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発達の危険性に関する覚え書き

現在、インテグラル・コミュニティでは、ケン・ウィルバー(Ken Wilber・KW)に続く世代(40代)が台頭して目覚ましい活躍を展開している。
彼等に共通しているのは、KWのインテグラル理論を非常に深く理解していると同時にその課題や問題を批判的に指摘していることで、これまでにインテグラル・コミュニティの中で支持されてきた「常識」を根本的に覆す視点を非常に説得力あるかたちで呈示してくれている。
そうした研究者・実践者の代表格がSean HargensとZachary Steinである(彼等の著書や論文は膨大に存在するが、残念ながら日本語には翻訳されていない)。
今、日本では徐々にインテグラル理論にたいする注目が集まりつつあるが、注意をしないと、あきらかに誤りであることが判明していることがそのままに紹介されてしまうので、そのあたりに関しては、こうした新世代の指摘を勘案してKWの文章を読む必要があるだろう。
ともあれ、個人的にもこうした新世代の興味・関心の方向性を直接に確認したく、現在4箇月に及ぶSean Hargensの講座を受講しているところである。

そんな中で、先日、関係者と興味深い話題について意見交換をしたので、簡単にまとめておきたい(また、偶然にも、同じような話題について、先日、インテグラル理論に造詣が深い若い友人と話をした)。
その話題というのは、いわゆる「後慣習的」(post-conventional)といわれる視点や発想や話題に人々が興味や関心を向ける理由は何であるのか? というものである。
端的に言えば、同時代の常識の枠を外れた話題に興味を抱けるようになる条件とはどのようなものなのか? ということだ。

KWの発達理論の枠組では、Green以降の段階が後慣習的段階となるが、実際にそうした段階に関する論文を紐解いていくと、実際にはそれが独自の苦悩や困難をもたらすことが読み取れる。
一般向けに書かれた書籍では、「発達すると仕事における生産性が高まるのです」と能天気に紹介されていることもあり、誤解をあたえるのだが、実際には必ずしもそうではなく、ときには「生産性」の低下をもたらすこともある。
結局のところ、Green段階に至るときに人間が獲得するのは、その時代や社会に生まれ生きることをとおして、自身が不可避的に囚われることになる価値観や世界観(“pre-analytic vision”)を対象化して、それを批判的に検証したり、あるいは、それと格闘したりすることができるようになるということである。
そこには実利的な意味で得になることは何ひとつないのである。
また、KWは過去の著書の中で後慣習的段階に立脚して思考・行動することは大きな危険を冒すことであり、実際、歴史的にはそうした人物達は厳しく排斥されたり、抹殺されたりしてきたと述べている(ちなみに、他にもCarl JungやAbraham Maslowも「個性化」や「自己実現」が非常に危険なものであることに注意を喚起している)。
そうした状況は21世紀においても本質的に変わらない。
変わったことは、その「排斥」や「抹殺」の方法が多様化したことくらいであろう。
端的に言えば、後慣習的段階に向けた心理的な成長とは、「実利的な利益をもたらしてくれそうだから……」というような動機で起きるものではなく、ある意味では已むに已まれずに起きてしまうものなのである。
それは意図的に起こすものではなく、そうした意図とは関係なしに、大いなる意志の影響下で強制的に起きてしまうものとしてとらえられるべきなのだ。
実際、Maslowが“the Johnna Complex”という概念で説明しようとしたように、そうしたプロセスに巻き込まれた者は往々にしてそうした「召喚」に抗おうとするものである。
そして、そうした自己の意図を超えたものとの格闘をとおして、自己の人格的な成熟を遂げていくのである。
端的に言えば、そこにあるのは、自己の内に息づく高次の「声」との対話と格闘であり、そうしたプロセスを歩むことが利益をもたらしてくれるかどうかを問う損得勘定が入り込む余地は無いのである。
KWは後慣習的段階をVision Logic段階と形容するが、即ちそれは、そうした段階の思考や行動を規定するものが、時代や社会に流通する価値観や世界観ではなく、高次の自己との対話の中で「開示」される構想(vision)や霊感(inspiration)であることを示唆しているのである。

神秘思想家が言うように、結局のところ、人間は自動反応的な機械に過ぎない。
そして、いうまでもなく、現代社会において、そうした機械を誘導する最大の刺激は「金」(money)である。
それをあたえれば、機械は如何様にも操れるのである。
後習慣的な段階において発揮される高い内省能力は、そうした刺激に半ば自動反応する機械的な存在としての自己の在り様を自覚させる。
そして、そうした認識を得ると、骨の髄まで条件付けされてしまった自己の存在そのものを「解決されるべき問題」として再認識することができるようになるのである(実存主義心理学者のRollo Mayの著書の中で指摘されるように、この自己の存在そのものを解決されるべき問題としてとらえる視点こそ、Green〜Teal段階の意識の特徴といえる)。
そうした問題意識を起点として展開する探求の過程において、それはいかなる利益をもたらすのか? という問いは本質的な問題になりようがない(Mayが著書の中で読者に自著に実利的な価値を持つ回答を期待してはいけないと警告していたのは、こういうことである)。

正に、若い友人が言っていたように、後慣習的段階を志向する「理由」(incentive)は基本的にこの実利的世界には存在しない。
むしろ、正にその友人が指摘するように、現代社会において世俗的な成功を遂げようとするのであれば、同時代の中で信奉されている「物語」を寸分も疑うことなく、その物語の中で「成功」とされているものを目指して邁進できる精神――即ち、慣習的段階の精神――を強化することである。
その意味では、後慣習的段階の発想は、「危険」であるだけで、得になることは何もないのである。

しかし、常識的に考えてみればすぐに解ることだが、真の豊かさとは――また、真の正気(sanity)とは――生まれた社会や時代の中で信奉されている物語(価値観・世界観)に囚われない感性を涵養するところに確保されるものである。
そして、現在、生活のあらゆる要素が経済的な成功を収めるための要素として見做されてしまっているが、そうした同時代の狂気に違和感を覚え、それを批判できる大人が絶滅危惧種化していることは真に危険なことだといえる。
そうした意味では、インテグラル理論をはじめとして、いわゆるGreen〜Teal的な思想に関心が寄せられている背景には、そうした危険性に薄々と気づきはじめている人々がひろい範囲に存在しているということなのだろう。
但し、そうした領域の探求をはじめるときに留意すべきは、それが本質的に危険を内包したとりくみであるということである。
もちろん、そうした探求を真にはじめた者には、それを止めるという選択肢は実質的に残されていないわけで、彼等にできることは、そうした危険を考慮しながら、前に進みつづけることだけである。
ただ、彼等には、人間社会というものが、その構造上後慣習的段階に向けた発達を阻害せざるをえないことを理解することが求められる。
こうしたことについては、先述のMayだけでなく、古くからCarl JungやAbraham Maslowも指摘をしているところでもあるので、いわゆる「自己啓発系書」をとおして発達理論と出遭った方々は、そうした心理学者の著書を丹念に読み進めるといいだろう。

 

感想:新日本フィルハーモニー第609回定期演奏会@サントリー・ホール

第609回定期演奏会@サントリー・ホール

上岡 敏之&新日本フィルハーモニー


シューベルト:交響曲第4番
ブルックナー:交響曲第7番

 

https://www.njp.or.jp/concerts/8655

 

