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雑感:5月2日〜5月15日

5月2日
10年振りくらいに「失敗作」として唾棄されている「Final Fantasy: The Spirits Within」を観直した。
https://imdb.com/title/tt0173840/
20年前にはじめて観たとき以来、自分の意見は一貫していて、これは大変な傑作だと信じている(同意してくれる人と会ったことはないが……)。
今回もあらためて感銘を受けたし、何よりもその芸術性と技術性に深く感動した。
そして、Elliot Goldenthalの音楽が失神するほどに素晴らしい。
巨大編成のLondon Symphony Orchestraと合唱団を起用して録音されたこの音楽は、映画音楽史に残る大交響詩といえると思う。
そのまま映像無しに演奏会で演奏しても絶対音楽として立派に通用するのではないかと思う。但し、編成が大きすぎて舞台に乗らないかもしれないが……)。

 

5月3日
imdb.com/title/tt0408306/
15年振りくらいに『ミュンヘン』(Munich)を観たのだが、この頃には既にスピルバーグが演出家として下り坂にあったことを実感させられると共に公開後の時間の経過の中で作品としても賞味期限を切らしていることを感じさせられた。
作品の最後、暗殺部隊のリーダーを演じた主人公が、指揮官に対して「そもそも自分達が殺害した人達がテロに関わっていたという証拠はあるのか?」と問う台詞があり、その中に作品の一抹の良心を感じとることができるが、全体としては、ハリウッドというプロパガンダ装置が生み出した自己正当化の一商品の域を出ないように思う。

 

5月10日
先日、紹介したSusanne Cook-GreuterとBeena Sharmaのオンライン講座に関する備忘録。
個人的に、ハッとさせられた言葉がある。
どれほど発達段階が高い人でも、ほとんどの場合にはコーチングのプロセス中では「Amber」(体制順応型段階・神話的合理性段階)の「積み残し」の課題や問題が浮上してくる。その領域の課題は繰り返し繰り返し再訪してとりくむ必要がある――という意のものだ。
特に今日の社会情勢を見渡すと、この言葉の云わんとするところは明らかだと思う。
人間は社会的存在であるために常に自らの生きる共同体に適応することに――排除されないことに――執着するよう宿命づけられている。
特にそこに立ちこめる「空気」を敏感に察知して、その「指示」に従順に従えることは自らの生命を守るための必須能力として意識するように訓えられている。
そして、これはまた本能的な反応ともいえるものである。
その呪縛から自由になるのは非常に難しく、たとえ高い認知能力をそなえていても、あるいは、難解な発達理論を勉強していても、殆どの場合、そんなものはあまり役に立たないものだ。
それほど根深いものなのである。
また、この領域の課題は、個人の内的な事情により求められるようになるだけでなく、それに関わる外部(例:他者)の状態が変わるために必要とされてくるものでもある。
たとえば、人格形成期にこの領域に大きな影響をあたえた人(例:親)の状態や状況が変われば、それが大なり小なりの影響をこちらにあたえることになり、そのことが結果としてこの領域の課題をあらためて浮き彫りにすることになるのである。
くわえて、この領域の課題は往々にして非常に根源的なものであるために、「コーチング」を通して探求するだけでは大きな限界が出てくる。
Shadow領域に通じた専門の心理師の支援が不可欠になる。
ある意味では、この領域は最も難易度の高い領域といえるのかもしれない。

もうひとつ、これは講義の後の対話の中でも触れられていたが、他者支援に於いて何よりも重視されるべきは、「段階を上げる」ことではなく、今いるところで統合度を上げることである――という指摘には留意する必要がある。
バランスを崩したり、深い病を抱えたりしたまま、高い段階の認知や思考の能力を獲得したとしても、それは良い結果をもたらすことはないし、また、むしろ危険なことであるとさえいえる。
むしろ、そうしたShadow領域の課題をはじめとする人格の統合に関する諸課題に対処を講じた上で「成長」や「発達」ということに意識を向ける方が賢明であるということだ。
また、今日、われわれは――どこの段階に重心を置いて生きているとしても――この社会に生きることを通して「フラットランド」(flatland)の病に罹患して生きている。
もちろん、それは無数にある病のひとつにすぎないが、そうしたことにしっかりと意識を向けることなしに「成長」や「発達」を急ぎすぎるのは危険であるということなのだ。

 

