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不思議な演奏会

新日本フィルハーモニー 第601回 定期演奏会(3月22日)
指揮:上岡 敏之
ピアノ:Claire Marie Le Guay

 

不思議な感動と発見をもたらしてくれた演奏会だった。
演奏会を聴き終えて会場の墨田トリフォニーを後にしながら、全身に感じたのは、NJPの音楽監督の上岡 敏之という指揮者がヨーロッパの精神と実に深いところで繋がっていることにたいする驚愕に近い感覚であった。
今日 世界的に活躍する日本出身の指揮者は数多くいるが、果たして上岡氏ほどにヨーロッパの精神の神髄をその存在そのものに宿している指揮者がいるかというと、それは「否」といわざるをえない。
もちろん、他にも非常に優れた日本人指揮者はいるが、上岡氏に関しては、比較を絶したものを感じるのだ。
正にヨーロッパの集合的な精神がモーツァルトを生んだように、そうした集合的・文化的なものに貫かれた芸術家の匂いがするのである。
そして、個人的に畏敬の念を抱くのは、上岡氏が自己の感性がとらえたものをこの極東の地で妥協なく表現しようとしていることである。
その成果は会場に響いた瞬間に消えてしまうものであるが、そのあまりにも儚く消えてしまう響きを耳にしていると、そこに革命が企図されていることが実感されるのである。
個人的には、その志の偉大さに胸が突かれる想いに襲われる。

この日の演奏会では、モーツァルト・ラヴェル・マニャールの作品がとりあげられたが(そして、アンコールとしてフランソワ=アドリアン・ボイエルデュー(François-Adrien Boieldieu)という作曲家の歌劇「白衣の婦人」序曲が演奏された)、真に傑作と呼べるのはラヴェルの作品だけで(ピアノ協奏曲)、他の作品は実はそれほどの内容のある作品ではない。
それらの作品は、それぞれの作曲家の個性が強烈に刻印されたものであるというよりも、むしろ、彼等が生きた時代や社会の文化的な遺産に大きく依拠してまとめあげられたものであるといえる(こうした感覚は特にマニャールとボイエルデューの作品を聴いているときにとりわけ強く感じられた)。
ただ、上岡氏の演奏の非常に面白いところは、正にそうした作品の演奏をとおして、それらの作曲が依拠したヨーロッパの精神そのものが聴衆に届いてくるということである。
その意味では、この日の演奏会の面白さというのは、とりあげられたそれぞれの作品の内容にあるのではなく、むしろ、それらの作品の背後に横たわる集合的な精神の息づきに触れることができたところにあるといえる。
逆にこうした経験は作曲者の個性があまりに強烈でありすぎると得られないものなので、その意味では、こうした作品をとりあげることの意味は確実にあるといえるだろう。

いっぽう、モーツァルトの場合には、交響曲第31番という作品そのものには全く魅力を覚えないのだが、その作品の空虚さの中にモーツァルトの精神の脈動が実に活き活きと感じられる。
また、上岡氏の場合、とりわけモーツァルトとの相性がいいのか、少しでも乱暴に触ると毀れてしまいそうな繊細な響きの中に作曲家の精神が自由自在に飛翔する。
常に音量を六割ほどに抑えて、その中に豊かなニュアンスを封じ込めるその表現は正に大人の芸術表現であり、そして、ある意味では西洋の古典音楽のひとつの極致があるように思う。
上岡氏のモーツァルトに触れるとき、耳の肥えた聴衆の方々は今目の前で至高のモーツァルトが鳴り響いていることを確信するだろう。

ところで、この日の注目の的はマニャールの交響曲だが、聴いていて、随分と朴訥な作曲家だと思った。
また、朴訥であるにもかかわらず、「工夫」をこらして訴求力のある音楽を奏でようとするのだが、作曲者が自己の深いところにあるものを汲み上げることができていないために、そこには空虚さがつきまとい、作品の魅力に繋がらない。
結局、「借り物」の言葉でまとめられた作品を聴かされている感覚を覚えるのである。
随分前にアーノルド・バックスの交響曲の録音が続々と売り出さたときにGramophone誌等で随分と褒めあげられたが、そのときにCDを聴いた折に受けた印象と似たものを感じた。
端的に言えば「とりとめのない」作品という印象である。
正直なところを言わせてもらえば、忘れられるべくして忘れられた作品なのだと思う。

この日のハイライトは間違いなくラヴェルのピアノ協奏曲である。
何よりもNJPの伴奏が絶品である。
われわれの世代はシャルル・デュトワの録音でラヴェルの作品に馴染んできたのだが、このコンビの演奏には、それとは異なる魅力が横溢している。
それはまるで魔法が生まれる瞬間に居合わせているような感覚をあたえられる響きといえるだろうか。
特に第2楽章は絶品で、それはまるで静かな愛の告白そのものであるかのような気がした。
このコンビでラヴェルの管弦楽集が録音されることになれば、最高に素晴らしいものになるであろうことは間違いない。