録音を含めて、これまでに聴いたブルックナーの交響曲第7番の演奏の中でも指折りの名演。
超越的なものとの邂逅と対話というこの作品の本質を完璧にとらえた演奏で、意識にとらえられたと思うと瞬時に彼方に消えていく恩寵を探し求めるたましいの彷徨が実に鮮烈に描かれていた。
また、これは上岡 敏之の演奏の大きな特徴であるが、その長大な演奏時間をとおして、音楽が一瞬も弛緩することない。
そこには、こうした深い内的な営みに息づく寂寥と共に胸の奥に幽かに灯る希望と確信が最美の音楽として交互に奏でられていく。
上岡の演奏には、常に瑞々しい祈りがあり、また、そこには聴衆の心を優しく暖めてくれる微笑みがある。
ときには天使が舞い降りて、会場全体が清澄な光に充たされて浄化されるような感覚にとらわれさえする。
こうした演奏は、たとえば晩年のギュンター・ヴァントの演奏がそうであったように、聴衆を宇宙の深淵と向き合わせるような厳しい気迫と叡智を宿した凄演とは異なるもので、そうした峻厳な精神の格闘を必要としない、真の意味で祝福された芸術家の演奏であるように思われる。
この日の演奏会では、第1楽章の冒頭から涙腺が弛んでしまいハンカチを忘れたことを後悔したが、気がつくと周囲からも啜り泣きが聞こえてくる。
上岡 敏之の音楽性とはそういう類のものである。

指揮者の超高難易度の要求に懸命に応えようとするNJPの献身にも心を揺さぶられた。
特に第1バイオリンの美しさは唖然とするほどで、大袈裟ではなく、聴いていて気絶しそうになるほどだった。
ホルンを中心として、この作品の音響構造の要となる金管群は少々苦戦を強いられていたようだが、そもそも指揮者の要求そのものが常識を超えたレベルの微細さと繊細さを求めるものであることを鑑みれば、十分に健闘していたと思う。
端的に言えば、演奏芸術の極北を志向する上岡の解釈は、たとえばベルリン・フィルハーモニーのような世界最高峰の技術集団がなければ完璧に音化することは不可能なものであり、そうした意味では、この日のNJPの演奏に散見された些細な事故をあげつらうことに意味はないだろう。
こうした演奏に触れると、あらためて上岡 敏之の芸術性が真に世界的にも類い稀なものであることを痛感する。
真の意味で個性的であり、唯一無二のものだと思う。

個々の楽章について感想を書きはじめると際限がなくなるし、また、この日の演奏には、具体的な箇所について云々することを無意味に感じさせるものだった。
前日に同じ会場で大野 和士&東京都交響楽団のブルックナーの交響曲を聴いたが、それとくらべると、完全に別次元の演奏で、技術的な優位性を誇る都響を駆使して大音響で奏でられた大野の解釈が足下にも及ばないものだった。
結局のところ、これは大野 和士という指揮者がブルックナーの本質をとらえそこねているということなのだろう。
但し、今後、大野が勉強を重ねれば上岡 敏之の水準に到達するかといえばそうではなく、上岡にはそうした比較を絶した突然変異的なものが紛れもなく息づいているように思うのである。

尚、確か日曜日に横浜での公演があると思うので、今日会場に来れなかった方は是非とも足を運んでいただきたい。
一生の宝になると思う。

 

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

感想:大野 和士&東京都交響楽団 第885回定期演奏会@サントリーホール

 

https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3237&my=2019&mm=9

 

残念ながら、大野 和士はブルックナー指揮者としての資質を著しく欠いているように思う。
世界最高水準の技量を有する東京都交響楽団を豪然と鳴り響かせて見事な音響を構築をするのだが、その音に全く深みがなく、また、間の取り方があまりにも悪いために、常に器の小ささを感じさせてしまう。
そのテンポ設定はひどくセカセカとしたもので、その必然性を全く感じさせてくれない。
われわれがこの作曲者の交響曲に期待する造言が全く聞こえてこないのである。
少々スタイルは異なるが、あのカラヤンのブルックナーを思いだした。
周知のように、その演奏は正に絢爛豪華で陳腐なハリウッド映画の特殊効果を想起させるもので、正にブルックナーのパロディと形容できるものだった。
もちろん、当時のベルリン・フィルハーモニーと比べれば、今の都響には圧倒的に優れたしなやかさがあるので、あれほど暴力的には聞こえないが、それにしても大野の解釈はあまりにも外向的である。
都響の演奏者達はこのような指揮者の解釈にほんとうに共感して演奏しているのだろうか……?――と素朴な疑問を抱いてしまう。
先日、アラン・ギルバートの指揮で圧倒的なブルックナーの名演を聴いたばかりだが、同じ優秀なオーケストラでも、指揮者が変わるとこれほどまでの感動の質が落ちてしまうものなのである。
いずれにしても、大野 和士という指揮者は、その肉体的な年齢とは関係なく、いっさいの老いや衰えとは無縁の活力溢れる壮年期の精神を魅力とする芸術家だと思う。
そうした資質はーーその卓抜した指揮技術と相俟って――たとえば先日のラフマニノフの「交響的舞曲」のような作品では見事に発揮されるが、こうした作品を指揮するときにはその限界が露骨に露呈してしまう。
個人的にも非常に大きな期待を寄せている指揮者なのだが――この指揮者の演奏を聴きたくて、東京都交響楽団の定期会員になっている――こういう演奏を聴かされると、そんな気持ちが雲散霧消してしまいそうになる。

 

ある発達神学者との対話

先日、カート・フィッシャー(Kurt Fischer)の発達理論(dynamic skill theory)にもとづいて発達測定を提供しているLectica, Inc.の創設者シオ・ドウソン(Theo Dawson)博士と1時間程話しをすることができた。
Dynamic Skill Theoryに触れたのは10年程前のことであるが、修士・博士課程在学中はRobert KeganやSusanne Cook-Greuterの理論を中心に勉強していたこともあり、Dynamic Skill Theoryの革新性には深い感動を覚えたものである。
その後、仕事の関連でLectica, Incの提供する講座や測定を受けることができ、その中で多くの刺激や洞察をあたえてもらってきたのだが、実はface-to-faceでDawson博士と話しをするのは初めてのことである。
短い会話ではあったが、話題は多岐にわたり、今日の発達理論の研究をとりまく状況、発達理論を実務領域にどうように紹介・導入していくのか、また、発達理論を重要な要素として位置づけているインテグル・コミュニティの状況に関しても興味深い会話をすることができた。
個人的に特に新鮮だったのは、博士が発達という概念を非常に慎重に取り扱っていることである。
周知のように、『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の発刊後に刊行された「入門書」の中で(Ken Wilber)は発達理論を簡略化して紹介しはじめたが、その結果として、本来であれば慎重に扱われるべきこの理論が過剰なまでに短絡的に活用されるようになったのは紛れもない事実である。
また、それと並行して、これらの理論が実用書の中で紹介されるようになる中で――たとえば、Spiral Dynamicsの発想に象徴されるように――インテグラル・コミュニティの関係者の間では安易に人間を「色」で識別することが流行してしまい、発達を巡る対話の質が劇的に落ちてしまった。
特に心理学の基礎的な訓練を受けていない者にたいして、こうした概念が不用意に紹介されることで、発達理論が「暴力的」に用いられるようになったことは非常に深刻な問題である。
くわえて、人間の「発達段階」がその行動を観察すれば――あるいは、多肢選択式の質問票に回答することで――特定できるというような発想が幅を効かせ、そうした発想にもとづいた測定がひろく販売されるようになる中で「発達段階」というものがあたかもそうした「方法」をとおして把握できるものであるかのような誤解が蔓延してしまい、また、その結果として、理論そのものにたいする信頼が著しく貶められることになった。
Dawson博士の最大の問題意識はまずはこうした状況にたいするものであるといえる。
即ち、本来であれば非常に慎重にアプローチされるべきものが、測定としての条件を満たしていない方法が流通することにより、「発達」という言葉で意味されている「現象」にたいする理解そのものが歪められてしまったのである。

