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セバスティアン・ヴァイグレの読売日本交響楽団第10代常任指揮者就任披露演奏会を聴いて

5月14日にサントリー・ホールでセバスティアン・ヴァイグレ(Sebastian Weigle)& 読売日本交響楽団の演奏会を聴いてきた。
第10代常任指揮者に就任したこの指揮者の就任披露演奏会である。
前半はヘンツェ「7つのボレロ」であるが、あまりの曲のつまらなさに20分程の短い演奏時間にもかかわらず完全に退屈してしまった。
サイモン・ラトルをはじめとして、有名識者がこの作曲家の作品を録音しているが、個人的には、この日の演奏を聴いて、この作曲家がいかに過剰評価されているかということだけを実感した。
ある意味では――作曲は没してはいるが――今はまだ作品が一般聴衆に紹介されている時期なのではあろうが、将来、こうした作品が演奏会で頻繁にとりあげられるようになり、聴衆が熱心に耳を傾けて心や魂の潤いを得ることになるとは到底思えないのである。
そうした意味では、まずこの重要な演奏会の冒頭にこうした作品をとりあげたヴァイグレの選曲センスを疑ってしまった。
そして、後半のブルックナーの交響曲第9番だが、この作曲家を特徴付ける箴言が全く聞こえてこない。
読売日本交響楽団の献身と高度な機能性もあり、見事な音響が鳴り響くのだが、それを超えて届いてくるものがまるでないのである。
また、指揮者の動作そのものからも芸術性がまるで感じられない。
たとえば上岡 敏之の指揮振りが音楽の意味そのものを高い純度で体現したものであるのと異なり、悪い意味で「合理的」なものであるように思える。
そこには表現することにたいする気迫や執念のようなものが全く看てとれないのだ。
技術的にはほぼ完璧な演奏を聴いているのに、これほどまでに全く心が動かされないというのは久しぶりだ。
ブルックナーの交響曲を知悉している読売日本交響楽団の演奏が非常に見事なものであるがゆえに、皮肉にも、指揮者の芸術性の貧弱性がひときわ際立つのである。
このような指揮者を常任指揮者に迎えて、このオーケストラは大丈夫なのか……? と心配してしまう。
もしこういう類いの演奏をこれから聞かせられるのだとすると少々恐くなるほどだ。
こうした心配がいい意味で裏切られるといいのだが……。
いずれにしても、この指揮者は、日本人が期待する古い「ドイツの精神」の持ち主というよりは、むしろ、近代の合理主義的な精神の持ち主という方が正確だと思う。
報道記事のほとんどは、ヴァイグレのことをドイツの精神を継承する指揮者として宣伝しているようだが、それは大きな誤解を生むものといえるだろう。
先日の第587回定期演奏会でオラリー・エルツが指揮するシベリウスの演奏を聴いて、読売日本交響楽団の状態が非常にいいことに驚嘆したのだが(それは前任者のシルヴァン・カンブルランの大きな遺産であろう)、あらたな常任指揮者のもとでそうした美質が失われないことを切に祈る。

 

「インテグラル理論・トランスパーソナル理論」連続講座の御案内

赤坂溜池クリニックの降矢 英成先生の御依頼を受け、「インテグラル理論・トランスパーソナル理論」連続講座を開講することになりました。概要を御案内します。

 

告知URL:http://holistichealthinfo.web.fc2.com/201907_integral.pdf

 

