<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
『インテグラル理論』出版に寄せて

先日、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の“Theory of Everything”が大幅な改翻訳のうえ、『インテグラル理論』として日本能率協会マネジメントセンターより出版された。

 


https://pub.jmam.co.jp/book/b454124.html

 

先日、本書を担当された編集者の方と御会いしたときに御聞きしたところでは、売り上げも順調ということで、何よりである。
2005年代初頭に、ウィルバーの思想やロバート・キーガン(Robert Kegan)等の発達理論を紹介しようとしたときには、極々少数の人を除いて、全く受け容れられなかったが、この15年程のあいだに市場の状況が確実に変化したということなのだろう。
欧米でウィルバーの思想にたいする関心が高まったのは、
Sex, Ecology, Spiritualityが出版された1995年頃のことだが、それとは異なる形態であるとはいえ、こういう類の思想にたいする興味・関心が日本でもある程度の醸成されてきているのである。
これは素朴に非常に嬉しいことである。
今回の再翻訳にさいしては少しだけ支援をさせていただいたこともあり、翻訳者の門林さんと監修者の加藤さんだけでなく、担当編集者の方とも意見交換をさせていただのだが、共通した認識は、まだそれほど顕著なものとはいえないが、社会の中にこうした思想にたいする感受性が芽吹きはじめているということである。
端的に言えば、いわゆる「合理性段階」(“Orange”)の枠組を脱出して、それとは質的に異なるものを希求しようとする欲求が集合規模で芽生えはじめているのである。
もちろん、そうした欲求は、基本的には、Orange的な価値観・世界観の中で設定された目的・目標を実現するために(例:経済的な成長)役に立つ「知識」や「情報」を得ようとするactionとして発露するわけだが、少なくともそこには自己の生きる文脈の中には存在しない質的に異なる世界を垣間見させてくれるものにたいする「予感」が息づいているのであり、それを次の段階にいかにつなげていくのかということが重要になる。
即ち、質的に異なる世界にたいする憧憬を、それに関する知識・情報に触れることをとおして、心の中に映像として思い描いたあとに、それを実現するための具体的な実践に定着させる必要があるのである。
実際、編集者の御話しでは、読者の中には、単に書籍を読了するところで終わりにするのではなく、その次の段階に進むための道を模索している方々が多数いるというということなので、正に読者層の中に合理性段階を特徴づける「責任能力」(agency)がひろく定着しているということなのだろう(こうした条件が整っていないと、知識や情報は熱心に消費されるだけで終わってしまう)。

