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発達の危険性に関する覚え書き

現在、インテグラル・コミュニティでは、ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)に続く世代(40代)が台頭して目覚ましい活躍を展開している。
彼等に共通しているのは、KWのインテグラル理論を非常に深く理解していると同時にその課題や問題を批判的に指摘していることで、これまでにインテグラル・コミュニティの中で支持されてきた「常識」を根本的に覆す視点を非常に説得力あるかたちで呈示してくれている。
そうした研究者・実践者の代表格がSean HargensとZachary Steinである(彼等の著書や論文は膨大に存在するが、残念ながら日本語には翻訳されていない)。
今、日本では徐々にインテグラル理論にたいする注目が集まりつつあるが、注意をしないと、あきらかに誤りであることが判明していることがそのままに紹介されてしまうので、そのあたりに関しては、こうした新世代の指摘を勘案してKWの文章を読む必要があるだろう。
ともあれ、個人的にもこうした新世代の興味・関心の方向性を直接に確認したく、現在4箇月に及ぶSean Hargensの講座を受講しているところである。

そんな中で、先日、関係者と興味深い話題について意見交換をしたので、簡単にまとめておきたい(また、偶然にも、同じような話題について、先日、インテグラル理論に造詣が深い若い友人と話をした)。
その話題というのは、いわゆる「後慣習的」(post-conventional)といわれる視点や発想や話題に人々が興味や関心を向ける理由は何であるのか? というものである。
端的に言えば、同時代の常識の枠を外れた話題に興味を抱けるようになる条件とはどのようなものなのか? ということだ。

KWの発達理論の枠組では、Green以降の段階が後慣習的段階となるが、実際にそうした段階に関する論文を紐解いていくと、実際にはそれが独自の苦悩や困難をもたらすことが読み取れる。
一般向けに書かれた書籍では、「発達すると仕事における生産性が高まるのです」と能天気に紹介されていることもあり、誤解をあたえるのだが、実際には必ずしもそうではなく、ときには「生産性」の低下をもたらすこともある。
結局のところ、Green段階に至るときに人間が獲得するのは、その時代や社会に生まれ生きることをとおして、自身が不可避的に囚われることになる価値観や世界観(“pre-analytic vision”)を対象化して、それを批判的に検証したり、あるいは、それと格闘したりすることができるようになるということである。
そこには実利的な意味で得になることは何ひとつないのである。
また、KWは過去の著書の中で後慣習的段階に立脚して思考・行動することは大きな危険を冒すことであり、実際、歴史的にはそうした人物達は厳しく排斥されたり、抹殺されたりしてきたと述べている(ちなみに、他にもCarl JungやAbraham Maslowも「個性化」や「自己実現」が非常に危険なものであることに注意を喚起している)。
そうした状況は21世紀においても本質的に変わらない。
変わったことは、その「排斥」や「抹殺」の方法が多様化したことくらいであろう。
端的に言えば、後慣習的段階に向けた心理的な成長とは、「実利的な利益をもたらしてくれそうだから……」というような動機で起きるものではなく、ある意味では已むに已まれずに起きてしまうものなのである。
それは意図的に起こすものではなく、そうした意図とは関係なしに、大いなる意志の影響下で強制的に起きてしまうものとしてとらえられるべきなのだ。
実際、Maslowが“the Johnna Complex”という概念で説明しようとしたように、そうしたプロセスに巻き込まれた者は往々にしてそうした「召喚」に抗おうとするものである。
そして、そうした自己の意図を超えたものとの格闘をとおして、自己の人格的な成熟を遂げていくのである。
端的に言えば、そこにあるのは、自己の内に息づく高次の「声」との対話と格闘であり、そうしたプロセスを歩むことが利益をもたらしてくれるかどうかを問う損得勘定が入り込む余地は無いのである。
KWは後慣習的段階をVision Logic段階と形容するが、即ちそれは、そうした段階の思考や行動を規定するものが、時代や社会に流通する価値観や世界観ではなく、高次の自己との対話の中で「開示」される構想(vision)や霊感(inspiration)であることを示唆しているのである。

神秘思想家が言うように、結局のところ、人間は自動反応的な機械に過ぎない。
そして、いうまでもなく、現代社会において、そうした機械を誘導する最大の刺激は「金」(money)である。
それをあたえれば、機械は如何様にも操れるのである。
後習慣的な段階において発揮される高い内省能力は、そうした刺激に半ば自動反応する機械的な存在としての自己の在り様を自覚させる。
そして、そうした認識を得ると、骨の髄まで条件付けされてしまった自己の存在そのものを「解決されるべき問題」として再認識することができるようになるのである(実存主義心理学者のRollo Mayの著書の中で指摘されるように、この自己の存在そのものを解決されるべき問題としてとらえる視点こそ、Green〜Teal段階の意識の特徴といえる)。
そうした問題意識を起点として展開する探求の過程において、それはいかなる利益をもたらすのか? という問いは本質的な問題になりようがない(Mayが著書の中で読者に自著に実利的な価値を持つ回答を期待してはいけないと警告していたのは、こういうことである)。

正に、若い友人が言っていたように、後慣習的段階を志向する「理由」(incentive)は基本的にこの実利的世界には存在しない。
むしろ、正にその友人が指摘するように、現代社会において世俗的な成功を遂げようとするのであれば、同時代の中で信奉されている「物語」を寸分も疑うことなく、その物語の中で「成功」とされているものを目指して邁進できる精神――即ち、慣習的段階の精神――を強化することである。
その意味では、後慣習的段階の発想は、「危険」であるだけで、得になることは何もないのである。

しかし、常識的に考えてみればすぐに解ることだが、真の豊かさとは――また、真の正気(sanity)とは――生まれた社会や時代の中で信奉されている物語(価値観・世界観)に囚われない感性を涵養するところに確保されるものである。
そして、現在、生活のあらゆる要素が経済的な成功を収めるための要素として見做されてしまっているが、そうした同時代の狂気に違和感を覚え、それを批判できる大人が絶滅危惧種化していることは真に危険なことだといえる。
そうした意味では、インテグラル理論をはじめとして、いわゆるGreen〜Teal的な思想に関心が寄せられている背景には、そうした危険性に薄々と気づきはじめている人々がひろい範囲に存在しているということなのだろう。
但し、そうした領域の探求をはじめるときに留意すべきは、それが本質的に危険を内包したとりくみであるということである。
もちろん、そうした探求を真にはじめた者には、それを止めるという選択肢は実質的に残されていないわけで、彼等にできることは、そうした危険を考慮しながら、前に進みつづけることだけである。
ただ、彼等には、人間社会というものが、その構造上後慣習的段階に向けた発達を阻害せざるをえないことを理解することが求められる。
こうしたことについては、先述のMayだけでなく、古くからCarl JungやAbraham Maslowも指摘をしているところでもあるので、いわゆる「自己啓発系書」をとおして発達理論と出遭った方々は、そうした心理学者の著書を丹念に読み進めるといいだろう。

 

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