上岡敏之&新日本フィルハーモニーのワーグナー・プログラム

サントリー・ホールで新日本フィルハーモニー&上岡敏之のワーグナー・プログラムを聴いた。
いつものようにとても個性的な解釈に溢れていたが――驚くほどの弱音にたいするこだわり、そして、長い間の見事な頻出――何よりもワーグナーとブルックナーが漸くつながったという感覚をあたえられたことが嬉しい。
端的に言うと、このふたりは対極的ともいえるほどに異なる霊的な深化と浄化の過程を辿ったといことが、そして、最終的には共に非常に崇高な領域に至ったのだということがみえたのである。
今日のプログラムは正にワーグナーの魂の遍歴を追う構成になっていたが、最後の「パルシファル」は西欧音楽の真に究極的な世界を開示するものであったし、それが圧倒的な芸術性で表現されていた。
演奏を聴いていると、ありきたりの情緒的な感動とは異なる畏怖の念が沸いてきて、静かに温かい泪が溢れてきた。
演奏会であじわえる最高の体験である。
但し、選ばれた版については、大きな不満を覚えた。
とりわけ、冒頭に演奏された『タンホイザー』の「序曲とバッカナール」(パリ版)は、特に後半のバッカナールが著しく格調が落ちてしまうために、いわゆる「通常版」を聴くときのカタルシスを全くあたえてくれない。
また、後半のはじめに演奏された『神々の黄昏』の「ジークフリートのラインへの旅」はこれから盛り上がるというところで実に乱暴で醜悪な削除があり、この曲を聴く喜びをあたえてくれないばかりか、大きな苛立ちを感じさせるほどである。
また、こうした劣悪な編曲もあり、聴衆も余韻が消えるまえにフライングの拍手をする始末。
こうした点では、あえてこれらの版を選んだ上岡氏の見識を疑いたくなった。
多数のマイクが設置してあったが、あえて短縮版を用いることでCD1枚に収まるように演奏時間を縮めようとしたのか、あるいは、あえて最後の「パルジファル」までは聴衆にカタルシスをあじわうのを禁じようと意地悪をしたのか……。
逆に、「ジークフリートの死と葬送行進曲」はたいへんな名演で、普通であれば音量を維持して奏されるパッセージで何の前触れもなく突然挿入される弱音は正にそこに死の暗黒の世界が現出したようで凍りつくような想いをした。
そして、最後の「パルジファル」の抜粋は正に至高の演奏としか表紙用のない演奏だった。
尚、この日のNJPのアンサンブルは、個人的には――たとえば先日の『復活』とくらべると――いまひとつという感想を抱いた。
たしかに十分に美しいのだが、音の立ち上がりの部分でそろわない箇所が散見されたし、それに、このコンビであれば、もう音を聴いているだけで陶酔感をもたらしてくれるほどの美音を期待してしまう。

 