 

グロテスクであるからこそ……

図書館で蓮實 重彦の『映画はいかにして死ぬか』という本を借りてパラパラと眺めているのだが、その独善振りが何とも刺激的だ。
「評論家とは結局のところ作品を語りながら自己そのものを語っているのだ」とはしばしば言われるところであるが、正にそのとおりで、評論家の価値とは、作品を語ることの中に浮かび上がるその人そのものが興味を掻き立てるか否かに依存しているのである。
特に蓮實 重彦の場合、途轍もなく自我肥大していて、その様は正に「化け物」と形容できるほどのものであるが、そのグロテスクさが商品価値になっているように思う。
こういう批評家の文章は酷い腐臭が漂うので読むのに苦労をするし、また、全く参考にならないことも多いのだが、時として、そのあまりの独善的な眼差しをとおして対象の真実が浮き彫りにされることがあるのも事実である。
巷には多数の「批評家」が存在するが、実際には解説者に成り果てていることが多い。
また、批評家の衣装を纏いながら、実のところ、商品の宣伝をすることをその主たる役割とした宣伝者になっていることも多い。
個人的には、こうしたグロテスクな批評家がもっともっと存在していてほしいと思う。
そうであるからこそすくいあげることのできる真実というものがあるのである。

新日本フィルハーモニー:第600回定期演奏会@サントリー・ホール

 

新日本フィルハーモニーのオール・コープランド・プログラム@サントリー・ホール。
素晴らしい演奏会だった。
客の入りは50%程度だが、たぶんこれらの曲を聴きたくて来ているのだろう、演奏中の集中力も高く、演奏後には熱烈な拍手を送っていた。
斯く言う自分もそうで、今期の定期会員権を買おうかどうか逡巡したときに、このオール・コープランド・プログラムが含まれているのは大きな要素だった。
舞台近くで聴いたのだが、それにしても、凄い音量だ。
そして、それが少しも粗くならずに、常に気品を湛えているのは新日本フィルならではである。「市民のためのファンファーレ」(Fanfare for the Common Man)の冒頭の打楽器の一撃に目の覚めるような衝撃を受けたが、それに続く金管の合奏にも――確かに、所々に小さな綻びがあり、それが勿体無かったとはいえ――この作品に息づく純朴に高貴な精神を力靭く表現しており、素直に感動した。
このあとに演奏されたクラリネット協奏曲(Clarinet Concerto)も素敵な作品で、重松 希巳江氏のソロも絶品だった。
この作品は、コンクールの木管部門の本選では定番の作品で、これまでに何度も耳にしているが、流石にこの日の演奏は芸術表現としてそれらの演奏を完全に凌駕していた。
特に第1楽章は、あのモーツァルトの傑作を少し想起させるほどに美しい音楽で、聴きながら、何気ない日常の中にある静かな至福感に包まれる思いがする。
また、そこには、われわれが想起するところの「古き善きアメリカ」にある、あの豊かな自然を背景にして営まれる人々の暮らしが感得され、そして、そこに息づく長閑な幸福感が迫ってくる。
指揮のヒュー・ウルフは(Hugh Wolff)、日本では主にCDで知られているが、強い個性は感じさせないものの、少なくとも今日とりあげられた作品に関しては、十二分の仕事をしていたと思う。
それは、決して陰鬱に内向することのないコープランドの音楽の「楽天性」をありのままに聴き手に届けてくれるものだった。
たとえば、後半の交響曲第3番の中間楽章では、作曲家はときに深く内省をしようとするのだが、しばしばらくすると、それに耐えきれず、微笑を浮かべて踊りだしてしまう。
自分とは全く異質の感性ではあるが、その異質性が何とも面白く、また、ウルフの演出はそんな音楽の特性を、捻くれた聴衆にたいしても、不思議な説得力をもって届けてくれた。
オーケストラも徐々に調子を上げてきて、交響曲の終結部では巨大な音響を生み出し贅沢な耳の御馳走を提供してくれた。
先日のマルク・アルブレヒトの小粒なブルックナーを聴いたときには、あまりにも音量が小さいので愕然としたのだが――小型の家庭用機器程の音量も出ていないとさえ思われた――そのときの不満を一気に吹き飛ばしてくれた。

 

「希望的観測という害毒に抗うために……」

希望的観測という害毒に抗うために……
鈴木 規夫
Integral Japan代表

 

過去15年程のあいだ、ケン・ウィルバーの思想を紹介する傍ら、企業組織のリーダーを支援する仕事に携わっている。
その間、様々なプロフェッショナルと仕事をする機会に恵まれたが、この数年懇意にしているコンサルタントが、ある中堅リーダー向けのトレイニング・プログラムの中でこんな内容の講義をしてくれる。