こうした状況が生み出した典型的な問題のひとつが、発達を遂げることで驚異的な人間になれるかのような幻想が流布しているということだろう。
あたらしい概念が流通するときにはしばしばあることだが、多数の人々が、このなにやらあたらしい概念が人間を救済してくれるという幻想をそこに投影してしまっているのである。
極端な場合には、こうした発想に囚われてしまうと、人間がこの世界の中で生身の存在として生活をしていかなければならないことを等閑にして、発達をするということがあたかも「神」のような存在になることであるかのような幻影の中に落ち込んでしまう。
Dawson博士とこうした会話をしながら思ったのは、結局のところ、われわれが目撃しているのは、トランスヒューマニズムに代表されるように、肉体と機械を融合することで人間の進化を実現しようとする外面的なアプローチを志向する者達と人間の心理的な深化を促進することで人間の進化を実現しようとする内面的なアプローチを志向する者達がいるに過ぎないということだ。
アングルは異なるが、その「進化」を遂げると、そこには楽園が生まれる――あるいは、急速に変化をする市場に適応し成功を収めつづけるためにはそうした進化をしていかなければならない――という物語に立脚して発想しているという点ではそれほど変わらないのである。
そこにあるのは、人間というものを資源としてとらえ、その存在に意図的に介入し操作をくわえることにより、その「性能」を高めることが「楽園」につながると信じて疑わない発想である。
また、そこには、そうした進化の過程に積極的に参加をする者達だけがこの世界の中で生きていく権利を得るのだという価値観が息づいている。
当然のことながら、そうした努力をしようとしない――あるいは、そうした努力をできない――者達は実質的に生きる権利を放棄していると見なされることになる(例えば、こうした文脈においては、心身の疾患により社会の中で「生産的」に活動ができない者は生きるに価しない者と見なされることになる)。
そこには、機能的な存在として生存環境に適応することを絶対的な価値として信奉する、インテグラル理論でいうところの、典型的な「フラットランド」の病状が顕在化しているのである(具体的には、右下象限の絶対化)。
もし真に意識の進化・深化というものがあるとすれば、そうした幻影を追いかけている同時代の人類の姿を客観視できるようになるということだと思うのだが、そういう視点は全く希薄である。
非常に皮肉なことに、インテグラル理論においては、正に人間の尊厳を尊重するための概念として位置づけられている「発達」が、実際には、それと真逆の方向で用いられているのである。
もちろん、この時代に生きている以上、われわれはこうしたフラットランドの桎梏を逃れることはできない。
そこで生きていくためには、フラットランドと折り合いをつけていくことを求められるのである。
但し、そこで問題となるのは、発達に関してある程度勉強を積んできた者達までもが、「発達をすれば仕事ができるようになるのです」等と不用意に発言してしまうことである。
実際には、それは必ずしも事実ではないし、また、過去の発達心理学者達が警鐘を鳴らしてきたように、発達をするということそのものが人間の精神に大きな負担を掛けることであるし、また、その結果として、たとえ「高度」な認知構造を獲得することができたとしても、それが同時代の社会的な文脈の中で成功をもたらすとは限らない。
発達は幸福を保証するものではないのである。

このように発達理論を巡る状況は正に憂慮すべきものだといえる。
Dawson博士は、こうした状況を鑑みて、関係者が留意すべきいくつかのポイントをあげていた。

ひとつは、こうした知識を紹介すべき対象層を的確に見極めることである。
非常にあたりまえのことのように思えるが、実は非常に重要な留意点である。
垂直的な発達を扱う発達理論は、心理的な防衛を惹起しやすく、いったんそうした防衛反応が起動してしまうと、それにつづく対話はどうあがいても不毛なものにならざるをえない。
真の目的が他者の成長を支援するということにあるのならば、垂直的な発達という概念を持ち出す必要はないのである。
必要とされるのは、むしろ、あいての中に成長欲求があるのかを確認することであり、また、もしそれが確認できたのであれば、その充足を支援することである(Lecica, Inc.のVCOLはその方法論である)。
いうまでもなく、人間とは、他者が恣意的に介入して成長・発達させるべき存在ではないのである(少し想像してみれば、全ての人間に成長や発達が強制される社会は異常な社会であることが判るだろう)。

 

第17回東京音楽コンクール本選を聴いて


8月22日
第17回東京音楽コンクール本選・木管部門を聴くことができた。
5人のコンテスタントが演奏したが、いずれも優秀で、あまり演奏会ではとりあげられない作品の魅力を見事に開示してくれた。
個人的に特に印象に残ったのは、亀居 優斗さんと八木 瑛子さんで、この二人は同列首位としていいと思った。
亀居さんは、舞台慣れしたベテランの存在感を発揮して、ウェーバーの哀愁を豊穣に表現した。
日本フィルハーモニーの伴奏も充実しており、これがコンクールであるということを完全に忘れて、純粋に作品の魅力を満喫することができた。
イベールのフルート協奏曲を演奏した八木さんは、常に情感のある美音で詩情溢れた演奏を展開した。
個人的にはあまり縁の無い作曲家の作品なのだが、彼女の演奏を聴いていて、まるでラヴェルの作品を想起させるほどに美しい音楽世界を堪能することができた。
この二人の演奏家に共通するのは、その演奏が常に心を感じさせることで、音楽を奏でるということの最も重要な要素を揺ぎなく理解していると思った。
たとえどれほど達者な演奏でも、これが欠けていると、聴衆に感動をもたらすことはできない。
もうひとり強い印象をあたえられたのが、清水 伶さんである。
機知に富んだ演奏を展開して非常に感心させられた。
また、舞台上の存在感も大きく、今後、音楽家として熟してくると、優れた演奏家に成長するのではないかと思う。
今日の演奏を聴く限り、舞台上の身振りが少々過剰に思えるのと、その攻撃的な演奏がまだ聴衆の心をじんわりと揺り動かすところに達していない印象をあたえられた。
その点では、先述の二人の演奏家に水をあけられていたように思う。
ただし、大きな潜在性を感じるので、これからもどんどん攻めていってほしいと思う。

 