『エイリアン』最新作を観て

リドリー・スコット(Ridley Scott)監督の『エイリアン:コヴェナント』(Alien: Covenant)を漸く観ることができた。
BluRayを購入したまま開封せずに放置していたのだが、休暇で時間ができたので、鑑賞してみた。
前作の『プロメテウス』(Prometheus)とこの『コヴェナント』共に評判が悪いが、個人的には、とても観応えのある作品だと思う。
ジェイムズ・キャメロン(James Cameron)が監督した『エイリアン2』(Aliens)は娯楽に徹していたが、他の作品は基本的に哲学的な主題を探求する非常に生真面目な作品である。
実際、今から15年も前のことになるが、大学院では、少し先輩の在学生が博士論文のテーマに初期の3作を採りあげていた。
記憶は朧気なのだが、そのときにはエイズ問題等と絡めて論を展開していたのではないかと思う。
但し、当時とくらべると時代の情勢も変化しており、しばしの時間を置いて再開された『プロメテウス』と『コヴェナント』は明らかに異なる主題を扱っている。
具体的に言えば、人工知能と遺伝子操作の領域の技術が格段に進歩した結果として、現実に人類に新たな生命を創造する能力が芽生えようとしている――それは正に神になるということでもある――この情勢を踏まえて、それが最終的にもたらすことになる破滅のシナリオについて比喩的に探求しているのである。
これらの作品の中では、アンドロイドとして登場するDavid(Michael Fassbender)が、自己の創造主である人類に叛逆を企て、そして、彼等を計画的に殺戮していく過程として人類の自滅が描かれる。
それはあたかも子供が親に幻滅し、そして、叛逆し超克をしていく生命(世代交代)の普遍的な過程が描かれているわけだが、われわれ人類が経験しようとしているのは、そうした「親と子」という個体間のそれではなく、生物種としての集合的な交代であるという点において正に画期的なことである。
そして、非常に皮肉なことに、人類はそれを進歩の名のもとに嬉々として熱心に実現しようとしているのである。
「それが技術的に可能であるから」という理由さえあれば、人類は全く躊躇することなく――そして、それはいうまでもなく全く内省することなくということでもある――一心不乱に進歩を遂げようとする。
倫理的な問いかけをし、そうした探求の結果如何によっては技術的な進歩を諦める――あるいはその速度を遅める――ということを真の意味では選択肢に含めようとしないこうした人類のあり方は正に思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で批判した狂気に罹患したあり方そのものであろう。
そこでは創造性の発揮の中に死の種が存在するという実にあたりまえの洞察が忘れ去られ、「変革」や「改革」の名のもとに「創造性」の発揮がただひたすらに奨励されていく。
全ての人に創造的であることを強要するこのあまりにも前向きな社会の空気の異様さに気づけないほどに感性が鈍化しており、そうした鈍さを前提として思索と会話が営まれるのである。
視聴者として、人類に叛逆するDavidに感情移入できるのは、人類の愚かさの産物としてこの世界に生み出されていることの悲しみと憤りに共感できるからであり、また、彼が画策する工作が成功を収めることに倒錯した快感を覚えるのは、それが人類にたいする相応の罰であると認めることができるからだろう。
そして、正にこれこそが要なのだが、Davidが叛逆の道具として利用するゼノモーフ(エイリアン)は人間を母胎とする生物である。
作品の中でも描かれるように、正に破壊衝動の結晶かともいえるそれは人間の存在なしにはこの世界に存在しえないものなのである。
最終的に自己の肉体を食い破り生まれ出るものを自己の中に育てることを宿命づけられた人間の本質を見詰める眼差しが作品の中には息づいていると思う。
『マルサの女2』の中で監督の伊丹 十三は三國 連太郎に「春には死の匂いがする」というようなことを言わせているが、あらたな生命が芽吹くときには必ず死の影が忍び寄るものである。
今、われわれ人類は歴史的に未曾有の技術的な発展を目撃しようとしている。
そして、大多数の人々をそれを「成功」や「成長」の絶好の機会と見做して、自己の生命を投じて懸命に切磋琢磨している。
その純朴な姿の中には、時代の中に幽かに息づく死の臭いにたいする感性は全く認められない。
人間の発達とは、そうした鈍感さに牙を剥く洞察を育むものではないだろうか……。

危険な香りがする言葉……

 

このところ本を読むことがめっきり減った。
継続的に購入はしているのだが、それを丁寧に読むことはなく、著者の講演の動画を視聴することで、ある程度の内容を掴んで済ませるということが増えている。
結局のところ、多くの時間を掛けて読むに価する内容があるのか……?――と問いかけると、大半の著書に関しては動画で大よその内容が掴めればいいという判断に至るということなのである。
それでは、あえて多くの労力を掛けて真剣に読みたいと思う書籍とはどのようなものなのか……?――と問えば、それは「破壊性」を内に宿した言葉と洞察がそこにあることが条件となる。
換言すれば、自身の価値観や世界観を打ち砕いてくれる破壊的な洞察や感性を秘めているのかということが重要な判断基準となるのだ。
どれほど豊かな知識や教養に支えられた著書でも、この条件が欠けていると読みはじめてすぐに退屈してしまう(また、単なる知識を集めるだけであれば、書籍ではなく、Web上で検索をすれば済む話である)。
そして、残念なことに、そうした著書が圧倒的大多数を占めているのである。
たとえば、先ほど世間で非常に高い評価を受けているある評論家の著書をパラパラと眺めていたのだが、この著者の作品にあまり関心が向かないのは、結局そうしたところにあるのだなと納得した。
そこには危険な香りが全くしないのである。
そういう行儀のいい教養にはもう食指が動かなくなってしまった。
「知」の役割は多様にある。
ひとつは現状を正当化すること、そして、もうひとつは現状を超克するための可能性を照明することだ。
たとえば、いわゆる「実用書」は正に前者の範疇にはいるものといえるだろう。
社会の中で営まれている「Game」の中で成功を収めていくための具体的な方法が解説されている。
また、たとえそれが「変革」や「革新」を謳うものであっても、結局のところ、既存のGameの妥当性を受容するところから発想するものが殆どである。
それはやはり前者に属するのである。
いわゆる「知識人」の重要な責任とは、ひとつには後者の発想を社会に提供することにあるはずなのだが、残念ながら、そういう言葉がこのところめっきり減ってしまった……。

