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2018年総括(3)

国内に目を向けると、2018年は、日本人の政治にたいする慢性的な無関心が最悪の影響を社会にもたらしていることが露呈した年であった。
2011年の東日本大震災時に福島原子力発電所の過酷事故が発生したときに、首都圏が退避圏内にはいる可能性と隣り合わせになったことは、まだ記憶にあたらしいが、個人的には、そこで人々がその現実にあまりにも無関心であることを目のあたりにしたときの衝撃を忘れられない。
そのとき、日本人がこの世界で生きていくために果たすべき最低限の責任と権利を放棄している事実を認識したものである。
今日に至るまで、この国の人々のそうした状態は少しも変わっていない。
そして、そのツケは着実に急速にこの国を衰退に追い遣ろうとしている。
端的に言えば、「インテグラル」云々言うまえに、最も根源的なレベルにおいて、この世界で生きていくために必要とされる感覚(生存にたいする基礎的能力)そのものが毀れているのである。
今年も政権のもと、国を弱体化するための数々の法案が採択されたが――確かに報道機関が無関心と思考停止を涵養するための装置として機能しているとはいえ――権力というものが本質的に腐敗するものであることを肝に念じ「関心をはらいつづける」「思考をしつづける」という大人としての責任をこれほどまでに徹底して放棄して全てを傍観している様子を眺めていると、この国が衰退の最終局面に入ったことを実感する。
もちろん、日本人は、ある領域においては、勤勉であるといえるかもしれない。
書店には自己啓発系の書籍が無数に置かれており、それが旺盛に消費されている。
また、社会の動向を俯瞰的に眺めて、来るべき時代の姿を占う書籍も多数販売されている。
全体的には書籍の販売数が激減しているとはいえ、国内・国外の書籍がこれだけ豊富に陳列され、また、積極的に読まれている状況を眺めると、それほどまでに知的怠慢が蔓延しているとは信じ難いと思われるかもしれない。
しかし、問題は、こうした知的衝動が徹底的に企業人としての活動を高質化・効率化するためだけに振り向けられていることである。
また、自己の精神的・肉体的な状態を整えるための諸々の方法(例:食事・睡眠・運動・瞑想に関するもの)も、結局のところ、それを実践することで、企業人としての自己の生産性を高めるための道具としてしか見做されていないということである。
たとえば、「世界のエリートが実践している休息法」というようなタイトルの書籍があるが、それが「約束」しているのは、結局のところ、「上手に休息をとることができれば、あなたも「勝ち組」(“エリート”)の仲間入りすることができます」というようなことである。
即ち、たとえば休息や睡眠をはじめとする最もプライベートな「活動」でさえ、生産性を高めるための機会としてとらえるべきなのだ――という脅迫的なまでのメッセージがそこに隠されているのである。
そして、そのことに気づいているかいないのかは別として、人々は実に素直にそうしたメッセージを消費して、自己の存在を熱心に経済の論理に差しだしているのである。
インテグラル理論は、Jurgen Habermas等の指摘を踏まえながら(“Colonization of the lifeworld by the instrumental rationality of bureaucracies and market-forces”)、こうした状況を量的な価値観に生活の全ての領域が占領される状態としてとらえ、それが現代社会を深刻に蝕む根幹的な病理であることを指摘する(c.f., 「フラットランド」)。
正にそうした病理に骨の髄まで蝕まれているのが日本であり、その末期的な症状が、今社会を覆う「全てを経済活動の論理でとらえ、他の論理(価値観)を積極的・消極的に排除する」という習性なのである。
実は人類の歴史の中で、現在われわれが信奉している経済観は非常に特異なものだが、現代人はそれを歴史的に最も進歩したものとして無批判にとらえて、その呪縛のもとに楽園を夢見て世界を再構築している。
そうした怠惰な知性が――それは皮肉にも過労死を日常的な風景として正当化してしまえるほどに勤勉な精神でもあるのだが――歴史(将来)にたいしてまともに責任をとれるはずはない。
非常に勤勉ではあるが、同時にあたえられた物語を無批判に信奉して、その指示に忠実に思考し行動する――そうした姿は正に機械のそれに喩えることができるだろう。
当然のことながら、そうした実質的な催眠状態にある人間を操作するのは非常に簡単なことである。
広告代理店が仕掛けるプロパガンダ施策にこれほどまでに容易に誘導されてしまうのは、当然といえば当然のことなのである。
しばらくまえにSNS上でこんな記述を目にした。
曰く――The Walking Deadをはじめとする、今日流行しているゾンビ映画に描かれるゾンビとは実は現代の大衆そのものなのだ。それは、自己の衝動だけに忠実であり、底無しの欲望を満たそうと常に刺激(快楽)を求めつづける。そして、少しでも人間性を残した同胞を目にすれば、それに群れをなして襲い掛る。
正に現代の大衆の姿である。

近年、サイコパスに関する書籍が注目を浴びているが、そうした解説書の中には、サイコパスが自己の異常性を隠蔽するために、しばしば、環境そのものをサイコパス的なものに変容させてしまうことが述べられている(c.f., The Sociopath Next Door by Martha Stout)。
たとえば、長年にわたりHarvard Medical Schoolで教鞭をとった精神病理学者のMartha Stoutは、合衆国の全人口の少なくとも4%がサイコパスであると述べているが、そうした人物が共同体の支配構造の上層部を占めるとき――われわれは正にそういう時代に生きているといわれる――社会そのものがサイコパス化してしまうのである(たとえば、安冨 歩氏が提唱する「東大話法」は、こうした心性を再生産しひろく蔓延させるためのmemeといえるだろう)。
「フラットランド」の支配のもと長年にわたり集合規模で醸成された知性と感性の鈍磨にくわえて、サイコパスの跳梁跋扈の結果として常態化したサイコパス的な心性の蔓延――日本はこうした深層的な病理に蝕まれながら末期的な状況に突入したのである。
とりわけ、そうしたサイコパス的な心性を発揮して権力構造の頂で犯罪的な行為を行いながらも、たとえそのことが公にされても、それにたいする責任が問われなくなるとき、その社会は真の意味で完全にサイコパスにその統治権をあたえたことになる。
そこでは、彼等は自己の犯罪を隠蔽しようとするのではなく、むしろ、それがどれほどあきらかにされたとしても、全く責任をとらずに済むことを示すことにより、大衆の無力感を増長させ、自己の支配権を増幅しようとする(“revelation of means”, Michael A. Hoffman II)。
2018年とは、そうした支配が完成したことを如実に示された年として画期的な年であったといえるだろう。

 

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