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二つのマーラー演奏会

11月14日
藝大フィルハーモニー定期演奏会
東京藝術大学奏楽堂
指揮:高関 健

奏楽堂で高関 健&藝大フィルハーモニーの演奏で藤倉 大の新作とマーラーの交響曲第5番を聴いてきた。
まだあまりひろく認知されていないが、高関 健という人は非常に優れた指揮者だ。
数年前に彼の指揮のもと、東京藝術大学の在学生により編成されたオーケストラの演奏で、ショスタコーヴィチの交響曲第8番を聴いたときには、そのあまりに素晴らしさに度肝をぬかれた。
実際、そのときの感動は、その少し前にロンドンで聴いたサイモン・ラトルの指揮するLSOの演奏会の感動を完全に凌駕するほどのものだった。
その後も奏楽堂で在学生をソリストにむかえた演奏会でたびたび高関の演奏に接しているが、その見事な指揮技術にも感心させられるが、それ以上に、全体のバランスを毀すことも厭わずに、重要なところで表出する先鋭的な表現意欲に感服させられている。

今回の演奏会では、先ず話題の作曲家・藤倉 大の新作が演奏された。
個人的には、非常にありがちな「現代音楽」の作品の域を出るものではないと思った。
少しアンリ・デュティユーの作品を想起させたが、後半に作品が盛り上がっていくと、そこに清涼な空気が吹き抜け、そうしたところに藤倉の独特の魅力が感じられた。
とはいえ、こうした作品は結局は純粋に音響的な実験をしているだけのものなので、それ以上の感動はあたえてくれない。
プログラムを読むといろいろと解説が書かれているが、そうした作曲者の目論見に真面目につきあおうとも思わないのである。
演奏会にいくと、こうした「現代音楽」の作品が前座で演奏されるので、いろいろと聴かされるのだが、ほとんどの場合において、なんとも空虚な時間が過ぎていく。
今日もそうした感覚がつきまとった。

後半のマーラーの交響曲第5番はたいへんな熱演だった。
特に第4楽章は絶美の名演だったと思う。
常にデリカシーを保ちながら絶唱する弦合奏に身を浸しているだけで、作曲者がこのときに享受していた束の間の至福が感じ取れ、自然と涙が出てきた。
また、ハープは、単に美しいだけでなく、聴き手の心臓を揺さぶるほどのドキリとするような深い音を奏で、陶酔的な愛の中に漂う死の香りを見事に表現していた。
この作品では、トランペットをはじめとして、全編金管楽器が大活躍するが、重要なところで大きな事故が起こってしまったとはいえ、藝大フィルハーモニーの演奏者は大健闘していたと思う。
これだけの高水準の演奏能力をそなえているのであれば(また、これほどまでに素晴らしい演奏会場をもっているのだから)、もっともっと社会に存在感を示してもいいのではないだろうか……。

ところで、これは演奏との優劣とは全く関係が無いのだが、この作曲家の交響曲の中では、この作品は最もまとまりが欠けている作品であることを思い知らされた。
初期の交響曲とくらべると非常に私小説的な性格が強いために、マーラーという個人の卑近ともいえる感情の大袈裟なドラマにつきあわされている感覚がつきまとうのと、その起伏があまりにも極端に躁鬱的なものであるために、陰影のようなものを全くあじあわせてくれない。
そこに嘘が無いために聴いていられるが、果たしてそれほど完成度の高い作品であるかどうかといえば、そうとはいえないのである。
また、第3楽章と第4楽章は特に冗長で、あきらかに必要な推敲を怠っているようにしか思えない(また、これらの楽章においては、音楽が非常に錯綜するために、しばしば、音楽の流れそのものが掴めなくなることがある)。

11月16日
東京交響楽団定期演奏会
サントリー・ホール
指揮:ジョナサン・ノット

今度こそはマーラーの交響曲第7番を好きになれるのでは……と期待したのだが、残念ながら、今回も全く心に訴えてこなかった。
確かに「興味深い」作品ではあるのだが、これほどまでに作品が冗長だと、途中までくると付き合いきれなくなり、退屈してしまった。
あえていえば絢爛豪華ではあるが、ひどくノッペリとした屏風や壁画を眺めさせられている感覚がつきまとう。
大編成のオーケストラが巨大な音響を奏でるが、それが真の意味の音楽に昇華されないままに終わってしまう。
数日の間にこの作曲家の交響曲を二回聴いたが、あらためて中期以降の作品に関しては相性の悪さを実感した。
マーラーの場合、青年期の憧れと夢を失いはじめると、途端に作品が中年期の凡庸な苦悩を大袈裟に吐露するだけのものに劣化するような気がしてならない。
また、悪いことに非常に高い「能力」があるために、あたかもそうした内容的な空疎性を覆い隠すかのように、作品は窮極的なところまで技巧を凝らして書き込まれ肥大化してしまう。
特に第7番の場合、あれほどまでに壮麗な音響が鳴り響いているのに、そこに心の内から真に迸りでるものが感受できないというのは、あまりにも皮相である。

逆に前半のベルクの「管弦楽のための3つの小品」は非常に興味深く聴けた。
決して好きな種類の音楽ではないが、少なくとも昨今の音響的な実験に傾斜した「現代音楽」とは異なり、内的な探求の痕跡が深く刻み付けられており、まるで謎をつきつけられているような感覚に襲われる。
休憩中に外に出て思わず夜空を見上げてしまった。

大評判のジョナサン・ノットは生ではじめて聴くが、確かに素晴らしい指揮者だと思う。
いわゆる天才性のようなものは感じないが、表現意欲が非常に高く、その熱意と情熱が奏者に確実に伝わっている。
先日、畏友が「指揮芸術とは本質的には手話のそれなのです」と述べていたが、ノットの指揮は正にそうで、あの一線をこえた気迫ある指揮振りは稀有なものだと思う(たとえば、コンクールで高く評価されてしまう仕事上手の優等生的な指揮者のそれとは全く異質のものである)。
東京交響楽団は金管セクションに少々弱さがあるが、総じて大健闘で、これからさらにアンサンブルの次元を上げていける「伸び代」を感じる。
心から応援したい団体のひとつである。

 

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