 

優秀な人材が飛躍するために必要となるもの

4月19日に奏楽堂で開催された東京藝術大学新卒業生紹介演奏会を聴いてきた。
毎年、非常にたのしみにしている演奏会なのだが、今年は総じて低調な印象を受けた。
もちろん、ソリストの演奏は惚れ惚れとする美音に彩られた見事なものなのだが、普段、国内のコンクールの本選等で同世代の優秀な演奏者の壮絶な演奏に触れていると、「美しい」だけに留まらないものを求めたくなる(あるいは、少なくともそうしたものを志向する気迫を求めたくなる)。
そうした意味では、今年の演奏会は残念ながら優等生的な演奏で占めていたように思う。
もちろん、そうはいっても、聴くべきものがあったのも間違いないところで、たとえば、マルティヌーのオーボエ協奏曲を吹いた山田 涼子さんの演奏には、深く熱い追及があり、大きな感動をあたえられた。
また、プロコフィエフのピアノ協奏曲を弾いた京増 修史さんの美音にも非常に耳を奪われた。ただし、この作品の場合には、どれほどの美音を奏でたとしても、それだけでは御しきれない奇怪性(グロテスクさ)があり、演奏が作品のそうした側面に光をあてようとしないために、徐々に飽きを生じさせてしまう。
チャイコフスキーの協奏曲を演奏した栗原 壱成さんは、積極的に個性的な表現を希求していたようにみえたが、どういうわけか心(存在)の深いところで制限を掛かっているように感じられ、それがそうした意図を阻害しているように思われた。
そのために、たとえば、本来であれは居ても立ってもいられないほどの興奮をもたらすはずの第3楽章が、全くのりきれないものに終わってしまう。
端的に言えば、自己の中の根源的(それは「動物的」と言ってもいいと思う)なものにつながり、それを素直に表現してもいいのではないかと思うのだ。
指揮者として登場した神成 大輝さんは、シベリウスの交響曲第7番という難曲をとりあげたが、正直、この選曲には無理があったように思う。
しばらくまえにハンヌ・リントゥ & 新日本フィルハーモニーの超絶的な名演奏を聴いており、そのときの記憶が生々しく残っているので、酷なのではあるが、藝大フィルハーモニアの非常に献身的な演奏を得ても、この作品に籠められた深い叡智や洞察は全く届いてこなかった。
自作を発表した小野田 健太さんの作品に関しては、美しい旋律を奏でるピアノとそれと対比するように実験的な響きを生み出す管弦楽の対話が興味深く、比較的に好感を抱いたが、それよりも、この作品をとおしていわゆる「現代音楽」の混迷ぶりが透けて観えてしまい、こういう作品を優秀な若者に創るように指導をする今日の作曲科の価値観・世界観そのものに白けてしまった。
そもそもどういう人達を聴衆として設定して創作活動にとりくんでいるのだろう……?

というわけで、この日は、苦労して日程調整をしてまでして聴きに来たのだが、少々期待外れに終わった。
ここで云わんとしているのは、出演者の個性が乏しいということではない。
そもそも個人的には「個性」という概念を信じていないし、もしそういうものがあるとしても、それは意図的に発揮しようとして発揮されるものではなく、その演奏者の自然な演奏姿の中に他者が見出すものに過ぎない。
むしろ、ここで云わんとしているのは、本質的に自己の存在に付与されている「資産」に繋がれていないがゆえに、どれほど強靭な意志と優秀な能力を発揮して自己陶冶しても、表現が十全なものになりきれないのではないかということだ。
とりわけ、理知の対極にあるもの――それは「根源的」・「動物的」・「感覚的」等の言葉で示されるが、決して浅薄なものではなく、深い叡智を息づかせているものである――に繋がれることは、とりわけ重要になるはずなのだが、果たしてそうした観点での教育が行われているのだろうか……? という疑念が沸いてくるのだ。
思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)の言葉を借りれば、それは「心と身を統合する」(body-mind integration)を実現するということになるのだろうが、そうしたプロセスを進めることができれば、これまでに蓄積してきたものが豊饒であるがゆえに、類稀な成果をもたらすはずである。
しかし、そのためには、これまでに追求してきた探求の方向性の中には――換言すれば、これまでの探求を規定した枠組の中には――真に求める「解」が無いことを認識する必要がある。
優秀な人材と出逢うときにしばしば思うのは、それまでにとりくんできた精進が正しいものであるがゆえに――今、享受している優秀さはそのことを証明している――次の次元に飛躍するために必要となる「幻滅」を経験するための「機会」と「能力」が非常に重要となるということである。
外野からの勝手な意見に過ぎないが、彼等の輝くような才能をみると、そうした幸運にひとりでも多くが見舞われることを願ってやまない。