8月24日
第17回東京音楽コンクール本選・ピアノ部門を聴いた。
開場時間に到着すると長蛇の列ができている。
こういうイベントに注目が集まるのは実に嬉しいことだ。
目の飛び出るような高い料金を払い外国の演奏家を聴きにいかなくても良質な音楽は身近にあるものなのである。
今日の演奏会の最大の貢献者は角田 鋼亮氏の指揮する東京フィルハーモニーの伴奏だと思う。
長丁場の演奏会だが、とても充実した響きで若いコンテスタントを支えていた。
特にラフマニノフとプロコフィエフでは、ピアノが休んでオーケストラだけが音楽を奏でている場面で音楽の美しさに浸らせてくれた。
ラフマニノフでは、薄明の中で悲しみに暮れる作曲者の心情をまるで葬送の音楽のように濃厚に音楽を奏でたし、また、プロコフィエフでは、鋼鉄の機会に浸食された世界の中で人間的な心を奪われた人々の存在を猛烈な迫力で描いていた。
ただし、ラヴェルのピアノ協奏曲だけは、作品そのものが
繊細な硝子細工のように書かれていることもあり、少々苦戦していたように思われた。
今日の演奏会で印象に残ったのは、ラフマニノフを弾いた伊舟城 歩生さんとプロコフィエフを弾いた秋山 紗穂さんだ。
伊舟城さんの演奏は、いい意味でとても日本人的な演奏で、大袈裟な身振りはしないが、常に心を籠めて丁寧に音楽を奏でる。
その音楽は常に等身大のもので、自己の内に真に感じているものに忠実で、恣意的な演奏効果を排しているように思えたそうした意味でとても好感を覚えたのだが、いっぽうそうしたスタンスで音楽を押し通そうとすると一本調子になってしまい、これだけの長い作品だと徐々に驚きを求めたくなる。
特に第3楽章は、もう少し「けれん」のようなものがあってもいいのではないかと思う。
換言すれば、もう少し自己の表現の限界に挑戦してもいいのではないかと思うのだ……。
いずれにしても、今後、年齢と経験を重ねると共に表現の幅がひろがると非常に優れたピアニストに成長されるのではないかと思う。
秋山さんは、あえてこの難曲をとりあげて、激しい意志と気迫をもって長大な作品を見事に弾き切ったことに驚嘆をさせられた。
個人的には、必ずしも共感を覚える作品ではないのだが、その音楽に耳を澄ましていると、プロコフィエフという作曲家が描いた、殺伐とした世界の中で喘ぐ人間の息づかいがこちらの心に届いてくる。
深い情緒に陶酔させてくれる音楽ではなく、こちらの知性に刺激して挑戦を挑んでくる作品であるが、
この機会にそうした作品を敢然と選び轟然とした響きで会場を満たしたその実力はたいしたものだと思う。
そうした意味でも、この日のベストは秋山さんだろう。
ラヴェルを弾いた大崎 由貴さんは、きっと深い思いいれのある作品を選んだのだろうが、どういうわけか最後までラヴェルの音楽を聴く愉しみを聴衆に伝えることができずに終わった。
また、シューマンを弾いた北村 明日人さんは、それなりに素晴らしい演奏を展開したが、こうした作品の場合、演奏に唯一無二の「香り」のようなものを求めたくなってしまう。
個人的にはこの作品にはルノワールの絵画に漂う香気のようなものを期待してしまうのだが、そうした要素があまり感じられないことに――贅沢な要求であることは自覚しているのだが――不満を覚えてしまった。

 

8月26日
第17回東京音楽コンクール本選・声楽部門。
他部門とくらべると、声楽部門の本選は文字通りガラ・コンサートのような雰囲気である。
また、とりあげられる作品も娯楽性の高いものであるために、コンテスタントにも、エンターテイナーとしての能力が強く求められる。
端的に言えば、「芸術家」として乙に澄まして技を披露すればいいのではなく、聴衆を娯しませることにエネルギーを投じなければいけないのである。
そうした意味では、今日の演奏会では、竹下 裕美さんと井出 壮志朗さんが突出していたと思う。
ただし、井出さんに関しては非常に高い表現力を有しているのだが、それを一貫してパワフルに表現してしまうので、陰影のようなものが欠落してしまう。
たとえば、そこに「弱さ」のようなものを垣間見せることができれば、全く印象が異なってくると思うのだが、そうした要素が無いのである。
あえていえば、全身を鍛え上げたボディ・ビルダーが舞台の上で裸になって「凄いだろう!!」とその筋骨隆々の全身を観客に見せつけているような印象をあたえられるのである。
そういう類の迫力を求める聴衆もいるのだろうが、個人的には興味を覚えない。
逆に竹下さんの歌唱は非常に芸術性に溢れたもので、表現の幅が著しくひろく、また、その舞台上の存在感は聴衆をたのしませることの重要性に通暁したベテランのそれを想起させた。
3曲目で少々集中力が途切れたように思われたが、今日の5人のコンテスタントの中では頭抜けていたと思う。
特にマスネとプッチーニではその美しさに思わず泪してしまった。
工藤 和真さんの歌唱も優れたものだったが、その達者ぶりに関心はするのだが、その歌の力がどこか舞台上に留まっていて、もっともっと聴衆に届いてきてほしいという感覚を拭うことができずに終わった。
伴奏をつとめた現田 茂夫氏率いる東京交響楽団の演奏も豪華で、何よりもコンテスタントを温かい表情で支えている団員の方々の表情を眺めているだけで、こちらまで嬉しくなる。

 

優れた次世代の台頭を実感する

このところ「ティール組織」(Re-Inventing Organizations)が注目を集めていることもあり、その関連で、そうした領域で活躍される方々と話しをさせていただくことが頻繁にあるのだが、いい意味で状況が変化していると思うのは、そうした方々の多くが、そうした話題の書籍を読むだけではなく、その情報源となっている比較的に専門的な分権にもアクセスされていることである。
また、実際に海外のトレイニング・イベント等にも参加して、関係する研究者や実践者と直接的に意見や情報を交換している。
これは実に素晴らしいことで、これまではみずからの責任でそうした行動を起こしている人達の人数が非常に限られていたことを考慮すると、こうした話題をとりまく関係者の質が確実に向上していることを実感する。
また、そうした方々と話をするとこちらとしても大きな刺激をもらえる。
10年前は想像もできなかったことである。

ところで、そうした方々にいくつかの共通した特徴があるように思う。
もちろん、サンプル数が非常に少ないので、必ずしも一般化はできないが、少なくても思索の糧(“food for thought”)にはなると思う。

ひとつはいわゆるメイン・ストリームの世界を十分に経験しており、また、その文脈で優秀な活躍をしている、あるいは、活躍していたということである。
換言すれば、たとえばそれがいかに歪な世界であるとしても、合理性段階の世界の中で実践者として鍛錬を積んできているということだ。
このことは、単に高度の思考ができるというだけでなく、自己の意志にもとづいて、あらたな知見を得るために必要な行動を自律的に起こすことができるということだ。
そのために、会話において、彼等は、こちらに情報や洞察を求めてくるのではなく、ある程度の勉強や調査や経験を積んだ上でその過程の中で芽生えた意見や疑問を呈示してくれるのである。

