみが自然と生み出すことになる開かれた謙虚さと誠実さのようなものが伝わってくるのだと思う。
くわえて、優れた指揮者・指導者の存在も大きいと思う。
この日の指揮は、準・メルクルが担当していたが、その非常に誠実な姿勢が舞台姿からも如実に伝わってくる。
舞台人としての活動だけでなく、教育者としてこうした人達が果たしている役割の価値は測り知れないものだと思う(7月3日)

 

 

東京芸術大学の奏楽堂で開催された「モーニング・コンサート」にはじめて行ってきた、ほぼ満席である。驚いた。

在学生をソリストに迎えて2曲の協奏曲が演奏された。
個人的には、久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番をじっくりと聴いて、ひどく感動した。
実はあまり得意な作曲家ではないのだが、特にこうした若い頃の瑞々しい作品は絶品だと思う。
とりわけ、第二楽章にみられるように、この作曲家の奏でる高貴な旋律には深く心が震える。
たしかに、強靭な打鍵の男性的な演奏もいいが、もしかしたら、この作品の魅力というのは、この演奏会の武岡 早紀さんの演奏のように、常人の等身大の演奏をとおして伝わるものなのかもしれない。
いずれにしても、このような作曲家の若い頃の魅力的な作品に触れると、ある意味では、音楽というのは若い頃だけに人間の内に生まれる感情を糧として成立する芸術なのではないかとさえ思えてくる。
往々にして、作曲家の人生後半の作品は、技巧的に優れてはいるが、ここに息づくような瑞々しさが失われるように思われるのだ。(7月6日)

 

「現代音楽」と職人文化

先日、東京芸術大学の奏楽堂で「創造の杜」と題された現代音楽の演奏会が開催されたので、聴いてきた。
目当ては黛 敏郎の『曼荼羅交響曲』だったのだが、二人の在学生の作品もなかなかいい作品だった。
やはり現代音楽を聴くときには、「どのような音楽が飛び出してくるのだろう」という独得のワクワク感がある。
数週間前に同じ会場でシューマンの交響曲を聴いたのだが、そのときの退屈感とくらべると(もともとロマン派の作曲家にはそれほど惹かれないのだが、特にシューマンは苦手である)、同じ「クラシック音楽」といわれる音楽でも、体験の質が全く異なることに気づかされる。
当日 演奏された四作品の中で最もつまらなかったのは、皮肉なことに、大家と目される小鍛冶 邦隆氏の作品で――配布された資料の作曲者の意味不明な解説に象徴されるように――アカデミアという閉じた世界の中で「身内」に向けて語ることしかせずに長年月を過ごしてきた芸術家の成れの果てをみせつけられるような気がした。
二人の在学生に関しては共に才能を感じさせられたが、とりわけ、久保 哲朗氏の作品は、非常に演奏効果に富んでおり、ときに花園にいるような感覚に襲われた。

ただ、この演奏会を聴いて――そして、現代音楽之演奏会を聴いてしばしば思うことなのだが――ひとつだけ苦言を呈すとすれば、いわゆる現代音楽といわれる作品の語法が、作曲者はいろいろと工夫をこらしているのだろうが、どれも似通ったもので、非常に陳腐化しているという印象をあたえられるのも事実である。
また、いわゆる「大衆的」であることを意固地に拒絶しているために、逆に、そうした姿勢そのものがありきたりのものになっているように思うのである。
将来的な可能性を秘めた若い作曲家の作品と、「現代音楽」という閉じた世界の中に長く安住して完全に干からびてしまったベテラン作曲家の作品を並べて聴きながら、それらの若い作曲家達が後者と同じ道を辿らなければいいなあと――そして、そのためには、あまりに「現代音楽」の世界に安住することなく、そこから越境していく勇気をもってくるといいなあと――思ってしまった。

ちなみに、黛 敏郎の作品は、期待ほどではなかったが、それなりに愉しませてもらった(個人的には、この作曲家の「手癖」のようなものが散見されるので、気にはなる)。
響きが骨太で、作曲者がみつめている世界が非常に本質的(精神的)なものであることが明瞭に感得できる。
これは、芸術家としての問題意識の次元が高いとも、志が高いともいうことができると思う。
このことは、この日に演奏された他の作曲家の作品とくらべると非常にあきらかで、端的に言えば、彼等は音の細工師としての要素がつよく、感覚的な領域の向こうにあるものをどれくらい視ることができているのだろうという素朴な疑問が沸いてくる。
もちろん、それはそれで「芸術とは精神的なものでなければならない」という価値観の呪縛から解放されているとも言えるのだが――そして、そうした在り方を自由度が高いとも言う向きもあるのだろうが――そうした態度そのものが既に陳腐化しているように思うし、また、時代や社会の中で作曲者としての自己の役割について思いを巡らせたときに、果たしてそうした在り方に安住していいのだろうか? という疑問が沸かないのだろうかと素朴に思う。
換言すれば、音楽の世界においては、役割上 演奏者が常に聴衆に寄りそうことを求められるのにたいして、作曲者達は往々にして「技」をみがくことだけに意識を狭めてしまい、語りかけるべき他者の存在を見失ってしまうのではないかと危惧するのである。