5月12日
https://www.penguinrandomhouse.com/books/27357/the-chomsky-reader-by-noam-chomsky/
大学院時代に読んだ書籍だが、冒頭に興味深いインタビューが掲載されている。
「一般の人々は政治以外の領域に関しては驚異的に高い知性を発揮する。例えば、プロ野球の試合に関する人々の分析を聞くと、その精緻な批判的洞察に感嘆させられる。しかし、事が政治となると、人々の思考の質は劇的に低下し、批判的な思考が殆どできなくなる。あたえられた情報や枠組を鵜呑みにしてしまうのだ。」
知性というのは常に限定的に用いられるものなので、特に驚くべきことでもないように思うかもしれないが、それにしても、現代に於いても、自己と自らの愛する人々の生命に直接に影響をあたえることになる最も重要な話題に関して、こうした思考停止が蔓延している現実についてわれわれは真剣に考える必要があると思う。
心理学には「影」(the Shadow)という概念があるが、これは正にそうした類の問題といえる。
有名なユング(Carl Gustav Jung)は著書の中で人類の生存の鍵を握るのは、人類が自らの「影」を意識化することができるかどうかだと訴えているが、今日の状況を眺めると、正にそうした警告が正鵠を射たものであることを実感する。
それについて考えず、語らないことが社会の「常識」と化しているのである。
個人的にとりわけ興味深いことは、そうした偉大な心理学者の理論を誰よりも勉強してきているはずの「心理学者」といわれる人達の大半が、正にこうした話題について積極的に語ろうとしないことだ。
人間の治癒や成長の問題についてあれほど誠実にとりくんでいるようにみえるのだが、社会の影を自らも体現してしまっている人があまりにも多いように思う。
これはある意味では心理学というものが思想としての本質を失い、技法と化していることの証左なのではないだろうか……。
20世紀に生きた心理学者は、多かれ少なかれ、20世紀の大量殺戮の現実を踏まえて、その理論や実践を深化させたが、そうした精神が心理学という領域から失われているのではないだろうか……。
あるいは、これはあくまでも仮説ではあるが、心理学という領域が「自己責任論」というイデオロギーに深く浸食されているのではないだろうか……
「個人の苦悩は個人の責任において生じたものであり、それは個人の責任において解決されるべきものである」(あるいは、そうした発想の枠内で扱えるものだけを対象として治療を行う)――というような態度が蔓延しているのではないだろうか……
もちろん、そこには限定的な真実はあるが、それはまた個人の苦悩が社会の文化や制度により生み出さているという現実をあまりにも軽視しているように思われるのである。
あるいは、そうした集合的なことについて思い悩んでも、意味が無いので、とりあえず個人としてできることに意識を集中させようという積極的な視野狭窄を無意識的に肯定しているのかもしれない。
そういえば、『論点思考』(内田 和成著)というコンサルタントにより書かれた有名なビジネス書があるが、その主張もこうしたものだった。
それは実務書としては真当な主張ではあるが、そうした発想が人間の治癒という本質的な問題に関わる心理学の領域を浸食してしまうのはマズイのではないかと思う。

 

5月14日
「この人の文章は読むに値する」と思うときに、そこで何を直感的に把握しているのかと言えば、それは、そこに書かれている文章の背景に著者の独自の価値観や世界観が存在していることなのである。
読者には、自己の価値観や世界観そのものを深化させたいという欲求があるので、そこに書かれている文章の「善し悪し」だけでなく、それを生み出している著者の中に継続的につきあい理解を深めていくに値する独自の価値観や世界観が存在しているのかどうかを判定しようとする意識が常に働いている。
たとえば芸術批評の世界では、このところ大多数の執筆者が情報の紹介者に成り果ててしまい、自己の価値観や世界観にもとづいて敢えて「独善的」な言葉を言おうとしなくなっている。
しかし、たくさんの情報に裏づけられた「客観的」な文章というのは、検索をすればすぐに見つけられるようなものであり、実質的には匿名の文章でしかない(例えば、商品の広告文のようなもので、それは執筆者の署名を必要としない)。
不思議なことに、執筆者が「高学歴」になればなるほど、その文章は匿名的なものになり、異論は唱えられにくくはなるが、存在価値は希薄なものになる。
優秀な人は、たくさん勉強をして豊富な情報を収集し、また、それを整理して紹介するところまではできるのだが、そのプロセスの中で自己の「声」を育てるということを忘れたり、あるいは、「声」そのものを捨てたりしているのではないか……

 

