<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
<< 精神の檻 | main | 成長の触媒としての「越境」について >>
「シン・ゴジラ」 ‐ 二つの合理性

先日、「シン・ゴジラ」をDVDで再観賞したのだが、あらためて傑出した作品だと思った。
ただ、ひとつどうしても気になるのは、日本人俳優の英語が酷いことで、もちろん、ある程度は練習はしているのだろうが、総じて恥ずかしいレベルである(外国人俳優の英語は、日本人にも聞きとれるように意識しているのだろうか、とても聞きやすい)。特に石原 さとみは酷く、彼女が登場すると一気に画面の現実感と緊迫感が失われ、そこだけ別のコメディ映画のような雰囲気になる。
まあ、それはともあれ、「シン・ゴジラ」の面白さというのは、ひとえに「官僚」の行動論理を的確に描いていることにある。彼等は非常に優秀であるが、その優秀さは常に他者にあたえられた目的を達成するためにしか活用されないという特性を備えている――あるいは、自己の立場に付随する目的を達成することにしか用いられない。全ての会議はそうした所与の目的を「確認」「承認」するためのものであり、 それよりも踏み込んだ議論は行われない。
こうした文化を維持するための重要な約束が、「想定外」のことについては考慮しないという暗黙の合意を全ての関係者がしておくことである。そうした議論を許してしまうと、ほんとうに議論をしなければならなくなるし、目的そのものについても問い直さなければならなくなる。
作品の中では、ただひとり主人公だけがそうした「約束」を破る勇気を持ち合わせた人物として描かれるが、正にそれがこの人物を主人公たらしめているのである。また、それは単に周りの空気に抗うという勇気を持ち合わせているだけでなく、そうした状況においても、「前提を疑う」というより高い認知能力を駆使することができるという真に高い認知能力を発揮できるという認知的な特徴に支えられてもいる。発達心理学のロバート・キーガン(Robert Kegan)が述べるように、個人の認知構造の成熟度とは、結局のところ、周囲の支援が無い過酷な状況においても発揮されるものをみて測定されるべきものなのである。
その意味では、「シン・ゴジラ」という作品は、二つの異なる認知構造間の衝突を描く作品としてもみれるだろう。即ち、同じ合理性段階の認知構造でも、所与の目的の実現にたいして盲目的に従属する合理性と所与の目的に呪縛されることなくそうした前提条件を脇に置いて、現実と対峙できる合理性のあいだの衝突なのである。
ちなみに、前者に関しては、Max HorkheimerとTheodor W. Adornoが“Dialectic of Enlightenment”の中で詳述している。そうした精神は、第二次世界大戦中には全体主義の温床となり、そして、現代においては「想定外」にたいしては意識を閉ざし、ひたすらにあたえられた目的に自己の精神を従属させる思考麻痺を蔓延させている。
日本の集合意識は半世紀前とくらべて、少しも進化はしていないのである。

 

Trackback URL
http://norio001.integraljapan.net/trackback/273
TRACKBACK