こうした課題というのは、音楽界のみならず、いわゆる専門的な技術の鍛錬を軸にしている職人文化の構造的な課題なのだと思うが、演奏会で披露された作品を聴くかぎりでは、その解決の糸口はみえてこないというのが正直なところである。
固定された専門領域では驚異的な能力を発揮するが、その領域の「パラダイム」と距離をとり、発想していくということはできないというのは、非常に普遍的な問題だと思う。

第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス @ TOPPAN HALL

先日TOPPAN HALLで開催された「第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス」を観に行った。
講師は著名なチェリストのマリオ・ブルネロ(Mario Brunello)である。
桐朋学園大の3人の優秀な学生が、ひとり1時間程の持ち時間をあたえられ、舞台上でブルネロ氏のレッスンを受けるのだが、その指導内容はわたしのような音楽の門外漢にも非常に刺激的である。
もちろん、奏法等に関する技術的な領域の指導に関しては、ときに着いていけないところもあるのだが、少なくとも、演奏を技術的に正確に弾くことを主眼にした段階から、聴衆の存在を前提とした芸術的な表現に高めていくことに関する指導に関しては、音楽以外の領域にもあてはまる非常に普遍的な言葉が次々と発せられるので、非常に勉強になる。
3人の生徒さんはいずれも優秀な演奏家なのだが、ブルネロ氏は、彼等にたいして、一貫していわゆる「自己著述能力」(self-authorship)を獲得することの重要性を伝えようとしていたように思う。
たとえば、次のような言葉はとても印象的である。

「そういう演奏は学校では褒められるかもしれません。しかし、それは学校向けの演奏です。しかし、ここはこのように聴衆がいるコンサート・ホールですので、そういう演奏では通用しません。」

つまり、作品の本質的なものをたいせつにしながら、しかし、作品をとおしていかに自己を表現するのかという難題を突きつけているのである。
そして、それは、教師や学者に代表される外部の権威的存在に承認されるような「正しい」演奏をするのではなく、自己の感性をとおして――自己の内に蓄積してきたもの全てを投じて――作品を表現することを鼓舞である。
傍から見ていても、なかなか厳しいレッスンなのだが、それをとおして目の前の生徒達の音楽が変化していくのを眺めるのは、それだけで感動的である。
そして、そんな光景を眺めながら思っていたのは、自己の「声」を表現することを決意するということが、どれほど難しいことであるかということであり、そして、そのために、このようにして、それを日々実践している指導者的存在に触れることが実に重要なことであるかということである。
最終的には唯一無二の自己の声を発見することが求められるとしても、少なくとも最初の段階においては、こうした随伴者と一緒に橋を渡れることの価値は計り知れない。

また、ひとりの音楽愛好者として、今回のイベントをとおして訓えられたのは、演奏者の「造詣力」というものが、いかに緊密に自己の声を見出すことに関係しているのかということである。
たとえば、単に機械的に楽譜の休符を守るのでなく、それが前のセクションと次のセクションをつなぐ生きた静寂となるように、いかに間を取るのかということに関するブルネロ氏の指導に耳を傾けていると、演奏者が作品の構造――そして、全体の中でのそれぞれのセクションの意味や役割――をいかに洞察するかが、その演奏者の造詣力に直結していることを実感する。
そうした洞察が演奏者に作品を生きたものとして再現することを可能とするのである。

いずれにしても、どれほど教育制度が整えられていても、そこで指導にあたる者が、作品の陰に隠れて、生徒に正しく演奏することしか訓えていなければ、生徒は自己著述的な段階に至ることはできない。
また、いずれはそうした指導者の存在が邪魔になることになる。
生徒にとり、この発達上の橋を渡ることがいかに難しいことであるのか、そして、指導者にとり、そうした生徒の成長を支援することがいかに難しいことであるのかを実感させられるクラスであった。

 

備忘録として、当日のメモを記しておきたい。

 