いっぽう、今後のインテグラル思想に関する理解を深めていくうえで、読者が注意をしなければならないのは、そこで言われているのは、そこで示されていることが本質的に変容(transformation)を不可欠の要素とするものであるということだ。
現在設定している目的・目標を実現・達成するためにあたらしい知識や情報を収集して工夫を重ねることが合理性段階の行動論理であるとするならば(single-loop learning)、前期システム思考(“Green”)、及び、後期システム思考(“Teal”)段階に意識を深めていくことは、とりもなおさず、現在、心の中に描いている目的・目標そのものを再検討する思考を獲得するということである(double-loop learning・triple-loop learning)。
それは、そうした目的・目標を設定した自己の思考や発想そのものに疑問を投げかけることであり、また、目的・目標を設定してそれに向けて効果的・効率的に努力をしていくという合理的な精神そのものに批判的になれるということである。
即ち、現代社会において「生産的」であるための条件としてひろく推奨される行動論理そのものが実は特定の時代的・社会的な文脈の中で真実として信奉されている「虚構」に過ぎないことに気づくことができるようになるのである。
深い内省を恒常的に行いながら、自己の思考や行動の背後に存在する「前提」や「物語」や「枠組」を問う姿勢こそは、正に自己変容型のものといえるが、当然のことながら、それは生活にたしかな方向性をあたえてくれた基盤を積極的に崩そうとする「破壊性」を内包したものであるために、往々にして、精神的な危機を伴うことになる。
システム思考段階(“Green”〜“Teal”)が実存的段階と形容される所以は正にここにあるのである。
また、こうした段階について研究を重ねたエイブラハム・マズロー(Abraham Maslow)は、こうした意識を自己実現欲求に支えられた段階と説明しているが、ここで注意すべきは、そこでいう「自己実現」とは、同時代に流布している価値観・世界観を前提として、その枠組の中で設定した目的・目標ではなく、そうした時代的な呪縛をこえるための拠所を自己の存在の内に求め探求した末に「発見」された価値や構想や直感を実現化しようとする営みであるということだ。
また、こうした自己探求に長期的にとりくんだ者であれば認識しているように、そうした価値や構想や直感は実は当事者が自由に選べるものではなく、往々にして、「宿命」のように自己の存在に刻印されているものなのである。
「自己実現」という言葉で意味されているのは、実は「世界」や「宇宙」が自己の存在の中に既に付与しているものを受容して、それに声をあたえることなのである。
それは合理性段階の目的や目標の設定とは大きく異なり、「この時代や社会の中でどのように評価されるのか」「この時代や社会の中でどのような利益をもたらすのか」等の「実利的」な関心を脇に置いて、自己の宿命を生きることを決意するということである(実際、それは同時代に生きる人々が真実として信奉する価値や物語に反旗を翻すことを当事者に強いることになる)。
正に「自己実現とは自己中心性が小さくなることである」というウィルバーの至言が示唆するように、それは自己の実存的条件の前に首を下げることなのである。
正にそうであるから、自己実現は危険を伴うのであり、それゆえにマズローは「自己実現段階に到達している人達は、しばしば、周囲の攻撃の対象にならないように注意をして慎重に振る舞う術を有している」という旨の発言をしているのである。

こうしたことをみるだけでも、実際にシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を獲得することが――それに関する知識や情報を得るだけではなく――いかに難易度の高いものであるかということが窺い知れるだろう。
但し、ここで思い出すべきは、個人の意識が発達段階的な変容をひとつ実現するために、たとえどれほどの好条件が整ったとしても、少なくとも5年程の時間が必要となるというキーガンの発言である。
また、ウィルバーはその著作の中で人類が歴史的に経験した意識の進化の過程について俯瞰的な解説をこころみているが、高次の意識が集合規模で共有されるようになるためには数世紀という時間が必要となるものである。
たとえば、もし人類がシステム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することができるとすれば――もしそれだけの時間が残されていればということだが――それは数百年後のことだろう。
今日の人類社会は、表面的には合理性の衣を纏ってはいるが、その本質は極々少数の特権階級が地球の富の大半を簒奪・占有する「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理の支配下で営まれているというものである。
そうした状況を的確に理解することなく、“Green”〜“Teal”の確立をめざしても、それはあまりにも夢想的な発想といえる。
それは知的遊戯としては面白いものかもしれないが、所詮はそれだけのものでしかない。

われわれが必要としているのは、システム思考段階(“Green”〜“Teal”)の意識を集合規模で確立することではない。
もちろん、個人的にそうした意識を自己の内に涵養するための「努力」や「修行」を積むことは奨励されるべきではあるが、
同時代の社会構造が整わない中でそうしたとりくみに励むことは、他者との疎外と苦悩を生むことになり、生きることそのものを苦行に転じてしまう危険性を内包していることを心すべきであろう。
また、そうした意識をとおしてとらえた自己の真実を日常の社会生活の中で実践しようとしても、ほとんどの場合において、それは徒労に終わることになるだろう。
むしろ、われわれが必要としているのは、「衝動型段階」(Red)〜「順応型段階」(Blue)の行動論理に支配された今日の社会の中に少しでも合理的段階の精神を注入することであり、また、同時に、「フラットランド」(“flatland”)の影響下で極度に病理化をした「合理性段階」(Orange)の中に「前期システム思考段階」(Green)の知識や情報を導入することで、その治療にとりくむことである。
こうした「発達理論」にもとづいた理論に触れると、初心者は短絡的に構造的な変化を実現しようと思い込んでしまうものだが、それは社会や組織というものを操作可能な対象として単純化して見做してしまう発想にもとづいていることに注意をすべきであろう。
構造的な変容はあくまでも最終的な手段であり、そこに至るまでに、われわれは、高次の段階の発想を知識や情報として導入する等、実にたくさんのことができるのである。

