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雑感
「教える」という行為は本質的に身体的な行為である。たとえどれほど概念的・抽象的な話題について講義をしているときでも、生きた人間をまえにするとき、インストラクターはみずからの身体を活性化させて、教室そのものを自己の身体感覚の中に内包しなければならない。それができなくなるとき、そのインストラクターは寿命を終えたのである。

 

人間の身体というのは不思議なもので、肉体は非常に小さいものであるが、もうひとつ身体――いわゆるSubtle Bodyと形容されるもの――は、大きく拡張していく。たとえば、音楽の演奏家が、会場にいる聴衆の反応を半ば同時的に把握するとき、それは必ずしも視覚や聴覚をとおしてしているのではなく、そうしたもうひとつの身体の感覚器官をとおして「直観的」にしているのである。

 

何かを鋭敏に感得するためには、われわれは自己を充実させなければならない。自己の状態を活性化させ、感受性を鋭敏にするのである。いうまでもなく、そのためには、大きなエネルギーが必要となる。

 

「教える」という行為の本質にあるのは、こうした自己を充実させることである。そうした自己の活性化ができなくなるとき、そのひとは教師としての寿命を終えるのである。(1126日)

 

 

畏友に推薦された小杉 英了氏の『シュタイナー入門』(筑摩新書)を読了。優れた作品である。この著作を読んで、ルドルフ・シュタイナーという思想家の思想がようやく腑に落ちたような気がする。

 

著者の小杉氏は、シュタイナーの書籍の翻訳者として有名な高橋 巌氏の薫陶を受けたひとだということであるが、個人的には、高橋氏の文章よりも、芸術家としての沸き立つような躍動感がある小杉氏の文章により惹かれる。そして、何よりも小杉氏の文章には、職業作家にはない、偽らずに自己の真実を語ろうとする純粋なところがある。もちろん、そんな文章を書いていれば、必ず敵をつくることになるので、商業作家としては生活していけなくなるだろうが、そうした表現者の作品は信頼してもいいと思う。

 

いずれにしても、この作品には、日本で歪に神格化されているルドルフ・シュタイナーという思想家を支えた 時代と社会と民族にたいする責任意識と問題意識が実に的確に描かれていると思う。御薦めしたい。(1126日)

 

 

『シュタイナー入門』の執筆者である小杉 英了氏の文章にたいして、非常に好感をいだいた。あらためてそのことについて考えてみると、結局のところ、小杉氏の文章が著者の生き様を率直に表現するものであることが、その魅力につながっていることに気づく。

 

作品を読めば、著者が、基本的に机の上に座り思索をしながら生きているひとであるのか、あるいは、本質的にこの世界と全身で格闘しながら生きているひとであるのかということは、文章をとおして嗅ぎとれてしまうものである(そうした嗅覚は、誰もがそなえている)。そして、わたしには、著者が、文章家であるまえに、まずは生きているひとであることが重要なのである。著者の血潮を感じさせる文章が好きなのである。

 

小杉氏は舞踏家であるが、それだけでなく、本質的な意味で、この世界に真摯に対峙して、それと関わりながら生きているひとなのだろう。

 

世界には膨大な数の書籍が存在するが、そうした真摯さを感じさせる文章というのは、実は意外と少ない。多くの表現者の文章は、他者の気分を害することを危惧するあまりに、ひどく鈍くなる。そこでは、著者は自己の真実を語ることにたいして、どこかで怠惰になっているのである。たとえどれほど生真面目にまとめられたものであろうと、本質的なところで怠惰な文章はダメなのだ。

 

批評家の遠山 一行は、そうした真摯さを「志」と形容していたが、たしかにそれがない作品は退屈なものである。(1127日)

 

 

ルドルフ・シュタイナーというと、日本では教育や霊性の領域の巨人として認知されているが、いっぽうでは――たとえばCarl G. Jungがそうであったように――同時代の社会的・政治的な問題につよい関心をいだき、その問題意識を社会的・政治的な行為として実践したひとであった。小杉 英了氏の著作を読む限り、シュタイナーが時代の荒波と格闘しながら満身創痍で生きて死んでいったことが窺われる。