課題曲:Beethoven: Cello Sonata No. 4 opus 102-1

・性格の異なる二つのセクションのあいだに存在する「間」(空白)をいかに演出(創造)するか?
・間とは、単に音を出さないでいることではなく、ひとつのセクションが完結して完全な静寂に収束する音楽の一部であり、また、それにつづく躍動的なセクションが爆発的に生まれるのを聴衆が息をこらして待つ濃密なところでもある。そうした聴衆の心理に意識を向けて演奏者は間を演出する必要がある。
・“There is no music here. Only power. No beauty” ベートーヴェンの音楽には、美しい旋律を奏でるの拒絶して、ただ原初的な音の塊そのものが鳴り響くところがある。そういうところでは、演奏者はいわゆる「音楽」を奏でることにたいする執着を捨てなければならない。また、そうしたところでは、ブルネロ氏は「余裕」をもって演奏することができない状態にあえて演奏者を追い込もうとしていたように思われる。最終的には、演奏者は自力で自己をそうした状態に追い込んでいけるようになる必要があるわけだが、真に作品の本質につきあうためには、ときとしてそうした状態に自己を高める必要があるのである。
・こうした水準で表現ができるためには「体」が重要であるように思われる。20歳という年齢は、実はまだまだ身体ができあがる過程にあるのではないかと思われる瞬間もあった。

 

課題曲:Gaspar Cassadó: Toccata in the Style of Frescobaldi
・「あなたはこの音楽を理解していない」
・楽譜を間違いのないように演奏できることに腐心しているようだが、それは作品の本質と関係のないところで優れているに過ぎない。
・聴衆と対話をしながら――聴衆をエンターテインしようとしながら――演奏ができているのか? そして、そのために必要とされるケレンを持とうとしているのか?
・即ち、それは作品を自分のものとするということである。そして、それを鍛錬することが演出力=造形力を鍛錬するということである。
・「それは学校用の演奏です。しかし、ここにはこうして聴衆の方々がいてくれるコンサート・ホールです。ここではそんな演奏は通用しません」

 

課題曲:Bach: Cello Suite No. 5 Sarabande and Gigue
・「無伴奏の作品を演奏するときには、演奏者はその伴奏を自己の意識の中で奏でるといいのではないか(わたしはそうしている)。そして、そこにはそれまでに自身が蓄積してきた経験や知識や教養の全てを投入する必要があります」

 

発達がもたらしてくれるもの……(4)

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、「インテグラル」(統合的)であるとは「政治的」であることだと発言している。
いろいろな解釈ができる発言であるが、個人的には次のようにとらえている。
即ち、後慣習的段階――ウィルバーは、ここで個人は統合的な発想ができるようになると述べて、この段階をインテグラル段階と形容している――に到達することで、われわれは、個人の意識というものが時代や社会の価値観や世界観に深く影響されるものであることを認識して、そうした影響が具体的にどのような集合的な機構や制度をとおして行使されているのかを批判的に探求しようとするようになる。そして、そこに何等かの不正義があるときには、積極的に問題提起をしようとする。
また、後慣習的段階においては、社会には、ある特定の世界観や価値観が信奉されることをとおして、自然とその利益を享受する者達とそうでない者達が生まれ、社会の機構や制度はしばしば前者の利益を保護・増幅するかたちで機能するものであるという厳然とした事実を認識するようになる。そして、そうした認識にもとづいて、同時代の中で排除・抑圧されている存在や視点に意識を向けて、そうした排除・抑圧がいかなるメカニズムやダイナミズムをとおして温存されているのかを探ろうとする。つまり、社会の主流の対話の中でとりあげられない事実や真実に目を向けて、それらを包含したものとしての全体性を把握しようとするのである。
こうした発想は、単に「右派」と「左派」や「保守」と「急進」をはじめとする対極の両方の意見に耳を傾けようとするだけでなく、そのどちらにも考慮されないこと――また、ときには、そうした対立軸があることで排除されてしまうこと――にも意識を向けようとする。
端的に言えば、慣習的段階における統合的思考が、一般的に――たとえば教科書や報道等において――対極なものとしてあたえられている立場や視点の両方を考慮・包含しようとするものであるのにたいして、後慣習的段階における統合的思考は、そもそもそうした対立構造そのものが――少なくとも潜在的には――何等かの真実や事実を排除・抑圧するものであることを察知して、そうした所与の思考・発想の枠組そのものを超克(脱構築&再構築)しようとするのである。
換言すれば、後慣習的段階の発想とは、既存の価値観や世界観――及び、それに付随する社会的な機構や制度――そのものを批判的・構造的に検証することをとおして、さらなる全体性を回復しようとするのである。
当然のことながら、それは既存の権力構造・支配構造にたいする辛辣な視点を伴うことになり、そうした意識に立脚した思考や行動は半ば不可避的に政治的な性格を帯びることになるのである。

このように、慣習的段階の発想が既存のゲームにおいて成功しようと策を練るのにたいして、後慣習的段階の発想は既存のゲームをゲームと看破して、必要であれば、それそのものに異議を唱えることになる。
真剣にゲームに興じている者には、そもそもそれがゲームであることに気づくことすらできず、全存在を賭して、そこで勝利を収めることに腐心することになる。他者がゲームの終了を告げる笛を鳴らしてくれるまでは、自力ではプレイを終えることすらできない。
後慣習的段階とは、はじめてみずからの意思でそうしたゲームから降りることができる段階であるとさえいえるのである。