 

『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』翻訳者解説

先日、ケン・ウィルバーのTheory of Everythingが再翻訳され、『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』(日本能率協会マネジメントセンター)のタイトルで近々出版されることをおしらせしたが、本日、翻訳者の門林 奨さんの紹介文をIntegral JapanのHPに掲載したので、こちらについても紹介しておきたい。

 

http://integraljapan.net/index.htm

 

新日本フィルハーモニー第606回定期演奏会を聴いて

新日本フィルハーモニー(NJP)の第606回定期演奏会を墨田トリフォニーで聴いてきた。今日の指揮者はフィリップ・ヘレヴェッヘ(Philippe Herreweghe)。

 


まず、今日のメインとして置かれたシューマンの交響曲第2番に関して。
聴きながら思ったのは、「もしこの作品がロベルト・シューマンという有名作曲家のものでなかったとしたら、これほどまでに長くにわたり聴きつづけられたのだろうか……?」という素朴な疑問だ。
少なくとも第1・2楽章は全く凡庸な音楽だと思う。
確かに第3・4楽章は聴くに耐える出来ではあるが、古今東西の無数の名曲の中から、あえてこの作品を演奏会のメインとしてとりあげるほどの価値があるとは信じられないのである。
個人的に特に気になるのは、作品の中に包含される感情の揺れ幅が非常に「狭い」ということだ。
音だけを聞くと、そこには大きな高揚があるように思われるが、それらの音を書いている作曲者の心が真にそうした起伏を感じているとは到底思えないのである。
そこには「嘘くさい」雰囲気が常につきまとうのである。
また、そうした「齟齬」にたいする作曲者の苦しい葛藤があるかというと、必ずしもそういうわけでもない。
感情のダイナミズムを喪失した状態で書かれたこの作品は、表面的には交響曲の作曲作法に則っており、形式的には起伏のあるドラマが描かれているようにみえるが、どうしてもそれらは作曲者の内的な真実と乖離したところで作りあげられた嘘に思えてしまうのである。
あえていえば、第3楽章の深い悲しみに作曲者の本音が垣間見えるくらいである。
もしかしたら、こうした作品の「歪さ」が高く評価されているところなのかもしれないが、それはあくまでも作曲当時の作曲者の精神状態を知識として仕入れていればこそあじわえる愉しみ方であり、窮極的には作品そのものの力ではない。
単なる知的な愉しみでしかないのである。
今宵のNJPの演奏は最上のものだったと思うが、こうした作品そのものにたいする違和感は払拭できず――また、こうした作品を名曲と信じ込まされて聞かされていることにたいする居心地の悪さもあり――ほとんど感動をあじわうことはできなかった。
真に優れた古典音楽というのは、普段こうした音楽を聴かない聴衆をも圧倒するようなものでなければならないと思うのだが、そうした意味では、作品の力が弱過ぎる。