5月14日
このところ、しばしば勉強会に御招きいただくのだが、参加者の方にこんな質問をいただくことがある。
「インテグラル理論に関する理解を深めていくために、この後にはどのような書籍を読んだらいいでしょうか?」
もちろん、具体的な書籍をあれこれと挙げることもできるのだが、実際のところ、われわれが自身の理解を深めていくために心懸けるべきことは結構シンプルなことなのではないかと思うのだ。
即ち、優れた著者の作品に出逢い、それに感銘を受けたときには、その著者に影響をあたえている他の研究者や思想家の作品にダイレクトにアクセスするように心懸けること――ということだ。
ただこれだけを続けていくと、思想と思想、そして、理論と理論を繋ぎあわせることができるようになる。
ひとりひとりの研究者や思想家はひとつの「世界」(システム)を呈示しており、そこに深く身を投じてみると、そのシステムに呪縛されるからこそ視えてくるリアリティ(真実)があることを認識できる。
そういう深いつきあいを複数の研究者や思想家とするのである(もしかしたら、全集を買い込んで、それを読破するくらいの気迫があってもいいかもしれない――もちろん、最終的にその全てを読むことはできないにしても)。
そうしたことを継続していると、徐々に「世界」(システム)を関係づけたり、統合したりすることができるようになる。
いわゆる、成人発達理論が「グリーン」や「ティール」と呼んでいる「システム」的な思考ができるようになるのである。
また、個人的には、書籍というのは必ずしも読まれるためにあるのではなく、そこにひとつの思想的・理論的な体系(システム)が存在していることをわれわれに意識させるためのあるのだと思っている。
たとえ忙しすぎて――あるいは難解すぎて――読むことができなくても、そこに物理的に存在していることで、書籍は、そこにわれわれが勉強すべきひとつの領域が存在することを示しつづけてくれる。
そして、その領域の探求をはじめるためにわれわれの準備が整うのを待ちつづけてくれるのである。
その意味では、書籍というのは、ある種の「家具」のようなものとして位置づけられるべきものなのではないかと思うのだ。

 

5月15日
ルドルフ・シュタイナーの著書をパラパラと眺めているのだが、「畏敬」「畏怖」の念を涵養することが全ての基礎にあるという主張に強い共感を覚えた。
もう少し正確に言うと、そこで言われているのは、そうした感覚を覚えることができるように常に自己の精神を鍛錬しつづけること、また、そうした感覚を抱ける対象を探しつづけることの重要さだ。
従って、それは、全てを無批判に受容したり、称賛したりするということではない。
畏怖や畏敬の念を抱くに値するものを求めつづけるというのは、ある意味では、それに値しないものに関しては、そういうものとして判断をすることでもあるので、シュタイナーの言わんとしているのは実は非常に厳しいことなのだと思う。
ただ、個人的に思うのは、そういう態度を維持して生きるのは大変だろうということだ。
特に現代という時代は、人間の内に息づく畏敬や畏怖の感覚に訴えるものを生み出すことを積極的に拒否している時代である。
芸術の世界に於いても、作品や演奏は基本的に大衆的な判りやすさを意図して創出されている。
その条件が満たされなければ、それは「商品」として成立しないので、重宝されないのである(Flatland)。
また、今日に於いては、自然さえもが観光地として商品化されている。
感覚を研ぎ澄ますほどに真の感動と出逢うのは難しくなる。
シュタイナーは、こうした鍛錬が「超感覚的世界」を認識するための必須条件であると述べているわけだが、そういう意味では、現代に於いては、「霊性」(spirituality)を実践するとは、時代の本質そのものであるFlatlandに抗うという要素をどうしても内包せざるをえなくなるということだ。

 

5月15日
https://www.imdb.com/title/tt7286456/
しばらくまえに話題になっていたので、DVDで観てみたのだが、大きく期待を裏切られた。
「凡作」ではないが、作品が主演俳優の「怪演」に全面的に依存していて、他の要素が非常に脆弱なのである。
確かに、作品の背景世界として超格差に蝕まれ実質的に崩壊した社会が描かれ、そうした意味では、今日の社会情勢を生々しく反映した「野心作」であるようにはみえるのだが、その描写が総じて表層的で、結局のところ、作品がそうした社会をどのようにとらえているのかということに関する思想や視座が最後まで全く視えないままに終わってしまう。
また、そうした超格差社会の中で虐げられ、怒りを爆発させる大衆に対する共感も希薄で、結局のところ彼等を単なる暴徒として描くことしかしないので、そうした点でも不快である。
端的に言えば、「社会派」のフリをしているだけにしか思えないのである。
また、主人公の思考や行動は、思わせ振りに描写されるそうした作品世界とは本質的に乖離したものとして生まれているために、主人公の内面的な「旅」と背景世界の間に化学反応が生じない。
主人公がブルース・ウエインと異母兄弟である可能性を示唆するアイデアは面白いが、少なくとも本作の中ではそのアイデアは単に仄めかされるだけで、それ以上に深められることもない。

 

https://www.imdb.com/title/tt6146586/
こういう作品はあまりうるさいことを言わずに楽しむべきなのだろうが、それにしても少し粗雑に過ぎないか……。
完全なるファンタジー作品であるとしても、どこかに「リアリティ」を残しておかないと、バカらしくて観続けていられなくなってしまう。
それに敵役の日本語が判読不可能なのにも鼻白んでしまう。
今回の作品の主題は、「High Table」といわれる体制に反旗を翻す決意をするまでの心の遍歴を描くことなのだと思うが、本来であれば、そこからが面白くなるところなので、そこに辿り着くまでに時間を無駄にしすぎているように思う。
矢継ぎ早にアクションが続きはするのだが、観ていると、総じて間延びしているように思われる理由はそのあたりにあるのではないか……