今日の社会状況は、近年の諸々の論考の中でケン・ウィルバーも指摘しているように、既存の価値観や世界観――そして、それに立脚した支配構造――が徐々にその「正当性」(legitimacy)を失いはじめている時代であるといえる。
その背景には、いうまでもなく、インターネットをとおして自由に情報が流通するようになり、これまでに排除されていた情報に人々が比較的に簡単にアクセスできるようになったという事情がある。
日本においては、「記者クラブをはじめとする中央管理機関の指示を受けて、「大本営発表」を半ば機械的に発信することで成立していた報道体制にたいする信頼が喪失していることは、もはやあきらであろう(実はこうした状況は、欧米でもそれほど変わらないことは、たとえばNicholas SchouがSpooked: How the CIA Manipulates the Media and Hoodwinks Hollywoodの中で克明に論じている)。
また、たとえば、先日 OXFAMが告発したように、極少数の人間が地球の富を独占的に所有する極度の格差社会が出現していることが露わにされ、慣習的段階の人々が信奉していた価値観・世界観が根本的な問題を内蔵していたことが認識されはじめている。
当然のことながら、こうした状況の中では、既存の支配構造の中で恩恵を受けてきた階級の関係者は、さらなる価値観・世界観の動揺を回避しようと策を練ろうとする。
周知のように、2001年の「同時多発テロ」以降、合衆国内では徹底的な監視制度の整備が強力に推進されている。また、日本国内では、特定秘密法・共謀罪等の性格を同じくする法律が施行・検討されている(こうした日米間の監視社会の感性に向けた連携については、たとえば、先日、The Interceptが非常に興味深い調査報道記事を発表していた)。

こうした状況を眺めると、われわれは今まさに慣習的段階の認知構造の行動論理が限界をむかえる時代に生きているといえるのかもしれない。
ただし、こうした状況は、インテグラル・コミュニティの関係者が主張するように、必ずしも集合意識の進化により牽引されているわけではない。
むしろ、それは純粋にICT技術の進化により牽引されているものである。
実際、インテグラル・コミュニティの関係者の主な関心は、あくまでも発達理論を同時代の中で展開されているゲームの中で成功を収めていていくためにどのように活用できるのかというところにあるのであり、そもそもそうしたゲームの背景にある価値観・世界観そのものに批判的な問題意識をいだき、その超克にいかに寄与できるかという発想はほとんどできていない。当然、今日 価値観・世界観の正当性をめぐり惑星規模で展開されている「抗争」についても半ば無関心を決め込んでいる。
その意味では、発達理論に関心を寄せていても、実はその真意をとらえそこねてしまっているのである。
しばらくまえに、ある発達心理学者が「インテグラル・個コミュニティの重心は合理性段階にある」と語っていたが、それは正に的確な指摘である。発達理論に興味をいだくことは、その本人の認知能力が高いことを保証するものではないのである。

先述のように、ケン・ウィルバーが、「インテグラル」であるとは「政治的」であることだと言うとき、そこで意味されているのは、単純にいわゆる「政治的」であるということではない(もちろん、それを排除するものではない)。
むしろ、社会において集合意識を呪縛する価値観や世界観の正当性をめぐる抗争が恒常的に展開されていることを認識して――それは必然的に既存の価値観や世界観に埋没することを拒絶することである――その問題にたいして主体的に責任をとろうとすることである。
後慣習的段階とは、そうした責任感に支えられたものであろう。

発達がもたらしてくれるもの……(3)

巷では、批判的思考力を鍛錬するための方法として「前提条件を疑え」と訓えられる。
しかし、これは往々にして所与の目標や目的を温存したまま、あくまでもそれを実現するための方法上の制約にたいして疑問を抱くようにという訓えとして理解されるようである。
いうまでもなく、それは慣習的段階の枠組の中の理解である。
後慣習的段階の意識をとおして批判的思考をするときには、みずからの思考を動機づけている心理的な動機や物語や欲求そのものにたいして内省しようとする。
即ち、われわれの価値観や世界観そのものを意識化して、それが自己の思考に大きな影響をあたえていることに気づこうとする内向的な探求にとりくもうとするのである(たとえば、環境経済学の大家であるHerman Dailyは、われわれが分析的な思考をはじめるうえで基盤としている価値観や世界観のことを“pre-analytic vision”と形容しているが、後慣習的な発想とは、正にそれを意識化しようとするものなのである)。
こうしたことを踏まえると、「後慣習的段階に到達することで、仕事ができるようになる」という発想そのものがいかに的外れなものであるかが理解できるだろう。
むしろ、後慣習的段階の人間は、そもそも人間の成長というものを半ば自動的に営利活動に従事するための優位性を高めるための「方法」として道具化してしまう自己の嗜好そのものを意識化・対象化して、それについて批判的に検討するはずである。
また、その過程の中で、自律的であるはずのみずからの精神活動が実は時代や社会の圧倒的な影響下で営まれていることに気づくことになるだろう。
端的に言えば、Max HorkheimerとTheodor W. AdornoがDialectic of Enlightenmentの中で分析したように、人間の存在そのものが経済的な活動に効率的・効果的に従事するための「資源」や「道具」として位置づけようとする現代社会の支配的なイデオロギーの枠内で「自律的」に思考していたということに気づくはずである。
また、そうした気づきにもとづいて、真の自律性を確立するための探求にとりくもうとするだろう。
もちろん、ときには、そうした気づきを得たうえで、それでもなお同時代のイデオロギーの枠の中に安住することを選択する場合もあるだろう。
しかし、それは、迷信を迷信と認識しながらも、周囲との協調を図るために、表面上はそれを信奉して生きるふりをするようなもので、そこには必ずそうした生き方をすることを意識的に選択するという高次の要素が加わることになる。
つまり、自身が参加しているものが、「虚構」(game)であることを認識しているのか、あるいは、それを現実と錯覚しているのかという決定的な差が生まれるのである。