ふたつめは、メイン・ストリームの世界に片足を置いていながらも、同時にその枠内に収まらない探求や活動を既に展開しているということだ。
それにより、今日の社会の支配的な価値観・世界観の中で排除・抑圧されてしまう現実に触れることができているのである。
重要なことは、ここで「異なる現実に触れることができている」というときに意味しているのは、単にひとつの大きな物語の中に併存する複数の現実にアクセスできているということではなく、基本的に相容れないものとして存在して複数の現実に意識が開けているということである。
即ち、たとえば企業組織の能力開発の方法として採用されている越境学習に象徴されるように(例:大企業と中小企業のあいだの人材交流)、基本的に同じ文脈の中で立場を異にしている組織の間を行き来するというものではなく、深いところで質を異にする価値観や世界観の間を行き来することができているということである(あるいは、そうした越境の可能性に意識が開かれているということである)。

端的に言えば、これらの二つの条件は、強固な合理性段階(Orange)の基盤の上に相対主義段階(Green)の意識を芽生えさせはじめているという、現代社会においては稀有な意識のありかたを体現している人々の発想を示していると思う。

こうした人々と会話をするときには、先ずは互いの価値観や世界観を確かめ合うことに時間を用いることになる。
それぞれが「常識」として社会の中で共有されている価値観や世界観をどれくらい対象化して眺めることができているのか、そして、そうした精神的な距離感を糧にして、具体的にどのような行動や活動を展開しているのかということを確認するのである。
また、こうした会話においては、必然的にそうした同時代の支配的な価値観や世界観と阻害された感覚を得るに至ったプロセスについて共有をすることになるので、それぞれの人間としてのこれまでの歩みを知ることができ、実に興味深い時間となる。

そして、このように合理性段階(Orange)と相対主義段階(Green)の世界を真に経験していると人達に共通していることとして、もうひとつ特筆すべきことがある。
それは、高次の価値観・世界観として存在するものとして想定されている「統合的段階」(Teal)というものを現実的な感覚でひとつの「可能性」としてとらえることができているということである。
換言すれば、合理性段階(Orange)と相対主義段階(Green)の狭間において日々を生きることができていればこそ、流行の書籍の中で謳われているあたらしいパラダイムというものが、単なる個人の努力によりもたらされるものではなく、そのために必要とされる集合的な条件がそろうときに生起するかもしれない可能性に過ぎないことを認識しているのである。
況や、単に関連書の中で紹介されている事例の真似をすれば、それで高次の発達段階の意識や能力を獲得したことにはならないことを冷徹に認識している。
実際、システム思考(Early Systems Thinking〜Advanced Systems Thinking)の段階として説明されるGreen〜Tealにおいては、変化や変革というものを歴史的な文脈の中でとらえることができるようになるものである。
そうした感性を有する者にとり、高次の発達段階の典型的な行動として紹介されたものを純朴に実践すれば、それでパラダイム・シフトが実現されると発想することは単なる短絡的な発想でしかない。
少なくとも、そうした実践をすることで来るべき時代の中で勝利者として生き延びることができると発想することなどは、こうした段階論の最も稚拙な誤用として見做されることになる。
必然的に、こうした人々は、たとえそれがいかなる発達理論であれ、それがあくまでも将来的な可能性を示唆するものに過ぎないことを最低限の醒めをもってとらえることができている。

Harvard Graduate School of Educationで長年にわたり発達心理学者の教育領域への応用に関して調査・研究に携わったZachary Steinは、Blogの中で、「耐久性」(resiliency)をはじめとする人間の深層的な諸能力を測定・開発することに血眼になる今日の社会の在り方に警鐘を鳴らしている。
いうまでもなく、こうした状況は、そうした能力を開発しなければ生き延びていけないほどに社会が殺伐化していることを意味しているのだが、われわれは往々にしてそうした時代的・社会的な病理そのものには注意を払わずに、そこに少しでも効果的に適応して生き延びていくことばかりに興味・関心を向けてしまう。
端的に言えば、そうした時代的な状況そのものを深刻な病理として認識して、その治癒に関心を払えることが必要とされているのだと指摘しているのである。
個人的に全く同感で、今日の時代状況の中でGreen〜Teal段階の発想を実践するとは、結局のところ、こういう批判的な精神を発揮することであるはずだと思うのである。
そこには紛れもなく同時代を俯瞰してその構造を深く理解しようとするシステム思考の視点と感性が息づいている。
こうして考えると、現在ひろく注目を集めている「ティール組織」関連のムーヴメントは、こうした研究者の洞察に耳を傾けるべきなのだと思う。

「陰謀論」に関して

「陰謀」(conspiracy)という言葉の正確な定義は下記のようなものだという:

 

An agreement between two or more persons to engage jointly in an unlawful or criminal act
https://legal-dictionary.thefreedictionary.com/conspiracy

意訳:二人以上の人間が共同して違法・犯罪的な行為をしようと合意をすること

 

この定義にもとづけば、何等かの事件が発生したときに、複数の人間が事前に相談をして、それを実施したはずだと想定する者は誰もが陰謀論者となるということだ。
たとえば詐欺事件や銀行強盗事件が発生したときに、そこに複数の関係者が介在していて、それらの人間が合意のもとに共同してその犯罪行為を行ったはずだと想像をした時点でその人は陰謀論者となるのである。
いうまでもなく、警察等の公的機関の捜査員は、犯罪捜査を行うにあたり、多くの場合、陰謀が存在していた可能性を念頭に置いて捜査に従事することになる。
あきらかに単独者の犯罪行為である場合を除いて、複数の人間が介在していたのではないか……と想像をすることは実に自然なことであり、また、そうした可能性をあたまから排除して、全く操作をしないことは完全な怠慢とさえいえるだろう。
こうしたことを考えると、巷では「陰謀論者」という言葉が中傷的な意味合いで用いられているのは、言葉の正確な定義を蔑ろにした完全な誤用であるといえる。
結局のところ、これはあらゆる調査をするときにいえることだが、捜査をするときには、捜査員はなんらかの仮説を設定して、それにもとづいて――また、あらたな情報が得られる中でそれを適宜修正しながら――活動を進めていくことになる。
犯罪捜査に従事する人達にたいして、そうした仮説を設定するなというのは、科学者に仮説を設定するなと命じているようなもので、調査という行為そのものを不可能にしてしまう全く馬鹿げたことである。
しかし、非常に不思議なことに、今日、「陰謀」、及び、「陰謀論者」という言葉は――なんの躊躇もなく――中傷的な意味で用いられてしまっている。
そこには、基本的に人々が言葉の定義にたいして無関心であるということもあるのだろう。
しかし、そこには、また、別の重要な要因があるようにも思う。
即ち、そうした「誤用」が、往々にして、社会の中枢機関にある権力者達による共同謀議の可能性を探求しようとする人々――及び、そうした発想や論調――にたいする攻撃をするときに用いられることを踏まえると、そこにはそうした権力を象徴する存在にたいする根深い依存心があるように思えてならない。
端的に言えば、そうした権力者がそのようなことをするわけがない――あるいは、そのような可能性を想像することさえしたくない――という無防備な憧憬のようなものが存在しているように思えるのである。
もちろん、それは、正に心理学者のフロイトが指摘したように、絶対的存在にたいする畏怖の念のあらわれであり、また、そうした存在を前にしたときに意識される自身の圧倒的な矮小さと脆弱さ(powerlessness)にたいする防衛反応なのだろう。
現代社会がたとえどれほど純朴に民主主義を謳ってはいても、そこには厳然とした支配構造が存在しており、言及してはならない真実が存在していることを認識する大人の感覚が芽生えてくると、そうした防衛反応はいっそうの攻撃性を伴って表現されることになる。
「たとえそれが事実であるとしても、そのようなことには言及してはならないのだ……」という訳知り顔の主張が臆面もなく為されるのである。
「陰謀論」という言葉の誤用の問題が、単純に言葉の定義を明確化するだけでは解決できないのは、ひとつにはこのあたりの心理的な要因があるのだろう。
もちろん、それだけではなく、そうした「陰謀論」を主張する人々の中に精神的な障害を患い支離滅裂な妄想にもとづいたことを言うケースが散見されることも、こうした状況をいっそう複雑にしている(たとえば、自身の主張を論理的に説明することができないとか、あるいは、基本的な対話そのものができないとか、正にあたりまえのことができないケースがあるのである)。