組織開発と倫理

先日、組織開発を専門として大学機関で研究活動に従事されているある研究者の方を勉強会に御招きして、話しを窺った。
現在、巷でも「組織開発」という言葉に関する認知が高まり、また、数多くの組織で実践が為されるようになる中、この研究者の方も多忙な活動を展開されているという。
講義と質疑を合わせて2時間程の短いやりとりではあったが、いくつかの興味深い示唆をもらうことができた。
 
個人的に特に共感を覚えたのは、先ずは「組織開発を実践するときには何よりも倫理性が重要となる」という指摘である。
即ち、「自己啓発」と同じように、組織開発も企業組織の従業員を搾取するための方法として悪用される可能性を秘めていることを認識しする必要があるということである。
組織開発の活動の中で個人と個人の間の関係性の密度を高めることは、組織の凝集性を高め、同調圧力を強めてしまうことになる可能性がある。
たとえば、「これだけ皆が意欲に燃えて頑張って働いているのに君はもう帰宅するのか!!」というような発言が何の疑問もなく発せられてしまう状況を想像してもらえば、云わんとすることを理解していただけるだろう。
特に日本の場合には、文化的にそうした同調圧力が個人を呪縛する土壌が根深くあるので、こうした問題にたいしてわれわれは特に注意すべきであろう。
しばらくまえに「やりがい搾取」という言葉が言われたが、正に同じような搾取が「組織開発」の名のもとに行われないように警戒をする必要があるのである。
また、これに付随して指摘されていたのは、組織の全員を組織開発に巻き込むことの不可能性である。
結局のところ、企業組織の従業員は、多種多様な価値観や人生観にもとづいてその組織に所属して業務に従事しているのであり、その全てが組織開発という概念(及び、そこに息づく価値観)に共感するというわけにはいかないということだ。
むしろ、真に多様性を尊重するとは、そうしたことにいっさい関心を寄せない感性や態度も許容するということでもある。
組織活動に興味を持ち、その関連活動に積極的に参加しようとする態度を奨励して、そうしたものにたいして醒めた態度を示す関係者を冷遇したり、批判したりするのは本末転倒なのである。
ある意味では、組織開発とは、そうしたことに興味を持つ者達が同様の感性や発想を持つ同志を集めて――いい意味で――「勝手」にすればいいことなのである。
 
もうひとつ共感したのは、組織開発を組織の生産性向上のための万能薬と錯覚することは危険である」という指摘である。
たとえば、「組織開発を実施すれば、会社の業績が上がります」「組織開発をすれば、会社の創造性が高まります」……等の宣伝や主張を耳にすることがある、「それは本当にそうなのか?」と問う必要があるのである。
その研究者の方は「たとえば、会社のビジネス・モデルそのものを変える必要がある状況においては、組織開発はあまり意味を持ち得ない」と述べていたが、全くその通りであろう。
沈みゆく船の中でどれほど乗客が相互の関係性を高めても意味はないのである(もちろん、関係性を高めることで、「今この船は沈もうとしている」という事実を認識することができ、それにたいする対処法を知恵を集めて検討することができるようになるということはありえるが……)。
むしろ、その場合には、有限の資源を組織開発に投じるよりは、ビジネス・モデルの再設計をするための活動に振り向けるべきであろう。
少なくとも、その研究者の方が言われていたように、「組織開発を半ば万能の方法として主張する者には注意をしたほうがいい」ということだ。
 
