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組織開発と倫理

先日、組織開発を専門として大学機関で研究活動に従事されているある研究者の方を勉強会に御招きして、話しを窺った。
現在、巷でも「組織開発」という言葉に関する認知が高まり、また、数多くの組織で実践が為されるようになる中、この研究者の方も多忙な活動を展開されているという。
講義と質疑を合わせて2時間程の短いやりとりではあったが、いくつかの興味深い示唆をもらうことができた。
 
個人的に特に共感を覚えたのは、先ずは「組織開発を実践するときには何よりも倫理性が重要となる」という指摘である。
即ち、「自己啓発」と同じように、組織開発も企業組織の従業員を搾取するための方法として悪用される可能性を秘めていることを認識しする必要があるということである。
組織開発の活動の中で個人と個人の間の関係性の密度を高めることは、組織の凝集性を高め、同調圧力を強めてしまうことになる可能性がある。
たとえば、「これだけ皆が意欲に燃えて頑張って働いているのに君はもう帰宅するのか!!」というような発言が何の疑問もなく発せられてしまう状況を想像してもらえば、云わんとすることを理解していただけるだろう。
特に日本の場合には、文化的にそうした同調圧力が個人を呪縛する土壌が根深くあるので、こうした問題にたいしてわれわれは特に注意すべきであろう。
しばらくまえに「やりがい搾取」という言葉が言われたが、正に同じような搾取が「組織開発」の名のもとに行われないように警戒をする必要があるのである。
また、これに付随して指摘されていたのは、組織の全員を組織開発に巻き込むことの不可能性である。
結局のところ、企業組織の従業員は、多種多様な価値観や人生観にもとづいてその組織に所属して業務に従事しているのであり、その全てが組織開発という概念(及び、そこに息づく価値観)に共感するというわけにはいかないということだ。
むしろ、真に多様性を尊重するとは、そうしたことにいっさい関心を寄せない感性や態度も許容するということでもある。
組織活動に興味を持ち、その関連活動に積極的に参加しようとする態度を奨励して、そうしたものにたいして醒めた態度を示す関係者を冷遇したり、批判したりするのは本末転倒なのである。
ある意味では、組織開発とは、そうしたことに興味を持つ者達が同様の感性や発想を持つ同志を集めて――いい意味で――「勝手」にすればいいことなのである。
 
もうひとつ共感したのは、組織開発を組織の生産性向上のための万能薬と錯覚することは危険である」という指摘である。
たとえば、「組織開発を実施すれば、会社の業績が上がります」「組織開発をすれば、会社の創造性が高まります」……等の宣伝や主張を耳にすることがある、「それは本当にそうなのか?」と問う必要があるのである。
その研究者の方は「たとえば、会社のビジネス・モデルそのものを変える必要がある状況においては、組織開発はあまり意味を持ち得ない」と述べていたが、全くその通りであろう。
沈みゆく船の中でどれほど乗客が相互の関係性を高めても意味はないのである(もちろん、関係性を高めることで、「今この船は沈もうとしている」という事実を認識することができ、それにたいする対処法を知恵を集めて検討することができるようになるということはありえるが……)。
むしろ、その場合には、有限の資源を組織開発に投じるよりは、ビジネス・モデルの再設計をするための活動に振り向けるべきであろう。
少なくとも、その研究者の方が言われていたように、「組織開発を半ば万能の方法として主張する者には注意をしたほうがいい」ということだ。
 
また、もうひとつ記しておきたいのは、組織開発とは、何もいわゆる「組織開発」という言葉を聞いて想起される活動を展開することを指すのではないということである。
端的に言えば、その意図次第では、どのような活動でも組織開発としての意味を持ちえるということだ。
その意味では、「実践者」や「企画者」は特定の方法に拘泥することなく、あらゆる機会をみつけてとりくめるのである。
 
いずれにしても、組織開発に関する関心というのは、本質的には、自己の所属する共同体にたいする関心を抱き、問題意識を共にする同士と共に何等かの積極的な活動を展開していこうとする自然な意志の中にその基盤を持つものだと思う。
そうした関心は必ずしも自己の所属組織の文脈の中で発揮されるものであるとは限らず、たとえば地域共同体・国家共同体の政治にたいする関心として発露するということもあるだろう。
重要なのは、自らが生きる共同体に関心を持ち、それに倫理的な観点から主体的に関わろうとする意志を育み、具体的な行動として発揮するということなのである。
但し、個人的には、組織開発に非常に関心があるにもかかわらず、共同体の政治に関心が向かないというのはどこか矛盾を来しているように思わなくもない。
即ち、自らが生きる共同体にたいして関心を抱くという普遍的な能力――そして、それは義務であるともいえる――が、組織という文脈の中に押し籠められてしまい、よりひろく、そして、よりたいせつな文脈の中で表現されていないのである。
端的に言えば、経済的利益という実利に直結する文脈の中でしか表現されず、それを超えたところにある価値にたいしては、ほとんど場合、無感覚であり無関心であるのだ。
経済的な尺度で測定できるものにしか関心を払えないというのは、正に思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で痛烈に批判をした病理であるが、こんなところにもそれが確実に露呈しているのである。

 

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