いずれにしても、後慣習的段階の認知構造をそなえた人間はどのような行動をするものなのかという問いに答えようとするとき、われわれは、その独特の「醒め」がもたらす洞察に留意する必要がある。
それは、単純に所与の価値観や世界観の中で「活躍」「成功」しようとするのではなく、そうしたものそのものを豊かな批判精神を発揮して脱構築して超克しようとする。
あえて言えば、それは、発達することで業績を上げようとするような発想とは正反対のものであるといえるだろう。
むしろ、後慣習的段階の認知構造は、人間の成長衝動を悉く経済的な論理に絡めとってしまう 惑星規模で人類を集合的に呪縛するシステムを脱却するための道を模索しようとする。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の中で「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して、現代という時代が――貨幣に代表される――量の論理にもとづいて世界を矮小化する深刻な病に冒された時代であることを示したが、結局のところ、後慣習的段階の認知構造に立脚して発想するとは、フラットランドを超克するための闘いを展開することになるのである。

(つづく)

発達がもたらしてくれるもの……(2)

「後慣習的」(post-conventional)という言葉を理解するときに、先ずはそもそもそれにどのような意味が籠められているのかを再確認する必要があるだろう。
“conventional”という言葉は、普通 「慣習的」「常識的」と翻訳されている。即ち、ある社会や時代の中で常識として確立されているされている価値観や世界観に立脚して思考・行動する在り方――というような意味が含意されているのである。
もちろん、時代により、社会で共有される常識の内容は変わるものである。
たとえば、昔は社会の中で共有されていた価値観や世界観を純朴に信じることが「常識的」であったとしても、今はそうしたものをある程度の批判精神をもって検討・検証できることが常識的であるとされる。
その意味では、時代に変遷にしたがい「常識」として個人に求められる能力は変化するのである。
学問としての発達理論が本格的に成熟したのは、20〜21世紀であるが、この時代において、「慣習的」「常識的」という言葉で意味されるのは、ロバート・キーガン(Robert Kegan)が第3段階(third order)〜第4段階(fourth order)と呼んでいる発達段階のことである。
簡単に言えば、第3段階は、所属する共同体で共有されている価値観・世界観を無批判に受容して、そこであたえられる規則や役割を奉じて自己を確立する在り方である。そして、第4段階は、第3段階と同じように、所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を暫定的なものとしてとらえ、自律的・批判的な思考を発揮して、それを修正・刷新できる在り方である。
著書In Over Our Headsの中でキーガンが述べているように、確かに、先進国においても、第4段階に到達する人々の数はまだ少数であるが、実際には、企業組織等においてはそうした意識が要求されはじめていることは明らかである。
また、そうした状況を背景として、高等教育や成人教育のカリキュラムは、基本的には、この段階の意識を確立するために設計されている。
ただし、第4段階において獲得される自律的・批判的な思考というのは、思考という行動をはじめるにあたり、自己を呪縛している――半ば無意識的な――諸々の前提条件を意識化することはできないといわれる。即ち、自身が発揮している自律的な精神活動というものが、実際にはそうした無意識の領域の要因に強力に縛られていることには、総じて無自覚なのである。
自己の無意識の領域にたいする旺盛な興味というのは、往々にして、第4段階を超えていくときに先鋭的に出現するものだといわれるが、そこには自身の精神が真に自律的に機能しているという常識的な信念が幻想であることを察知する洞察が息づいているのである。
それゆえに、自己をそうした幻想の中に呪縛する意識されていない諸要因を積極的に探求しようとする衝動がめばえるのである。