ところで、今巷で「陰謀論」という言葉にたいする反応が敏感化している背景には、インターネットの登場という時代的な要因が存在している。
即ち、これまでの言論空間の中で排除されていた視点や発想がひろく流通するようになり、もはやその存在を社会が無視することができなくなったということである。
これまで、「保守 vs. 革新」等に代表される単純な枠組の中で言論活動が秩序的に展開されていた構造が崩れて、それらの文脈の中で排除されていた言説がインターネットを通して容易にアクセスできるようになる中で、過去に「事実」・「真実」として受容されていた言説――及び、その発信者達――が一気にその権威を失いはじめているのである。
インテグラル理論の枠組にもとづいて説明すれば、これは即ち社会の中で確立された構造を前提として、その中であてがわれた役割に忠実に準じて、それぞれの関係者が発言をするという、合理性段階の構造そのものがその正当性を急速に喪失しているということである。
こうした合理性段階の構造の中では、たとえば反体制的な立場で非常に批判的な発言をしているはずの関係者も、実はそうした構造そのものを批判することはあまりない。
また、あてがわれた役割上言及することが禁じられている話題にあえて言及するようなこともない。
そうした行動をすることが、同時代の言論空間において自身の居場所を無くしてしまうことになりかねないことを無意識の内に認識しているからである。
むしろ、彼等は自身の食い扶持を維持するために、そうした固定的な構造を根本的に動揺させかねない現実に関しては一致協力して言及しないようにしているようにさえ思える。
表面上たとえどれほど果敢な調査報道を展開しているように見える関係者でも、ある特定の領域には絶対に近づいてはならないという「認識」を共有して、見事に協調して口を噤んでいるという風に見受けられるのである。
むしろ、彼等の関心は、既存の構造を前提として、その中で育まれてきた消費者に向けて、その感性や欲求に合致した言説を商品として提供することに集中しているのである。
保守論壇は保守の消費者にたいして、また、革新論壇は革新の消費者にたいして、その価値観や世界観を追認する情報を的確に包装して届けることに腐心しているのである。

しかし、インターネットの登場は、こうした構造そのものを集合規模で「意識化」させてしまった。
人々は、これまで自身を啓蒙してくれるものとして信頼してきた社会の言論装置が実は膨大な事実や真実を排除するシステムとしても機能していたことに気づきはじめている。
それは人々を解放する装置ではなく、ある意味では、拘束する装置であることを認識しはじめているのである。
「事実」や「真実」といわれるものが本質的に構築されるものであるということを、そして、たとえそれがどれほど誠実な良心にもとづいて構築されたものであるとしても、社会全体を覆うタブーの感覚の前には無力であり、正にそれらの言説が善意にもとづいているがゆえに、それらのタブーを強固なものにしてしまっていることを薄々と認識しはじめているのである(高邁な精神に支えられたものとして人々に信奉される言説は、しばしば、無批判に受容されてしまうために、それが内包する「影」――例:特定の領域の事実や真実の排除や抑圧――も併せて受容されてしまうことになる)。
もちろん、こうした状況下では、あらたに市民権を得始めた言説を「フェイク・ニュース」(fake news)とラベリングして排除しようとする動きが生まれてくる。
しかし、そもそも「情報」というものが人間により創造されるものであることを人々は気づきはじめているし、また、そうした批判を展開している既存の言論装置の関係者そのものが実はこれまでにそうした虚偽の言説を振り撒いていたことが認識されているために、あまり説得力を持ち得ない(もしそれが説得力を持つ層が存在するとすれば、それは同時代の社会に適応をして、その構造の中で食い扶持を得る方途を確立した人々であるか、あるいは、先述の心理的な防衛反応を過剰に発動している人々であろう)。
「陰謀論」という言葉を駆使して、社会の“sensitive”な話題に関して大衆の思考が「危険」な方向に向かないように操作をしようという風潮も正に同じように既存の言論空間の構造を維持しようとする意図に支えられているように思える。
また、現在、一部のメディアで報じられているように、GoogleやYouTube上では、検索エンジンのアルゴリズムに修正をくわえることで、こうした危険な情報へのアクセスに歯止を掛ける施策が積極的に展開されているようである。
くわえて、いわゆる「ヘイト・スピーチ」を巡る社会的動向に象徴されるように、右・左を問わず、あらゆるところで言論活動の自主規制が強化されている。
既存の秩序が揺らぎ、その裂け目から流れ出した言論をいかに封じ込めるかということに社会の関心が過剰に向いているように思えるのである。
言論(批判的思考)には本質的に既存の秩序を動揺させる途轍もない破壊力が秘められているわけで、特定の人々の気持ちが傷付けられるからという理由でそうした自主規制が強引に推し進められれば、結局は、社会の変革力そのものを封殺することにしかならないだろう。

結局のところ、合理性段階の意識はペルソナに呪縛された意識である(合理性段階においては、ペルソナに排除・封殺された「影」を意識化して統合するためには、基本的に、診療心理士等の他者の支援が不可欠になる)。
また、今日のフラットランド(“flatland”)思想に支配された世界においては、合理性段階に重心を置く人々は、社会に適応して、そこで成功することを至上の関心事とするために、もし特定の思考や発想にアクセスすることが「社会的な信頼性」(credibility)を失わせるリスクを伴うことを認識した場合には、実利的な感性にもとづいて瞬時に思考停止するはずである。
それを検討することが実利的に意味を持つかどうかということだけが判断基準となるのである。

こうした状況を考慮すると、人類社会の言論空間が果たして合理性段階を超えたところに到達するのかという問いにたいしては、必ずしも確証は無いといえる。
「革新的」な言説は、そのためにあてがわれた箱の中で忠実に役割を果たしている範囲においては許容・奨励されるが、その法を踰えた途端に際物扱いされ「市民権」を剥奪されてしまう。
「革新的」な言説は正に既存の秩序の維持に貢献してこそ、許容されるのである。

“Post-Truth World”が到来したといわれてはいるが、実際には、人類社会の言論空間はいまだに合理性段階の枠組の中に基盤を置いており、そこに流通する物語に準じて社会の意思決定は為されている。

ある外務省幹部は言っていた。

 

「日本人の実質識字率は、5パーセントだから新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね」

 

これは、佐藤 優氏の『国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて』の中にあるくだりだが、情報の多様性が謳われている現代においても、こうした事情はそれほど変化していないのである。
インテグラル理論の枠組を引用すれば、現在、われわれは合理性段階(Orange)の呪縛を超克していくための機会を前にして、共調してその可能性に抗おうとしているのである。

