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第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス @ TOPPAN HALL

先日TOPPAN HALLで開催された「第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス」を観に行った。
講師は著名なチェリストのマリオ・ブルネロ(Mario Brunello)である。
桐朋学園大の3人の優秀な学生が、ひとり1時間程の持ち時間をあたえられ、舞台上でブルネロ氏のレッスンを受けるのだが、その指導内容はわたしのような音楽の門外漢にも非常に刺激的である。
もちろん、奏法等に関する技術的な領域の指導に関しては、ときに着いていけないところもあるのだが、少なくとも、演奏を技術的に正確に弾くことを主眼にした段階から、聴衆の存在を前提とした芸術的な表現に高めていくことに関する指導に関しては、音楽以外の領域にもあてはまる非常に普遍的な言葉が次々と発せられるので、非常に勉強になる。
3人の生徒さんはいずれも優秀な演奏家なのだが、ブルネロ氏は、彼等にたいして、一貫していわゆる「自己著述能力」(self-authorship)を獲得することの重要性を伝えようとしていたように思う。
たとえば、次のような言葉はとても印象的である。

「そういう演奏は学校では褒められるかもしれません。しかし、それは学校向けの演奏です。しかし、ここはこのように聴衆がいるコンサート・ホールですので、そういう演奏では通用しません。」

つまり、作品の本質的なものをたいせつにしながら、しかし、作品をとおしていかに自己を表現するのかという難題を突きつけているのである。
そして、それは、教師や学者に代表される外部の権威的存在に承認されるような「正しい」演奏をするのではなく、自己の感性をとおして――自己の内に蓄積してきたもの全てを投じて――作品を表現することを鼓舞である。
傍から見ていても、なかなか厳しいレッスンなのだが、それをとおして目の前の生徒達の音楽が変化していくのを眺めるのは、それだけで感動的である。
そして、そんな光景を眺めながら思っていたのは、自己の「声」を表現することを決意するということが、どれほど難しいことであるかということであり、そして、そのために、このようにして、それを日々実践している指導者的存在に触れることが実に重要なことであるかということである。
最終的には唯一無二の自己の声を発見することが求められるとしても、少なくとも最初の段階においては、こうした随伴者と一緒に橋を渡れることの価値は計り知れない。

また、ひとりの音楽愛好者として、今回のイベントをとおして訓えられたのは、演奏者の「造詣力」というものが、いかに緊密に自己の声を見出すことに関係しているのかということである。
たとえば、単に機械的に楽譜の休符を守るのでなく、それが前のセクションと次のセクションをつなぐ生きた静寂となるように、いかに間を取るのかということに関するブルネロ氏の指導に耳を傾けていると、演奏者が作品の構造――そして、全体の中でのそれぞれのセクションの意味や役割――をいかに洞察するかが、その演奏者の造詣力に直結していることを実感する。
そうした洞察が演奏者に作品を生きたものとして再現することを可能とするのである。

いずれにしても、どれほど教育制度が整えられていても、そこで指導にあたる者が、作品の陰に隠れて、生徒に正しく演奏することしか訓えていなければ、生徒は自己著述的な段階に至ることはできない。
また、いずれはそうした指導者の存在が邪魔になることになる。
生徒にとり、この発達上の橋を渡ることがいかに難しいことであるのか、そして、指導者にとり、そうした生徒の成長を支援することがいかに難しいことであるのかを実感させられるクラスであった。

 

備忘録として、当日のメモを記しておきたい。

 

課題曲:Beethoven: Cello Sonata No. 4 opus 102-1

・性格の異なる二つのセクションのあいだに存在する「間」(空白)をいかに演出(創造)するか?
・間とは、単に音を出さないでいることではなく、ひとつのセクションが完結して完全な静寂に収束する音楽の一部であり、また、それにつづく躍動的なセクションが爆発的に生まれるのを聴衆が息をこらして待つ濃密なところでもある。そうした聴衆の心理に意識を向けて演奏者は間を演出する必要がある。
・“There is no music here. Only power. No beauty” ベートーヴェンの音楽には、美しい旋律を奏でるの拒絶して、ただ原初的な音の塊そのものが鳴り響くところがある。そういうところでは、演奏者はいわゆる「音楽」を奏でることにたいする執着を捨てなければならない。また、そうしたところでは、ブルネロ氏は「余裕」をもって演奏することができない状態にあえて演奏者を追い込もうとしていたように思われる。最終的には、演奏者は自力で自己をそうした状態に追い込んでいけるようになる必要があるわけだが、真に作品の本質につきあうためには、ときとしてそうした状態に自己を高める必要があるのである。
・こうした水準で表現ができるためには「体」が重要であるように思われる。20歳という年齢は、実はまだまだ身体ができあがる過程にあるのではないかと思われる瞬間もあった。

 

課題曲:Gaspar Cassadó: Toccata in the Style of Frescobaldi
・「あなたはこの音楽を理解していない」
・楽譜を間違いのないように演奏できることに腐心しているようだが、それは作品の本質と関係のないところで優れているに過ぎない。
・聴衆と対話をしながら――聴衆をエンターテインしようとしながら――演奏ができているのか? そして、そのために必要とされるケレンを持とうとしているのか?
・即ち、それは作品を自分のものとするということである。そして、それを鍛錬することが演出力=造形力を鍛錬するということである。
・「それは学校用の演奏です。しかし、ここにはこうして聴衆の方々がいてくれるコンサート・ホールです。ここではそんな演奏は通用しません」

 

課題曲:Bach: Cello Suite No. 5 Sarabande and Gigue
・「無伴奏の作品を演奏するときには、演奏者はその伴奏を自己の意識の中で奏でるといいのではないか(わたしはそうしている)。そして、そこにはそれまでに自身が蓄積してきた経験や知識や教養の全てを投入する必要があります」

 

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