このように考えると、発達理論というものをどのようにとらえているかを観察すると、その人の思考の質をある程度推測することができるのかもしれない。
こうした理論を前にして、それに自身が投影している期待や希望にほとんど無自覚である場合、現代においては、「発達することにより社会的な成功を獲得することができるはずだ」という物語を安易に信じ込んでしまうことになる。
逆に、自身のそうした投影に自覚的であれば、そうした投影をすることが対象に関する理解を歪めてしまうことに気づけるし、さらには、そもそもそうした投影をしているじしんの内面に刷り込まれている価値観や世界観について積極的に思いを馳せることができる。
第4段階においては、自律的・批判的な思考を発揮して所属する共同体の中で共有されている価値観・世界観を修正・刷新できるようになると述べたが、
第4段階をこえると、それまでに自身が発揮していた「自律的・批判的な思考」といわれるものが果たして真に自律的・批判的なものであったのかということを問うことができるようになるのである。
そして、また、そうした思考を駆使して、実現しようとしていた変化や変革といわれるものが、そもそも妥当なものであったのかということを根源的に問うことができるようになるのである。
換言すれば、それまでに善かれと思い懸命に追求していた理想や目標や目的が、実は時代・社会の中でひろく共有されている価値観や世界観にもとづいていたことに――実質的に、自身がそうした時代・社会の価値観や世界観に操られていたことに――気づき、そうした状況と対峙・格闘できるようになるのである。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が指摘するように、こうした内的な葛藤をとおして、われわれはいわゆる実存的な課題と直面することができるようになるわけであるが、実は第5段階というのは、そうした深い精神的な探求ができるようになる段階なのである。
そうした段階に到達することで、業務上の能力が高めることができるという主張は、あまりにも短絡的であるだけでなく、発達をするということの本質を完全に見落とした発想といえるだろう。
(もちろん、高次の発達段階を確立することで、業務上の能力が向上した事例があることは否定しないが、そこには単純に第5段階を確立したことだけでなく、それ例外の多様な人格的な要素を調整・鍛錬・統合した結果としての独自の性格があることに着目する必要があるだろう)。

 

(つづく)

発達がもたらしてくれるもの……(1)

先日 様々な業界の企業組織で人材育成や組織開発に携わる関係者が集まり食事をした。
近年 にわかに注目を集めているロバート・キーガン(Robert Kegan)の発達理論の話題を中心に会話が進んだのだが、そのなかで、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にいかなる変化が生まれるのだろうか……という議論になった。
数年前にキーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』(Immunity to Change)が日本語に翻訳されたあと、発達理論に興味をもつ人が急激に増えてくれたのは嬉しいのだが、読者の方々と話をしていると、「発達」というものにたいして実にいろいろな勝手な期待や夢や希望を投影していることに気づかされる。
たとえば、発達段階が高くなると、業務遂行能力が非常に高くなるとか、人徳者になるとか、あるいは、「幸福」になれるとか……
もちろん、発達段階の高まりがそうした効果をもたらす場合もあるのだろうが、少なくとも、「発達段階が高くなれば、そうした効果がもたらされる」というような因果論的な主張をするのは、大きな間違いである。
しかし、実際には、例のKeganの書籍を読んで大きな感銘を受けている人達の中には、そうした解釈をしている方々が結構存在するようなのである。
Suzanne R. Kirschner(1996)のThe Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis: Individuation and Integration in Post-Freudian Theoryには、心理分析というものが、人間がみずからの「堕落」(the Fall)した存在としての実存的状況を克服しようとする宗教的な衝動を成就するための装置として機能していることが指摘されているが――これは心理学全般にあてはまるのではないだろうか……――発達心理学のモデルを目にすると、われわれは無意識の内にそこに救済に至る道が示されているように思い込んでしまうのである。
しかし、実際に発達心理学の調査・研究に携わる関係者の話に耳を傾けると、このようにわれわれの意識の奥深くに息づいている救済への期待や衝動を発達という概念の上に投影するのは、少々無理があるようである。
とりわけ、今日においては、救済というものが、個人としての「能力」や「財産」を豊かにすること(例:「業務能力が高まること」「生産性が上がること」「稼ぐ能力高まること」)といった現世利益的な価値体系と密接に結びついて解釈されてしまう傾向があるので、結局のところ、発達という概念が企業人としての“performance”が上がることであると理解されてしまう。
しかし、実際には、発達することが、そうした実利的な利益をもたらすことになると結論するのは、あまりにも短絡的であるし、それ以上に、人間の内的な領域の変化・変容を、ある特定の時代・社会(現代の資本主義社会)を支配している特殊な価値観にもとづいて説明してしまおうとするのは、あまりにも傲慢であろう。
厳しい言い方をすれば、そうした発想そのものが、自己の生きる時代や社会を相対化できない認知上の幼稚さを示しているのではないかとさえ言えるだろう。
ただ、こうした誤解が広範囲で起きている背景には、それなりの事情があるのも事実である。
たとえば、上記のRobert Kegan自身も、著書の中で「発達をすれば仕事ができるようになるのです」と断言してしまう等、発達理論にたいする興味を喚起することに躍起になるあまり、読者にたいして安易に甘い夢を売ろうとしてしまっているのである。
結局のところ、こうした状況というのは、本質的には、思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して指摘したように、数的に計測できるものだけしか価値として認識しようとしない現代という時代の病理そのものを浮き彫りにする端的な事例である。
端的に言えば、「それはわれわれの金を稼ぐ能力の向上に寄与するのか?」という問いにもとづいて、あらゆる概念や洞察の価値が決めてしまう現代の倒錯性が――本来であれば、そうした時代の病理と対峙する精神を涵養するための示唆をもたらしてくれるはずの――皮肉にも、発達という概念にも持ち込まれてしまっているのである。
それでは、いわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stage)に意識の重心が移行していくことで、個人の世界観や価値観にはいかなる変化が生まれるのだろうか?