これにくらべると、前半の二曲は上々の出来だと思った。
はじめの序曲「フィンガルの洞窟」を耳にしてまず印象的だったのは、ヘレヴェッヘが指揮をすると、NJPが実に古雅なあじわいを湛えた音を紡ぐこと。
それでいて、上岡体制のもとで育んだ繊細な感性があらゆるところに瑞々しく息づいている。
古い西欧の風景画を眺めていると――実際に自分の目で見たわけでもないのに――額縁の中に収められた「失われた過去」にたいする淡い郷愁を覚えるものだが、今日の演奏を聴きながら、それと似た想いが心に去来した。
メンデルスゾーンは必ずしも普段積極的に聴きたいと思う作曲家ではないのだが、この作品は「詩情」という言葉のほんとうの意味をおしえてくれるような逸品であることにあらためて気づかされた。
次のシューマンのピアノ協奏曲は、ソリストに仲道 郁代を迎えての演奏で、特に第1楽章が絶品だった。
ゆったりと間をとり、たいせつなところで弱音を奏で聴衆を魅了していく。
また、仲道の奏でる音には常に優しさと温かさが息づいている。
こうした響きがこのピアニストの何よりの魅力だと思う。
あえていえば、それは幼子に子守唄を歌う母親の姿に宿る愛のようなものを想起させる。
また、仲道の演奏を聴きながら思ったのは、演奏者の音には実にその人柄が滲み出るものだなあ……ということだ。
彼女のインタビュー動画等を観ると、美貌と才能をあたえられていることにくわえ、経済的な豊かさ等も含めて、様々な意味で恵まれた人であることが推察されるが、そのように祝福されて生まれていることが、実に素直な幸福感として音に託されているように思われる。
確かに、芸術には苦悩や寂寥のようなものも必要だと思うが、しかし、そうしたもので勝負するのではなく、むしろ、この世に生きる極少数の人達だけが享受することのできる屈託のない祝福を音に託して届けてくれる演奏家がいてもいいと思う。
この作品は正に作曲者が愛する者にその想いを告白するようなひたむきさに溢れた作品だが、仲道の奏でる美音には、ときには寂しさが、また、ときには喜びが過度な刺激を伴わずに息づいていた。
第3楽章はさらなる強靭な躍動感がほしいところだが、全体としてはとても素敵な演奏だったと思う。
実際、第1楽章では、シューマンのあまりにもひたむきな想いに心を動かされ、思わず落泪してしまった(周りの聴衆の方々もハンカチで目をぬぐっていた)。

告知:ケン・ウィルバーのTheory of Everything 再出版のおしらせ

6月中にケン・ウィルバー(Ken Wilber)のTheory of Everythingが再出版されることになりました。

 

『インテグラル理論:多様で複雑な世界を読み解く新次元の成長モデル』
(ケン・ウィルバー著, 加藤洋平 監訳, 門林奨 訳)
(日本能率協会マネジメントセンター)

 

https://pub.jmam.co.jp/book/b454124.html

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4820727346

 