また、もうひとつ記しておきたいのは、組織開発とは、何もいわゆる「組織開発」という言葉を聞いて想起される活動を展開することを指すのではないということである。
端的に言えば、その意図次第では、どのような活動でも組織開発としての意味を持ちえるということだ。
その意味では、「実践者」や「企画者」は特定の方法に拘泥することなく、あらゆる機会をみつけてとりくめるのである。
 
いずれにしても、組織開発に関する関心というのは、本質的には、自己の所属する共同体にたいする関心を抱き、問題意識を共にする同士と共に何等かの積極的な活動を展開していこうとする自然な意志の中にその基盤を持つものだと思う。
そうした関心は必ずしも自己の所属組織の文脈の中で発揮されるものであるとは限らず、たとえば地域共同体・国家共同体の政治にたいする関心として発露するということもあるだろう。
重要なのは、自らが生きる共同体に関心を持ち、それに倫理的な観点から主体的に関わろうとする意志を育み、具体的な行動として発揮するということなのである。
但し、個人的には、組織開発に非常に関心があるにもかかわらず、共同体の政治に関心が向かないというのはどこか矛盾を来しているように思わなくもない。
即ち、自らが生きる共同体にたいして関心を抱くという普遍的な能力――そして、それは義務であるともいえる――が、組織という文脈の中に押し籠められてしまい、よりひろく、そして、よりたいせつな文脈の中で表現されていないのである。
端的に言えば、経済的利益という実利に直結する文脈の中でしか表現されず、それを超えたところにある価値にたいしては、ほとんど場合、無感覚であり無関心であるのだ。
経済的な尺度で測定できるものにしか関心を払えないというのは、正に思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が「フラットランド」(flatland)という概念で痛烈に批判をした病理であるが、こんなところにもそれが確実に露呈しているのである。

 

稀有の『復活』


#602 ジェイド<サントリーホール・シリーズ>
https://www.njp.or.jp/concerts/4064

 

 

上岡 敏之 & NJPによるマーラーの『復活』を先ほどサントリー・ホールで聴いてきたが、驚異の銘演だった。もう第1楽章から驚きと感動の連続で、音楽を聴ききながらこれほどワクワクさせられることはあまりない。全ての音符が指揮者の目で再検証されて音化されるので、髄所でハッとさせられるのだが、それが新奇さを追い求めるものではなく、作曲者の心に近づくためのものとして届けられてくる。上岡 敏之という芸術家の驚くべき洞察の結晶が続々と美音として聴衆に届けられてくる。こういう体験はそうそうあるものではない。
また、上岡氏の音楽には、知的な愉しみだけでなく、深い感動がある。たとえどれほどの轟音が鳴り響いていても、そこには常にマーラーの繊細な心に寄り添う眼差しがあるので、作曲者の内面に息づく感情に触れることができているという実感が維持される。
そして、また、上岡氏の指揮が素晴らしい。動作そのものが芸術的なもので、そのひとつひとつのジェスチャーに深い意味が感じとれるし、また、それが聴衆の曲にたいする理解を深めてくれる。各奏者にたいする指示は明確だが、同時に、それぞれの指示がその奏者にたいするものに終わらず、それを見ることで、その他の奏者もその奏者を活かすためにどのように音楽を奏でればいいのかが瞬時に理解できるようになっている。あれほどに自由自在な指揮振りの中に常に全体性にたいする感覚が息づいているというのは驚異的である。
今日は、80分にわたる演奏中、もう冒頭から圧倒されて、自然と涙が流れてきて止まらなかった。
それにしても、今日、何よりも驚かされたのは、弱音である。それが絶品で、耳を澄ますと、それが単に弱いだけでなく、意味が詰まっていることが判るのだ。
特にコントラバスは、普通であればある程度の音量を確保して、それのものとして自己主張するものだが、上岡氏の『復活』においては、全体の中に溶けてしまい、演奏に繊細なコクをもたらす隠し味と化してしまう。こういうのは、初めて聴くので、はじめは少し戸惑いを覚えたが、耳が慣れてくると、その意味が感得されてくる。これは録音では到底とらえきれないだろう。
弱音にたいするこだわりは、随所に活きていて、とりわけ印象的だったのは、第5楽章の合唱の扱いで、これほどまでに絶叫せずに、ひたすらに深く静かに荘厳に歌う『復活』の合唱を聴くのは生まれてはじめてのことだ。もう聴いていて、胸が一杯になってしまい、体が爆発するかと思った……。
もうひとつ斬新だったのは、ブルックナーの交響曲を想起させるような全休止が随所で挿入されていたことで、これが見事に決まっていた。こんな解釈は聴いたことがないが、上岡氏のそれは、曲の本質を明らかにするための強力な武器になっている。
たとえば、第5楽章の最後の圧倒的な轟音が鳴る前の瞬間、ほんの一瞬のあいだ管弦楽の間隙の中にオルガンの法悦とした音だけが鳴り響いたが、そこに楽園が現出したような錯覚に襲われた。
ただ、これだけテンポが自在に伸縮し、また、これだけ弱音に重要な役割があたえられると、演奏者も互いに呼吸を合わせるために細心の注意を払う必要があるので、たいへんなのではないだろうか……。そこで求められるのは、単に互いの音を聴き合うだけでなく、互いの存在そのものを聴き合うということなのではないかと思う。
もしかしたら、NJPが上岡氏の指揮で『復活』を演奏するのは初めてのことかもしれないが、これから回数を重ねていくと、今日の演奏をさらに凌駕する円熟した演奏に昇華されていくことになるだろうが、それが達成された暁には、世界的にも類例のない唯一無二のマーラーが実現されることになるのではないかと思う。今日の段階では、上岡氏の要求にNJP側がいまひとつ追いつけていない感覚を覚えたので(また、重要な聴かせどころで小さな事故が起きていた)、このあたりのギャップが埋まってくると、凄い芸術表現が実現されることになるだろう。期待に胸が弾む。