「見る」ということについて

先日、シカゴに出張した折、業務の合間にArt Institute of Chicagoに出かけてきた。
Metraという二階建ての電車でUnion Stationまで行き、そこから10分程歩いたところにある大型美術館である。
日本には存在しない大規模の施設で、所蔵作品をじっくりと味わおうとすると、当然のことながら、1回の訪問では足りない。
時間が足りないだけでなく、集中力が続かないのである。
1日に吸収できる芸術作品の数には限りがあり、2時間程もすると、あきらかにこころが動かなくなることに気づく。
ただし、そうはいっても、その所蔵量に圧倒されるような美術館が国内に全く無いというのは何とも寂しいものだ(たとえば、先日、しばらくぶりに再開した東京都現代美術館に足を運んだのだが、展示作品のあまりの少なさにひどく落胆させられた)。

個人的には、今回、最も記憶に残ったのは印象派の所蔵作品の数々である。
優れた作品を眺めていると、そこには作者が経験したであろう風や熱が感じられる。
たとえば、真夏の中に描かれた作品の中には倦怠感や眩暈や疲労感が絵画の中に封じ込められている。
即ち、そのときの意識の状態が追体験できるのである。
そこにあるのは、対象物をいかに客観的に正確に描写するかということではなく、それを眺めている観察主体である自己そのものに意識を凝らし、その質感を作品の中に豊かに反映しようとする意図である。
視覚だけでなく、他の諸々の感覚器官をとおして人間は世界を経験をすることになる。
そして、それらの感覚が統合されて醸成される意識状態と不可分のものとして瞬間瞬間の経験が構成されることになる。
その意味では、「見る」という行為の中には常に他の感覚の存在が色濃く息づいているのである。
とりわけ、今回は触覚(肌感覚・体感覚)が視覚に及ぼす影響がいかに大きなものであるかということを痛感させられた。
真夏の海岸で岡の上から海を見渡しているとき、われわれの肌には海風があたり、また、強烈な陽の光のもと、われわれは微かな眩暈に襲われる。
そんな意識と身体の状態が作品を眺めているとありありと想像される。
「見る」という行為は常に生物的・心理的な存在をとおして行われるものであるということ――そのことをあらためて再認識させてくれた。

いっぽう、現代芸術(modern/contemporary art)に至ると、有名な作品が数多く展示されてはいるのだが、途端に展示作品の魅力が失せてしまい、完全に退屈させられてしまった。
帰国後に京都に出張した折に懇意にしている作曲家の知人と食事をしたときに、いわゆる「contemporary art」に関して議論をしたのだが、彼は興味深いことを語っていた。
「どれほど“難解”な語法を用いていたとしても、結局のところ、最も重要となるのは、その作品を創造したときに作家のこころが真に動いていたかどうかということなのです。」
確かにそのとおりだと思う。
そして、そうした評価基準に立脚すると、もしかしたら現代芸術は、全体的な傾向として、表現者が自己の意識そのものにたいする内省を極度に深めた結果、正に瞑想の実践者が経験するように、自己の内に生起する経験を十全に満喫することができない状態に陥っているのかもしれない……。
表現者が自己の「意識」や「認識」の仕組みそのものに着目して、それを徹底的に把握しようとすればするほど、そこに生まれる諸々の心の動きは対象化されてしまい、単なる現象としてしかとらえられなくなる。
彼等の関心は、むしろ、それらの現象を生起させている認識という「行為」のメカニズムを解明することに移行してしまうのである。
端的に言えば、芸術という枠組の中に留まりつつも、実質的には現象学的な探求をすることになってしまうのである。
もちろん、それは悪いことではない。
むしろ、絵画芸術の歴史的な進化の過程を表現者の内面そのものに焦点を移行させてきたプロセスとしてとらえるならば、それはむしろ当然のこととして理解することもできる。
しかし、それにしても……である。
このつまらなさは何なのだろう。
往々にして、作品に籠められている熱量があまりにも少なく、そのために作品としての存在感が決定的に希薄である。
また、多くの場合、そこにはとるにたらない作為性が表現されているだけで、「表現」の基礎にあるべき高度な技術性が欠如している。
確かに、あえて稚拙なものや醜悪なものを示すことで、芸術にたいする鑑賞者の期待や前提を揺さぶろうとするとする「表現」もありえるのだとは思うが、結局のところ、それは恐怖映画において突然暗闇から襲撃者が出てきてドキリとさせられるというような類のもので、瞬く間に飽きられてしまうものである。
正直なところ、そうした作品が真に芸術作品として成立しているようには思えないのである。

 

凄いブルックナーを聴いた

東京都交響楽団 第883回 定期演奏会Bシリーズ
日時:2019年7月25日(木)
場所:サントリーホール
指揮:アラン・ギルバート
曲目
モーツァルト:交響曲第38番 ニ長調 K.504 《プラハ》
ブルックナー:交響曲第4番 変ホ長調 WAB104 《ロマンティック》(ノヴァーク:1878/80年版)
https://www.tmso.or.jp/j/concert/detail/detail.php?id=3235

 

凄いブルックナーを聴いた。
昔のファンが過去の伝説的な演奏会のことを語ることがあるが、今日の演奏会は正にそういう域に達した演奏だったのではないだろうか……。
特に「哲学的」「宗教的」な演出を施しているわけではなく――むしろ、指揮者は音響の彫琢に意識を集中しているようにさえ思える――音楽そのものが瑞々しい恩寵を届けてくれる。
神聖な光を浴びて自然の中を逍遥しているような感覚に包まれると共にここぞというときに生み出される深い音響が畏怖と敬虔の念を心の中に生み出す。
交響曲第4番は5番以降の作品とくらべると内容的に少し落ちるといわれてきたが――また、個人的にもそのように思ってきたが――今日の演奏を聴いて、そうした考えをあらためさせられた。
第4楽章が突出して優れているのは周知のことだが、それに先行する諸楽章も実に奥深いものであることをはじめておしえられた気がする。
それにしても、東京都交響楽団の何という音楽性と献身性!!
あれほど巨大な音響を生み出しながら、一瞬も煩さを感じさせない。
常に響きが豊穣で、それに身を浸しているだけで、全身を喜びが駆け抜ける。
正に世界最高水準のアンサンブルだと思う。
作品の性格上、金管楽器群が壮麗な演奏を繰りひろげるのは当然のことだが、個人的には、それを下支えするあのティンパニの妙技に心底痺れた。
ブルックナーの交響曲には、それまでの音楽の流れを断つようにして、超越的なものが突然にその姿を立ちあらわす峻厳な瞬間があるが、ギルバートは、こうした瞬間の処理が絶妙である。
彼は、そうした立ち上がりを「点」として設定して、全演奏者に一気に渾身の音を出させるのではなく、それをある程度の長さの「間」としてとらえたうえで、そこを緻密に設計して、各楽器群が順番に音を出させているように思うのである。
そのためにオケが過剰に力むことなく余裕をもって音を生み出せるために全強奏の音響が豊穣なものとして聞こえてくるのだ。
また、音響的にも、そこには垂直に屹立する壁が瞬時に立ち上がるというよりも、ある程度の幅の裾野を持つ音響構造が立ち上がるのだ。
もうひとつ面白いと思ったのは、上記のような場面において音楽が垂直的な局面に雪崩れ込んだときに、そこに水平的なダイナミクスを巧みにいれこんでいることだ。
それは彼の指揮姿に明確に示されていて、「ここでそう振るのか!!」と驚かされることが何度もあった。
そうなると音楽のベクトルが縦の一方向に向かうだけでなく、そこに横のベクトルが加わり、厳しいストイシズムに溢れたものから恰幅のいいものになる。
また、こうした全方位的な音響構造の中にティンパニの渾身の強打が加わると音が実に豪華になる。
そして、それが少しも俗っぽくない。
ひと昔前であれば、このレベルのブルックナー演奏は世界的にも稀のものだったのだろうが、1990年代の「ブルックナー・ブーム」を経て、作品解釈をめぐる集合的な知識が劇的に高まり、こうした最高水準の演奏が成し遂げられるようになったことを痛感した。
それにしても、今日の聴衆が醸し出す雰囲気は素晴らしいものだった。
サントリー・ホールで開催される定期演奏会では、フライング・ブラボーにしばしば苛々させられることがあるので、内心ヒヤヒヤしながら音楽を聴くことが多いのだが、今日の聴衆の集中力は素晴らしく、こういう人達と一緒に音楽を聴けるのは大きな幸せである。
音楽の「うねり」と共に聴衆の心が逐一動くのが察知できるのだが、これは聴衆が音楽に真に耳を澄まして、それを心に素直に受け容れているからこそ生まれる現象である。
今日は、日本のオーケストラの実力の高さとそれを支える聴衆の良質さを思い知らされた。
日本の聴衆のブルックナーにたいする献身的な愛情と理解は真に世界に誇れるものだと思う。

