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発達がもたらしてくれるもの……(3)

巷では、批判的思考力を鍛錬するための方法として「前提条件を疑え」と訓えられる。
しかし、これは往々にして所与の目標や目的を温存したまま、あくまでもそれを実現するための方法上の制約にたいして疑問を抱くようにという訓えとして理解されるようである。
いうまでもなく、それは慣習的段階の枠組の中の理解である。
後慣習的段階の意識をとおして批判的思考をするときには、みずからの思考を動機づけている心理的な動機や物語や欲求そのものにたいして内省しようとする。
即ち、われわれの価値観や世界観そのものを意識化して、それが自己の思考に大きな影響をあたえていることに気づこうとする内向的な探求にとりくもうとするのである(たとえば、環境経済学の大家であるHerman Dailyは、われわれが分析的な思考をはじめるうえで基盤としている価値観や世界観のことを“pre-analytic vision”と形容しているが、後慣習的な発想とは、正にそれを意識化しようとするものなのである)。
こうしたことを踏まえると、「後慣習的段階に到達することで、仕事ができるようになる」という発想そのものがいかに的外れなものであるかが理解できるだろう。
むしろ、後慣習的段階の人間は、そもそも人間の成長というものを半ば自動的に営利活動に従事するための優位性を高めるための「方法」として道具化してしまう自己の嗜好そのものを意識化・対象化して、それについて批判的に検討するはずである。
また、その過程の中で、自律的であるはずのみずからの精神活動が実は時代や社会の圧倒的な影響下で営まれていることに気づくことになるだろう。
端的に言えば、Max HorkheimerとTheodor W. AdornoがDialectic of Enlightenmentの中で分析したように、人間の存在そのものが経済的な活動に効率的・効果的に従事するための「資源」や「道具」として位置づけようとする現代社会の支配的なイデオロギーの枠内で「自律的」に思考していたということに気づくはずである。
また、そうした気づきにもとづいて、真の自律性を確立するための探求にとりくもうとするだろう。
もちろん、ときには、そうした気づきを得たうえで、それでもなお同時代のイデオロギーの枠の中に安住することを選択する場合もあるだろう。
しかし、それは、迷信を迷信と認識しながらも、周囲との協調を図るために、表面上はそれを信奉して生きるふりをするようなもので、そこには必ずそうした生き方をすることを意識的に選択するという高次の要素が加わることになる。
つまり、自身が参加しているものが、「虚構」(game)であることを認識しているのか、あるいは、それを現実と錯覚しているのかという決定的な差が生まれるのである。

いずれにしても、後慣習的段階の認知構造をそなえた人間はどのような行動をするものなのかという問いに答えようとするとき、われわれは、その独特の「醒め」がもたらす洞察に留意する必要がある。
それは、単純に所与の価値観や世界観の中で「活躍」「成功」しようとするのではなく、そうしたものそのものを豊かな批判精神を発揮して脱構築して超克しようとする。
あえて言えば、それは、発達することで業績を上げようとするような発想とは正反対のものであるといえるだろう。
むしろ、後慣習的段階の認知構造は、人間の成長衝動を悉く経済的な論理に絡めとってしまう 惑星規模で人類を集合的に呪縛するシステムを脱却するための道を模索しようとする。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の中で「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して、現代という時代が――貨幣に代表される――量の論理にもとづいて世界を矮小化する深刻な病に冒された時代であることを示したが、結局のところ、後慣習的段階の認知構造に立脚して発想するとは、フラットランドを超克するための闘いを展開することになるのである。

(つづく)

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