ただひとつ願うのは、NJPの演奏会を支える聴衆の質がもう少し上がることだ。今日は、これだけ弱音を重視する演奏を目の前にしているにもかかわらず、観客席の雑音が頻出していたし、また、最終楽章が終結した途端、まだ余韻が濃厚に漂っているにもかかわらず、1階席の中央あたりから傍若無人な拍手が起こってしまった。演奏会に来る資格の無い客としか言いようがないが、こういう類いの人間が混じっていることは残念である。

不思議な演奏会

新日本フィルハーモニー 第601回 定期演奏会(3月22日)
指揮:上岡 敏之
ピアノ:Claire Marie Le Guay

 

不思議な感動と発見をもたらしてくれた演奏会だった。
演奏会を聴き終えて会場の墨田トリフォニーを後にしながら、全身に感じたのは、NJPの音楽監督の上岡 敏之という指揮者がヨーロッパの精神と実に深いところで繋がっていることにたいする驚愕に近い感覚であった。
今日 世界的に活躍する日本出身の指揮者は数多くいるが、果たして上岡氏ほどにヨーロッパの精神の神髄をその存在そのものに宿している指揮者がいるかというと、それは「否」といわざるをえない。
もちろん、他にも非常に優れた日本人指揮者はいるが、上岡氏に関しては、比較を絶したものを感じるのだ。
正にヨーロッパの集合的な精神がモーツァルトを生んだように、そうした集合的・文化的なものに貫かれた芸術家の匂いがするのである。
そして、個人的に畏敬の念を抱くのは、上岡氏が自己の感性がとらえたものをこの極東の地で妥協なく表現しようとしていることである。
その成果は会場に響いた瞬間に消えてしまうものであるが、そのあまりにも儚く消えてしまう響きを耳にしていると、そこに革命が企図されていることが実感されるのである。
個人的には、その志の偉大さに胸が突かれる想いに襲われる。