後日、翻訳者の門林さんに執筆いただいた紹介文をIntegral JapanのHPに掲載します。

上昇と下降

今日の成人教育において――とりわけ、企業を舞台にした成人教育において――関係者は、人間の成長というものを上昇的な文脈の中でとらえることを常に求められることになる。
そこでは、成長というものが生老病死に象徴される衰退の現実を受容する中で進展することが忘れられ――正確には拒否・拒絶されというほうがいいだろう――さらなる高みをめざして上昇していくための能力を高めていくプロセスとして理解されるのである。
端的に言えば、そこでは、人間の知識や能力というものが、世界を操作するための技術的・科学的なものに矮小化されてしまい、人間の全体性の中に包含されている倫理意識や美意識といった質的なものが排除されてしまう。
たとえば、そこでは優しいことよりも、生産的であることが評価されるのである。
この瞬間、人間は機能的な存在に矮小化され、深みを剥奪されることになる。
実際、今日、「リーダー」として崇められている人達の大多数がこうした機能的な存在としての性能や機能をそなえているだけで、そこに「深み」を全く感じさせないのは、正にこうした時代の倒錯がそこに反映されているからである。
下降することが重要な能力として認められ、上昇のみに邁進するのではなく、それを体現している人間こそが真に成熟した人間であるという感覚が失われていることの貧困を日々痛感するが、こうした問題は時代を支配する「大きな物語」(meta-narrative)そのものが内包する倒錯に起因するものであるために、大多数の人達にはそもそも問題として認識されにくい。
とりわけ、大きな物語に呪縛されることなく、自由に生きることができているという確信を抱いている人間ほど、大きな物語が脱構築された空間に静かに別の大きな物語が侵入して、自己の意識と存在を深く呪縛していることに気づかない。
また、今日、至るところで「内省」の重要性が叫ばれるが、こうした「物語」は単に目を閉じて自己の内を覗き込むことで認識されるものではなく、それを対象化するための思考上の方法を用いなければ、認識されないものである。
たとえば、巷では“double-loop learning”や“triple-loop learning”等の言葉で内省の方法が伝授されているが、それは必ずしも時代や社会を批判的に検証するための視座の確立に至らないのである。
それらはあくまでも「上昇」の文脈の中でより優れた方法を見出すための行為に過ぎないのである。
確かに、インテグラル理論は、批判的な検証にも複数の方法があることを認め、それらを並行して実践することを求めるので(異なる象限に立脚した検証)、こうした限定的な内省に依存する思考を克服するための機会はあたえてくれる。
しかし、われわれはまたこの理論が必ずしも常にそのように用いられるわけではないこともたびたび目撃している。
その意味では、インテグラル理論に限らず、「この理論や枠組を用いれば、それで全てはうまくいくはずだ」というようなものは無いのかもしれない。
そうしたメタ的な視座を得ようとするためには、意識や存在の深いところでそれを真に希求する力が働く必要があるのだろう。

発達は人間を「善く」するのか?

Zachary Steinの新著Education in a Time between worldsの「Introduction」に「The Growth-to-Goodness Assumptions」という非常に重要な文章がある。
簡単に言うと、これは高次の階を確発達段立することは人間を「善く」するという物語を信奉する発想のことで、現在、発達理論がひろく紹介される中で――理論の消費者だけでなく、その研究者や提唱者も含めて――ほとんどの関係者がこうした発想に呪縛されている。
こうした状況にたいしてSteinは批判をくわえるが、その主なポイントは下記のようなものである。

 

・いわゆる「高次」の発達段階を体現する個人の数があまりにも少ないために、本格的な実証研究を実施することが不可能であるということ。そのために、理論書の中にあるこれらの高次の発達段階に関する論述は多くの場合において推論の域を超えるものではない。
・少数の実例研究を通して認識された高次の発達段階に関する研究は、必ずしも、それが人間を「善く」するものではないことを示唆している。また、それはしばしばこれらの段階特有の病理や苦悩や困難をもたらすことを示唆している。

 

実際、この領域の代表的な論客であるRobert Keganでさえ、「発達をすれば、仕事がより良くできるようになるのです」と述べてしまうほどなので、この「The Growth-to-Goodness Assumptions」が、専門家も含めて、いかに人々の意識の奥深くに忍び込んでいるかということを窺い知ることができるだろう。
確かに、高次の発達段階がもたらす恩恵も大きなものではあるが、それを「統合的」(integral・integrative)とよんで半ば無批判に称揚して、それに向けて「消費者」を駆り立てるのは、人間の現実をあまりにも無視したものだといえる。

ところで、このくだりを読みながらしきりに思い出されたのは、研究時代に読んだThe Religious and Romantic Origins of Psychoanalysis: Individuation and Integration in Post-Freudian Theory by Suzanne R. Kirschner(Cambridge University Press)という書籍である。

著者の主張は非常に簡潔なもので、いわゆる西欧心理学はその本質において「神」や「霊」等の言葉でいわれる全体性との融合に至ろうとする宗教的な衝動に支えられた営みであり、必然的にその理論はそうした宗教的な救済を約束する物語としての形態をとることになる。

