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発達がもたらしてくれるもの……(4)

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、「インテグラル」(統合的)であるとは「政治的」であることだと発言している。
いろいろな解釈ができる発言であるが、個人的には次のようにとらえている。
即ち、後慣習的段階――ウィルバーは、ここで個人は統合的な発想ができるようになると述べて、この段階をインテグラル段階と形容している――に到達することで、われわれは、個人の意識というものが時代や社会の価値観や世界観に深く影響されるものであることを認識して、そうした影響が具体的にどのような集合的な機構や制度をとおして行使されているのかを批判的に探求しようとするようになる。そして、そこに何等かの不正義があるときには、積極的に問題提起をしようとする。
また、後慣習的段階においては、社会には、ある特定の世界観や価値観が信奉されることをとおして、自然とその利益を享受する者達とそうでない者達が生まれ、社会の機構や制度はしばしば前者の利益を保護・増幅するかたちで機能するものであるという厳然とした事実を認識するようになる。そして、そうした認識にもとづいて、同時代の中で排除・抑圧されている存在や視点に意識を向けて、そうした排除・抑圧がいかなるメカニズムやダイナミズムをとおして温存されているのかを探ろうとする。つまり、社会の主流の対話の中でとりあげられない事実や真実に目を向けて、それらを包含したものとしての全体性を把握しようとするのである。
こうした発想は、単に「右派」と「左派」や「保守」と「急進」をはじめとする対極の両方の意見に耳を傾けようとするだけでなく、そのどちらにも考慮されないこと――また、ときには、そうした対立軸があることで排除されてしまうこと――にも意識を向けようとする。
端的に言えば、慣習的段階における統合的思考が、一般的に――たとえば教科書や報道等において――対極なものとしてあたえられている立場や視点の両方を考慮・包含しようとするものであるのにたいして、後慣習的段階における統合的思考は、そもそもそうした対立構造そのものが――少なくとも潜在的には――何等かの真実や事実を排除・抑圧するものであることを察知して、そうした所与の思考・発想の枠組そのものを超克(脱構築&再構築)しようとするのである。
換言すれば、後慣習的段階の発想とは、既存の価値観や世界観――及び、それに付随する社会的な機構や制度――そのものを批判的・構造的に検証することをとおして、さらなる全体性を回復しようとするのである。
当然のことながら、それは既存の権力構造・支配構造にたいする辛辣な視点を伴うことになり、そうした意識に立脚した思考や行動は半ば不可避的に政治的な性格を帯びることになるのである。

このように、慣習的段階の発想が既存のゲームにおいて成功しようと策を練るのにたいして、後慣習的段階の発想は既存のゲームをゲームと看破して、必要であれば、それそのものに異議を唱えることになる。
真剣にゲームに興じている者には、そもそもそれがゲームであることに気づくことすらできず、全存在を賭して、そこで勝利を収めることに腐心することになる。他者がゲームの終了を告げる笛を鳴らしてくれるまでは、自力ではプレイを終えることすらできない。
後慣習的段階とは、はじめてみずからの意思でそうしたゲームから降りることができる段階であるとさえいえるのである。

今日の社会状況は、近年の諸々の論考の中でケン・ウィルバーも指摘しているように、既存の価値観や世界観――そして、それに立脚した支配構造――が徐々にその「正当性」(legitimacy)を失いはじめている時代であるといえる。
その背景には、いうまでもなく、インターネットをとおして自由に情報が流通するようになり、これまでに排除されていた情報に人々が比較的に簡単にアクセスできるようになったという事情がある。
日本においては、「記者クラブをはじめとする中央管理機関の指示を受けて、「大本営発表」を半ば機械的に発信することで成立していた報道体制にたいする信頼が喪失していることは、もはやあきらであろう(実はこうした状況は、欧米でもそれほど変わらないことは、たとえばNicholas SchouがSpooked: How the CIA Manipulates the Media and Hoodwinks Hollywoodの中で克明に論じている)。
また、たとえば、先日 OXFAMが告発したように、極少数の人間が地球の富を独占的に所有する極度の格差社会が出現していることが露わにされ、慣習的段階の人々が信奉していた価値観・世界観が根本的な問題を内蔵していたことが認識されはじめている。
当然のことながら、こうした状況の中では、既存の支配構造の中で恩恵を受けてきた階級の関係者は、さらなる価値観・世界観の動揺を回避しようと策を練ろうとする。
周知のように、2001年の「同時多発テロ」以降、合衆国内では徹底的な監視制度の整備が強力に推進されている。また、日本国内では、特定秘密法・共謀罪等の性格を同じくする法律が施行・検討されている(こうした日米間の監視社会の感性に向けた連携については、たとえば、先日、The Interceptが非常に興味深い調査報道記事を発表していた)。

こうした状況を眺めると、われわれは今まさに慣習的段階の認知構造の行動論理が限界をむかえる時代に生きているといえるのかもしれない。
ただし、こうした状況は、インテグラル・コミュニティの関係者が主張するように、必ずしも集合意識の進化により牽引されているわけではない。
むしろ、それは純粋にICT技術の進化により牽引されているものである。
実際、インテグラル・コミュニティの関係者の主な関心は、あくまでも発達理論を同時代の中で展開されているゲームの中で成功を収めていていくためにどのように活用できるのかというところにあるのであり、そもそもそうしたゲームの背景にある価値観・世界観そのものに批判的な問題意識をいだき、その超克にいかに寄与できるかという発想はほとんどできていない。当然、今日 価値観・世界観の正当性をめぐり惑星規模で展開されている「抗争」についても半ば無関心を決め込んでいる。
その意味では、発達理論に関心を寄せていても、実はその真意をとらえそこねてしまっているのである。
しばらくまえに、ある発達心理学者が「インテグラル・個コミュニティの重心は合理性段階にある」と語っていたが、それは正に的確な指摘である。発達理論に興味をいだくことは、その本人の認知能力が高いことを保証するものではないのである。

先述のように、ケン・ウィルバーが、「インテグラル」であるとは「政治的」であることだと言うとき、そこで意味されているのは、単純にいわゆる「政治的」であるということではない(もちろん、それを排除するものではない)。
むしろ、社会において集合意識を呪縛する価値観や世界観の正当性をめぐる抗争が恒常的に展開されていることを認識して――それは必然的に既存の価値観や世界観に埋没することを拒絶することである――その問題にたいして主体的に責任をとろうとすることである。
後慣習的段階とは、そうした責任感に支えられたものであろう。

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