ところで、今日、アラン・ギルバートの生演奏をはじめて聴いたのだが、得手不得手が非常にハッキリした人だと思った。
前半のモーツァルトの『プラハ』は全くの凡演で、ひたすら退屈してしまった。
著しくリズム感を欠いたもっさりとした音楽を聴いていると耐え難い倦怠感に襲われ、睡魔と闘うのに必死だった。
『プラハ』を聴いて退屈するとは!!
あまりの酷さに帰宅しようかと思ったほどなのだが、とりあえずインターコンチネンタルホテルのロビーを散歩して気持ちをとりなおして、再び客席に着いたという次第。
しかし、後半のブルックナーの凄いこと凄いこと!!
構成要素を多く内包した作品を料理するのを得意としている人なのだろう。
こうしたタイプの指揮者のブルックナーは、作品にあたらしい光をあたえてくれるはずである。

 

「発達は幸福を保証しない……」

インテグラル理論を紹介するときに、往々にして紹介者が忘れてしまうのが、“Atman Project”という概念である。
これはThe Atman Projectをはじめとする初期の著書の中でケン・ウィルバー(Ken Wilber)が膨大な頁数を割いて解説していた最も重要な概念のひとつで、インテグラル理論の立場から人間の発達について深く理解するうえで必須の洞察である。
同著の中ではウィルバーはアーネスト・ベッカー(Ernest Becker)のThe Denial of Death(『死の拒絶』)の主張を参考にしながら、人間の発達というものが本質的には「自我」「自己」という虚構を構築して、それを維持しようとするプロセスであることを指摘している(尚、仏教学者のデヴィッド・ロイ(David Loy)はベッカーの洞察を仏教の文脈の中で発展させた非常に優れた論考を多数発表しているが、それらの一部は邦訳・出版されているので、是非参照していただきたい)。
即ち、発達というものは、死を宿命づけられた存在である人間が、その現実から逃避するために、物理的・心理的・精神的な「支え」を次々とこしらえるプロセスそのものであることを指摘しているのである。
その意味では、発達とは死にたいする防衛機能を高めていくプロセスなのである。
そのために、人間は発達を成し遂げれば成し遂げるほどに自己の死にたいする恐怖を深めていき、その脅威が襲い掛かるのを少しでも先延ばしするために、高度の知性を駆使して、様々な創意工夫を試みる(創造性の源には常に死の恐怖が息づいているのである)。
換言すれば、人間は、発達をすればするほど、自己の意識が抑圧する実存的な現実(自己の存在が死を内包しているという現実)と闘い、それを克服しようとする倒錯した営為に自己を投じていくよう宿命づけられているのである。
インテグラル理論の本質的な問題意識とは、この倒錯の輪に囚われた人間を救済するための方法を呈示することである。

ウィルバーの発達に関する見解をまとめれば、以下のようになるだろう:

人間は自己の実存的な現実を拒絶して、自己のありのままから逃避するために発展してきた。
そこには常に嘘がある。
そして、そのことを糊塗するために無数の悪行を積み重ねているのが人間なのである。
その意味では、人間存在は嘘と悪を深く包含しているのである。
確かに「発達」は、人間の創造性を喚起することで人間の尊厳を高めることに寄与するが、同時に人間の「嘘」や「悪」を深め、その破壊性を高めることにもなる。
たとえば、今日、人類は石や棒で殺し合いをしている時代には想像もしなかった破壊性を得て、この惑星そのものを殺傷できる力を獲得している。
発達というものは必ずしも人間を幸福にするものではなく、ある意味では、人間の悪を増幅することで、生きることの苦悩を深めることになるのである。

国内・国外を問わず、現在のインテグラル理論にたいする興味・関心は、「発達をすれば、仕事ができるようになるはずだ……」「発達をすれば、人生がたのしくなるはずだ……」等の「夢」に支えられている側面があるように思う。
実際、一部の理論家や研究者も「端的に言えば、発達をすれば仕事ができるようになるのです」と主張する者がいるのも事実である。
しかし、それは、大きな誤解を生む危険な紹介の仕方といえるのではないだろうか(極言すれば、それはもう「詐欺」に近いのではないか……)。
もし発達を遂げることが真に意味を持ち得るとすれば、それは、そうした夢物語から目醒めるための内省力をもたらしてくれるような発達を実現することであろう。
ウィルバーはそうした内省ができるようになるのは、前期Vision Logic段階(Early Systems Thinking)(いわゆるGreen〜Tealといわれる段階である)であると説明しているが、いっぽう、ロバート・キーガン(Robert Kegan)は代表作In Over Our Headsの中でそうした段階に到達してしまうと、人々は往々にしてそれまでの環境の中に意味や居場所を見出すことができなくなり(例:企業組織)、しばしば、終わることのない研究休暇にはいることを余儀なくされると述べている。
こうした段階はいわゆる「後慣習的段階」(post-conventional stages)と形容され、それまでに外部の世界に放射されていた意識を自己の内面にひきもどし、みずからが死すべき存在であることを直視したうえで、あらためて意味を探求しはじめる段階といわれる。
死の瞬間にそれまでの人生をとおして構築・蓄積してきた達成が悉く失われてしまうのであれば、人生をとおして真にたいせつにすべきことは何なのか……?――といった問いが真に重要性を持つことになるのである。
そして、それは半ば不可避的に実存的な危機をもたらすことになるのである。
キーガンの同僚のSusanne Cook-Greuterはしばしば「発達をすることは幸福を保証するものではない」と述懐していたが、こうした「常識」が忘れ去られ空疎な夢物語が跋扈する状態がひろく蔓延するのは回避しなければならない。
それが夢物語に過ぎないことに人々は遅かれ早かれ気づくはずだからである。