端的に言えば、今日、流行の兆しをみせている発達理論もそうした特徴をそなえているということである。
もちろん、それが悪いということではないが、少なくとも関係者はみずからの探求が意識の深いところに息づく救済を求めるつよい衝動に呪縛されたものであることに自覚的であるべきであろう。
そして、また、そのことがみずからが現実を認識するときに――そして、それを理論化するときに――自己の意識に歪曲的な影響をあたえるということに注意をする必要があるだろう。
とりわけ、今日の時代精神は、本質的に、経済的な成功を得ることを救済の王道として位置づけ、そうした価値観を全ての人々の意識を強烈に呪縛しているために、心理学理論は容易に経済的な成功を約束する救済の物語に転換されてしまうことになる。
即ち、人間として発達することそのものが救済を得ることであり、そして、救済とはとりもなおさず経済的な成功を獲得することであるならば、発達は必然的に経済的成功に直結するものでなければならないという物語に洗脳されてしまうのである。

「大きな物語」は失われたのか?

Zachary SteinのEducation in a Time between worldsを読み進めている。
Introductionは、思想家ケン・ウィルバーのインテグラル理論の概要と意義を紹介しながら、同時に、現代においてなぜこうしたメタ理論が求められているのかということについて解説をしている。
個人的に「なるほど」と納得したのは下記の分析である:

 

いわゆるポスト・モダンの世界においては、「大きな物語」(meta-narrative)が失われてしまったと言われるが、それでは果たして人々はそうした物語無しに生きているのか? というと必ずしもそうではない。
実情は、大きな物語を構築しようとする社会の意図的な営みが失われた結果、defaultとして誰もが容易に合意できる大きな物語が信奉されるようになっているのである。
即ち、知的な努力無しに簡単に理解できる物語が信奉されるようになっているのである。
いうまでもなく、それは「質」よりも「量」に注目する物語である。
「質」(例:何を真として、何を善として、何を美として追い求めるのか?)について考えるためには知性が必要になるが、「量」に関して考えるためには、事の大小を図ることができればいい。
100円よりも10000円の方がいいという判断ができさえすればいいのである。
正にこれこそウィルバーのいう「フラットランド」(Flatland)的な価値観に支配された思考ということになるが、思考をすることに怠惰になった途端、こうした最大公約数の人々が容易に理解できる低劣な物語が静かに「大きな物語」としての市民権を得て、社会を支配するようになるのである。
妥当性を喪失した既存の物語を否定(脱構築)することは必要なことであるが、それが結果として生み出す「価値の欠如」が、こうした最も低劣な物語に強奪されてしまうことになるというメカニズムについて、脱構築という行為に夢中になりすぎた現代人は気づくべきであろう。

発達理論を学ぶうえでの必須条件

Zachary SteinのEducation in a Time between worldsを読み進めているが、インテグラル・コミュニティの研究者の中でこれほどまでに倫理的な感性をしっかりともって意見を表明している人は皆無といってもいいのではないだろうか……。
著者は、一貫して、人間を資源として矮小化してとらえる教育――即ち、生徒を社会的に有用な存在として仕立てあげることを教育の役割と見做す教育――を批判している。
端的に言えば、そうした教育においては人間が本質的に経済的な機能を効果的・効率的に果たせるようになるために訓練されるべき存在としてとらえられ、教育はそうした訓練を最も効果的・効率的に提供する機関と位置づけられてしまっているのである。
そして、また、そこでは「測定」というものは必然的にそうした資源としての人間の能力を測るためのものになり果てることになる。
非常に重要なことは、Harvard Graduate School of Educationで長年にわたり測定に関する研究にとりくんできた著者が、常にこうした問題意識を維持してきたということである。
ある意味では、それは発達理論を学ぶうえでの必須の条件とさえいえるだろう。
それは医師におけるヒポクラテスの誓いのようなものといえるだろう。
今日、成人期の発達に関する研究成果が一般に紹介され、ひろい範囲の人々の関心を集めているが、そうした勉強をするうえで、われわれはまずはこうした倫理的な誓いを立てなければならないということがどれだけ認識されているのだろうか……。
それを忘れてしまった途端、発達理論に関する知識はそのまま人間を資源として矮小化してとらえる同時代の風潮に加担するためのものとして濫用されてしまうことになるのである。