 

日本においては、しばしば、「霊性」(spirituality)というものがあまりにも矮小化されて、純粋に個人の内面を探求することとして理解される傾向にある。必然的に、こうした文脈においては、「自己を変革することが世界を変革することである」という言葉は、単にこうした自己閉塞的な内向化を正当化するための体の良い言い訳として利用されることになる。

 

しかし、霊性の本質とは、自己探求が自己閉塞化するのを回避して、同時代の社会的・経済系・政治的な状況を直視するWe領域とIts領域の視点の徹底的な鍛錬・活用につながるように、個人の意図を昇華するところにあるはずである。少なくとも、シュタイナーはそうした霊的な営みを実践した。そうであればこそ、その問題意識は、今日、無謬のものとして受容されている「民主主義制度」というものにも辛辣に向けられることになったのであろう。(1127日)

 

 

雑誌『Will』(8月号)に掲載された中西 輝政の「戦後最大の諜報案件 李春光」を非常に興味深く読んだ。

 

今、日本は、合衆国と中国という諜報の領域において最も熟達している――換言すれば、最も悪辣な――国の餌食とされているわけだが、この論文は「相互理解」や「日中友好」という大義のもとに、中国が仕掛けている大がかりな諜報活動に関して刺激的な分析を行っている。

 

日本では、「国際交流」ということばが安易にもて囃されているが、そうした大義を掲げて展開される諸活動が、日本の世論形成という中国の重要な諜報活動上の目的を達成するための絶好の機会となっているという問題意識があまりにも希薄である。その甘さはもはや絶望的なものといえるかもしれない。しかし、これほどまでに「きれいごと」に酔い痴れてしまう精神の脆弱性というのは、果たして何に起因しているのだろう?

 

ただし、いうまでもなく、中西氏は「親米保守」のイデオローグでもあるわけで、同様に悪質な諜報活動が合衆国の諜報機関により日本人にたいして仕掛けられていること関してはいっさい言及されない。(1129日)

 

 

「新潮45」(12月号)に掲載されている佐伯 啓思の論考――反・幸福論(24)「石原慎太郎」という政治現象――が非常に面白い。しばらくまえに、内田 樹の石原 慎太郎論を読んだが、それとくらべると、内容的にずっと的確なものだと思う。結局のところ、内田氏が、専門でもないのに、石原氏の浅薄な精神分析を試みるのにたいして、佐伯氏は、あくまでも専門の社会学・政治学の知見に立脚しながら、結果的に、内田氏が云わんとしたことをより的確に洞察しているのである。

 

第二次世界大戦後、日本の政治は、いわゆる進歩的な改革主義の先導のもと「改革」されてきたが、今日においては、それはいわゆる保守主義を標榜する政治家により先導されている。このように表面的には改革を主導するひとびとが標榜する思想の傾向は真逆に変化しているようにみえる。

 

しかし、佐伯氏によれば、そこに変化することなく息づいているものとして、「日本社会」にたいする「ルサンチマン」が存在するという。端的に言えば、それは、自身が日本という文化に真に受容されていないことにたいする怨念である。そうした情念は、当事者たちを「日本を改革しなければならない!!」――「日本を民主主義化しなければならない!!」、あるいは、「日本を真の日本らしくしなければならない!!」――という改革主義的な情念に絡めとることになる。

 

佐伯氏は、そうしたルサンチマンに根差した政治運動があまりにも容易に国内の政治を掌握してしまうことに警鐘を鳴らす。

 

いずれにしても、保守派を反動勢力として攻撃するのも、また、進歩派を反日勢力として攻撃するのも、本質的には、同質の情念にもとづいているということなのである。そうした情念にあまりにも呑み込まれやすいというのは、日本の深刻な問題である。(1129日)

 

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