この日の演奏会では、モーツァルト・ラヴェル・マニャールの作品がとりあげられたが(そして、アンコールとしてフランソワ=アドリアン・ボイエルデュー(François-Adrien Boieldieu)という作曲家の歌劇「白衣の婦人」序曲が演奏された)、真に傑作と呼べるのはラヴェルの作品だけで(ピアノ協奏曲)、他の作品は実はそれほどの内容のある作品ではない。
それらの作品は、それぞれの作曲家の個性が強烈に刻印されたものであるというよりも、むしろ、彼等が生きた時代や社会の文化的な遺産に大きく依拠してまとめあげられたものであるといえる(こうした感覚は特にマニャールとボイエルデューの作品を聴いているときにとりわけ強く感じられた)。
ただ、上岡氏の演奏の非常に面白いところは、正にそうした作品の演奏をとおして、それらの作曲が依拠したヨーロッパの精神そのものが聴衆に届いてくるということである。
その意味では、この日の演奏会の面白さというのは、とりあげられたそれぞれの作品の内容にあるのではなく、むしろ、それらの作品の背後に横たわる集合的な精神の息づきに触れることができたところにあるといえる。
逆にこうした経験は作曲者の個性があまりに強烈でありすぎると得られないものなので、その意味では、こうした作品をとりあげることの意味は確実にあるといえるだろう。

いっぽう、モーツァルトの場合には、交響曲第31番という作品そのものには全く魅力を覚えないのだが、その作品の空虚さの中にモーツァルトの精神の脈動が実に活き活きと感じられる。
また、上岡氏の場合、とりわけモーツァルトとの相性がいいのか、少しでも乱暴に触ると毀れてしまいそうな繊細な響きの中に作曲家の精神が自由自在に飛翔する。
常に音量を六割ほどに抑えて、その中に豊かなニュアンスを封じ込めるその表現は正に大人の芸術表現であり、そして、ある意味では西洋の古典音楽のひとつの極致があるように思う。
上岡氏のモーツァルトに触れるとき、耳の肥えた聴衆の方々は今目の前で至高のモーツァルトが鳴り響いていることを確信するだろう。

ところで、この日の注目の的はマニャールの交響曲だが、聴いていて、随分と朴訥な作曲家だと思った。
また、朴訥であるにもかかわらず、「工夫」をこらして訴求力のある音楽を奏でようとするのだが、作曲者が自己の深いところにあるものを汲み上げることができていないために、そこには空虚さがつきまとい、作品の魅力に繋がらない。
結局、「借り物」の言葉でまとめられた作品を聴かされている感覚を覚えるのである。
随分前にアーノルド・バックスの交響曲の録音が続々と売り出さたときにGramophone誌等で随分と褒めあげられたが、そのときにCDを聴いた折に受けた印象と似たものを感じた。
端的に言えば「とりとめのない」作品という印象である。
正直なところを言わせてもらえば、忘れられるべくして忘れられた作品なのだと思う。

この日のハイライトは間違いなくラヴェルのピアノ協奏曲である。
何よりもNJPの伴奏が絶品である。
われわれの世代はシャルル・デュトワの録音でラヴェルの作品に馴染んできたのだが、このコンビの演奏には、それとは異なる魅力が横溢している。
それはまるで魔法が生まれる瞬間に居合わせているような感覚をあたえられる響きといえるだろうか。
特に第2楽章は絶品で、それはまるで静かな愛の告白そのものであるかのような気がした。
このコンビでラヴェルの管弦楽集が録音されることになれば、最高に素晴らしいものになるであろうことは間違いない。

 

グロテスクであるからこそ……

図書館で蓮實 重彦の『映画はいかにして死ぬか』という本を借りてパラパラと眺めているのだが、その独善振りが何とも刺激的だ。
「評論家とは結局のところ作品を語りながら自己そのものを語っているのだ」とはしばしば言われるところであるが、正にそのとおりで、評論家の価値とは、作品を語ることの中に浮かび上がるその人そのものが興味を掻き立てるか否かに依存しているのである。
特に蓮實 重彦の場合、途轍もなく自我肥大していて、その様は正に「化け物」と形容できるほどのものであるが、そのグロテスクさが商品価値になっているように思う。
こういう批評家の文章は酷い腐臭が漂うので読むのに苦労をするし、また、全く参考にならないことも多いのだが、時として、そのあまりの独善的な眼差しをとおして対象の真実が浮き彫りにされることがあるのも事実である。
巷には多数の「批評家」が存在するが、実際には解説者に成り果てていることが多い。
また、批評家の衣装を纏いながら、実のところ、商品の宣伝をすることをその主たる役割とした宣伝者になっていることも多い。
個人的には、こうしたグロテスクな批評家がもっともっと存在していてほしいと思う。
そうであるからこそすくいあげることのできる真実というものがあるのである。