(つづく)

 

芸術と意識の変容

先日 ロンドンに一週間ほど滞在したのだが、そのときにあらためて街が宗教的なシンボルに埋め尽くされていることに静かな衝撃を受けた。

そこがまさしく宗教国であることを実感した。

宿泊したのがSt Paul's Cathedralの脇にあるホテルだったこともあるのだろうが――一日をとおして頻繁に大音量で鐘が鳴らされる――それにしても、これほどまでに隅々に宗教的な視覚的シンボルが配置されていることには驚きを受ける。

今回は、滞在中に時間を見つけてTate ModernとTate Britainという二つの美術館に脚を運んだのだが、とりわけ現代美術作品を眺めていると、それらの作品が、こうした文化的な文脈のなかで、それと対峙するなかで生みだされたものではないかという感覚が自然に沸いてきた。

旅行者として眺めるだけであれば、諸々の宗教的なシンボルは単なる物珍しいものでしかないかもしれないが、そこに暮らす人々にとっては、それらは圧迫感を帯びてその精神に迫ってくることだろう。

たとえそれがどれほど深い意味や価値を顕すものであろうと、これほど高い密度で生活空間を満たしていると、自然とそれは自己を呪縛するものと感じられ、いずれは対峙と抵抗の対象としてみなされることになるだろうと思う。

また、それらのシンボルが、正にそれらが豊饒なものであるがゆえに、人間の意識に堅固な秩序をあたえてくれる結果、その反作用として、人々はそれに窒息感を覚えるようになるのだろう。

現代美術に息づく破壊衝動は、そうした意味では、共感できるものである。

人々は、自己をとらえる世界観そのものを揺さぶり、自己の感覚を解放したいと希求するのである。

しばしば言われるように、優れた芸術作品は鑑賞者の意識の変容を促すが、現代美術館に並べられた作品を眺めていると、確かに自己の意識が作品を注視している自己そのものにも自然と向かうことを自覚する。

そして、そうした瞬間には、周囲の空間そのものが――そこに集うた他の鑑賞者もふくめて――異なる質感をもって意識に映じはじめる。

そんなとき、われわれは自己の意識を変容させることができるなら、この世界そのものを芸術的に視ることができるのではないか……と束の間のあいだ信じることができるのである。

Wigmore Hallでの演奏会

先日、ロンドンに出張した折、Wigmore Hallで開催された現代音楽の演奏会を訪れた。

UKの同僚が過去に演奏家として活動していたということもあり(また、夫君は現代音楽の作曲家である)、食事をしながら、いろいろと音楽談義をしたのだが、そのときに「Wigmore Hallの演奏会は基本的には音楽関係者に向けた玄人好みのものであり、おもしろいものが多いので、ぜひ行くといいよ」というアドバイスをもらい、ちょうど滞在中に開催されたこの演奏会に参加してきた。

 

Birmingham Contemporary Music Group; Timothy Redmond; Calder Quartet; Thomas Adès; Nicolas Hodges

 

この日は、イギリスの現代作曲家であるThomas Adesの特集が組まれており(演奏会では本人がピアノを演奏していた)、昼の部と夜の部の二部構成で演奏会が企画されていたのだが、わたしは昼はTate Brittenを訪れ、その脚で夜の部に行った。

当日の聴衆は幅広い年齢層で構成されていたが、同僚が述べていたとおり、総じて音楽を聴き慣れている人達であることが感じられた(ちなみに、隣に座っていた老婦人は、その長年にわたる現代音楽にたいする貢献を評価され、演奏会の途中でRoyal Philharmonic Societyに表彰されていた)。

ここで演奏された作品は、ヤナチェックの作品を除いては、基本的に理知的にたのしむべき作品ばかりで、必ずしも心地よく陶酔させてくれるものはなかったのだが、非常に熱心に聴きいっていた。

 

簡単に感想を書き留めておきたいと思う:

・この演奏会の演目は数分の短い断章(fragments)で構成される作品ばかりであったが、このようにあらためて意識的に聴いてみると、断章というものが内包する力を実感をすることができる。断章というのは人間が生きているなかで束の間に経験する感覚や想念を素朴に作品として結晶化するために実に適した形態であることが実感されるのである。そうしたものを古典的な作品にあるような論理的な構造の中で表現しようとしても、そこには無理が生じることになる。実際、人間の日常は泡沫のように生まれては消えていく刹那的な感覚の連続ともいえるわけで、それを論理的に展開させるのではなく、あえてありのままに作品として結晶化させておこうという態度は自然なものだと思う。また、それらを大きな論理的な構造をもつ作品の素材として用いようとすれば、それらはもはや異なるものに変質してしまう。

特にクータッグの作品は断章というものの魅力を見事に伝えていたと思う。

・Gramophone等の雑誌を眺めている、英国では現代音楽が比較的に熱心に支持されているという印象を抱かされるのだが、しかし、実際にそこで紹介される作品を聴いて、大きな感銘を受けることはあまりない。この演奏会で特集されていたThomas Adesの作品にも、個人的には、まったく感銘を受けなかった。周りの聴衆は熱い拍手を送っていたが、「果たしてこんな作品のどこがいいのだろう……?」とひとり醒めていた。現代音楽にありがちではあるが、作品中には他の作曲家の作品が引用されるが(今回はベートーヴェンの弦楽四重奏曲)、それが終わると、作品は再び異様につまらなくなってしまう。皮肉にも、古典を引用することで、両作曲家の音楽の訴求力が圧倒的に違うことが露呈してしまうのである。

・いずれにしても、こうした演奏会を聴いていると、確かにクラッシック音楽は大きな袋小路にはいっていることを実感させられる。しばらくのあいだは、ある程度の知的なたのしみはあたえてくれるのだが、われわれが音楽というものに求める存在の深いところに響いてくる感動をあじあわせてくれることはない。端的に言えば、音楽ではなく、音響という素材を用いた実験の結果を聴かされている気持ちになるのだ。

『この世界の片隅で』を観て

先日出張した際、飛行機内で話題の『この世界の片隅で』を観た。

都内では公開劇場があまりなく、観たい観たいと思いながらも、機会をみつけることができずにいたのだが、ようやく観ることができた。

正に珠玉の作品である。

 

「われわれの心を揺り動かすのは、この作品に息づく郷愁なのではないか」というのが、まず最初に思ったことである。

即ち、主人公・すずのような人が幸福に生きることができた時代にたいする郷愁である。

現代は誰もが勉強をすることや出世することや成長することに四六時中追われているが――愚かにも、それが幸せになるための道であると思い込まされている――そうした倒錯した常識が人間の心を完全に呪縛するまえの時代にたいする望郷のようなものをこの作品はわれわれの内に喚起してくれる。

周知のように、そうした時代は急速に失われてしまい、われわれは彼女のように心穏やかに生きることを許されなくなってしまったが、まさにそれにゆえにわれわれは彼女にありのままで幸せになってほしいと応援したくなるのだと思う。

 

ただ、いっぽうで、彼女のように、世界の片隅に生き、そこだけを意識しているだけでは、自己――そして、愛する人々――に降りかかってくる理不尽な暴力にたいして無防備になってしまうのも事実である。

そして、彼女もまたそうしたみずからの無防備にたいして、みずからの体と心に深い傷を負うことをとおして贖わされることになる。

終戦の玉音放送を聞いたときの主人公の悲痛な叫びは、それまでに抑えられていた悲しみや苦しみに声があたえられた瞬間であり、それは彼女の中にはじめて時代や社会に目を向け、それらと対峙する力が芽生えたことの証でもある。

ただし、それは、成長といわれるものがしばしばそうであるように、悲しい成長であることはまぎれもない事実である。

それは、間違っても彼女が望んで得たものではないのである。

 

結局、「彼女のような人が穏やかに生きることができる平穏な世界が続いてほしかった」というわれわれの想いは叶うことはない。

残念ながら、世界はそれほどまでに寛容な場所ではないのである。

われわれにできるのは、作品の最後に再出発をする彼女の幸福を願うことくらいである。

そして、それは彼女の存在が象徴するものが、失われることなく、この世界に在りつづけてほしいというわれわれの願いそのものでもある。

 

視聴者は、この作品を鑑賞しながら、主人公の生きた幸福な世界を守りたいという想いを抱くと共にそのためには自分自身はそうした幸福な世界に安住することはできないことに気づかされることになる。

言い換えれば、作品は、世界の残酷に目覚めながらも、自己の内に幸福な世界を護りつづけることの重要性を訓えてくれるのだと思う。

ほとんどの現代人のように、徹底した「現実主義」(合理主義・数値主義・上昇主義)になるのではなく、自己の内にすずを抱きつづけることのたいせつさを訓えてくれるのである。

実際には、この残酷な世界においては、すずの世界に安住できる人はいないのかもしれない。

しかし、そうした世界を自己の内に維持しつづけることはできるのだと思う。