Zachary SteinのEducation in a Time Between Worlds

注文していたZachary SteinのEducation in a Time Between Worlds(「狭間にある世界における教育」)が届いたので、早速中を捲ってみた。


 

著者が専門としている教育学の領域の優れたエッセイ集であるだけでなく、ケン・ウィルバーのインテグラル思想に関する最良の研究書といえると思う。
巷には無数のインテグラル思想の関連書があるが、このレベルのものは存在しないのではないか? と思わせるのは、結局のところ、著者が独自の「声」を有する思想家として思考することができているからだろう。
この書籍は、懇意にしている教育関係者にはぜひ紹介したいものだが、残念ながら、英語である。
また、それも必ずしも平易な言葉遣いで書かれているわけではない。
1日も早く優れた翻訳書が出るといいのだが……

セバスティアン・ヴァイグレの読売日本交響楽団第10代常任指揮者就任披露演奏会を聴いて

5月14日にサントリー・ホールでセバスティアン・ヴァイグレ(Sebastian Weigle)& 読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきた。
第10代常任指揮者に就任したこの指揮者の就任披露演奏会である。
前半はヘンツェ「7つのボレロ」であるが、あまりの曲のつまらなさに20分程の短い演奏時間にもかかわらず完全に退屈してしまった。
サイモン・ラトルをはじめとして、有名識者がこの作曲家の作品を録音しているが、個人的には、この日の演奏を聴いて、この作曲家がいかに過剰評価されているかということだけを実感した。
ある意味では――作曲は没してはいるが――今はまだ作品が一般聴衆に紹介されている時期なのではあろうが、将来、こうした作品が演奏会で頻繁にとりあげられるようになり、聴衆が熱心に耳を傾けて心や魂の潤いを得ることになるとは到底思えないのである。
そうした意味では、まずこの重要な演奏会の冒頭にこうした作品をとりあげたヴァイグレの選曲センスを疑ってしまった。
そして、後半のブルックナーの交響曲第9番だが、この作曲家を特徴付ける箴言が全く聞こえてこない。
読売日本交響楽団の献身と高度な機能性もあり、見事な音響が鳴り響くのだが、それを超えて届いてくるものがまるでないのである。
また、指揮者の動作そのものからも芸術性がまるで感じられない。
たとえば上岡 敏之の指揮振りが音楽の意味そのものを高い純度で体現したものであるのと異なり、悪い意味で「合理的」なものであるように思える。
そこには表現することにたいする気迫や執念のようなものが全く看てとれないのだ。
技術的にはほぼ完璧な演奏を聴いているのに、これほどまでに全く心が動かされないというのは久しぶりだ。
ブルックナーの交響曲を知悉している読売日本交響楽団の演奏が非常に見事なものであるがゆえに、皮肉にも、指揮者の芸術性の貧弱性がひときわ際立つのである。
このような指揮者を常任指揮者に迎えて、このオーケストラは大丈夫なのか……? と心配してしまう。
もしこういう類いの演奏をこれから聞かせられるのだとすると少々恐くなるほどだ。
こうした心配がいい意味で裏切られるといいのだが……。
いずれにしても、この指揮者は、日本人が期待する古い「ドイツの精神」の持ち主というよりは、むしろ、近代の合理主義的な精神の持ち主という方が正確だと思う。
報道記事のほとんどは、ヴァイグレのことをドイツの精神を継承する指揮者として宣伝しているようだが、それは大きな誤解を生むものといえるだろう。
先日の第587回定期演奏会でオラリー・エルツが指揮するシベリウスの演奏を聴いて、読売日本交響楽団の状態が非常にいいことに驚嘆したのだが(それは前任者のシルヴァン・カンブルランの大きな遺産であろう)、あらたな常任指揮者のもとでそうした美質が失われないことを切に祈る。