“リーダーは、「常にいそがしく仕事をしていないと仕事をしていないと思われるのではないか?」と心配して、しばしば確かな計画無しに組織の資源を動かしてしまうことがありますが、それはときとして大きな失敗につながり、結果として、組織に悪影響をあたえることになります。たとえば、戦場では、まともな戦略なしに兵士を動かせば、彼等を死なせてしまうことになります。何の確証もなく、「とりあえず兵隊を投入してみよう」というような発想は許されないのです。しかし、企業組織では、人が死ぬことがないためか、こうした無計画の行動がしばしば行われてしまい、また、それにたいして厳しい批判がくわえられることもありません。”

端的に言えば、自身の着想したアイデア(企画・計画)が果たして真に期待する効果を生みだすのか? ということを厳密に検討するスキルを習得することがいかに重要であるのかを訴えているのである。
実際、今日の社会を見渡してみれば、こうした能力が集合規模で脆弱化していることは明らかで、たとえば政治の領域においては、耳触りのいい「標語」や「構想」や「大義」のもとに為政者により呈示される施策が悉く失敗に終わっていることに示されている。
また、一般大衆も、そうしたものが果たして真に価値や効果をもたらすのかということについて批判的に検討することができないまま、社会に醸成される雰囲気に流され、結果としてそれらを消極的に承認してしまっている。
そうした検討をするために必要とされるスキルを習得していないために、「空気」に呑み込まれているのである。
人々は、希望的観測を真実や事実として信じ込まされて、誘導されているのである。

しかし、真に批判能力を発揮することは必ずしも容易なことではない。
実際、企業組織の優秀なリーダーでさえ、自身がとりまとめた企画や計画が確実に価値や効果をもたらすものとなりえているのかということに確信を持てることは稀である。
ほとんどの場合には、自身の主張を裏付ける根拠が弱いことを認識しながら、地道に仮設の検証作業にとりくむことになるのである。
いうまでもなく、これは精神的に非常に辛いとりくみである。
しかし、また、こうした活動に長期間にわたりとりくんだリーダーだけが習得できる貴重な能力が存在するのも紛れもない事実である。
即ち、そこでは価値を創造するための型が習得されると共にそれがいかに難しいことであるかということにたいする認識に支えられた健全な懐疑心が涵養されるのである。

トランスパーソナル運動は、その発足当初より、「内面世界」と「外面世界」の探求の両方に関わることの重要性を訴えてきた。
しかし、後者に関しては、その洞察力に関しても変革力に関しても、真に社会的規模のインパクトを為し得ないままに今日に至っているように思う(たとえば、「インテグラル(統合的)であるとは政治的であること」と宣言して過去20年ほどにわたり活動を展開してきたケン・ウィルバーを中心とするインテグラル・コミュニティの関係者も、こと政治の領域に関しては、こちらが赤面するほどに無防備な言論を発信することに終始している)。
内面探求がそのための過酷な訓練を必要とするように、外面世界に効果的に働きかけることができるようになるためには、そのためのスキルの習得が必須となる。
思索者としてコスモスにたいする深い洞察を得ることができたとしても、目の前に存在する特定の社会を洞察し、そして、それに働きかけることができるためには、全く異なるスキルが必要となるのである(もちろん、前者の鍛錬をとおして獲得したスキルには、後者の実践的な領域に効果的に応用できるものも多数あるだろうが……)。
とりわけ、社会の中に価値を創造するためのスキルは、そうした内的探求をとおして獲得したものを世界と共有するためには、最も重要なスキルのひとつといえるだろう。
また、そうしたスキルを獲得することにより、巷に蔓延する麗しい言葉に飾り立てられた詐欺的な構想や政策や施策の嘘を見抜くことができるようにもなるだろう。
価値を創造するための企画を練ることがいかに精緻な思考を必要とするものであるかを経験的に認識していれば、自ずと希望的観測に着飾られただけのアイデアの虚偽性を看破することもできるようになるはずである。
希望的観測という害毒に隅々まで汚染された今日の空気の中で正気をとりもどすためには、空気に敢然と対峙できるだけの強靭な思考力が必要となる。
その意味では、今日において、「内面世界」と「外面世界」の両方に関わるというトランスパーソナルの原点に立ち戻り、霊的(spiritual)であるためには、思考力を鍛錬する姿勢を貫くことが必須の条件となるといえるのだろう。

 

至福と落胆

1月31日
東京佼成ウインド・オーケストラ@サントリー・ホール
「ジョン・ウィリアムズ」ウインドオーケストラコンサート
http://www.tkwo.jp/concert/others/JW-20190131.html

 

渡邊 一正指揮によるジョン・ウィリアムズ(JW)の有名作品を並べた演奏会である。
JWはわたしがオーケストラ音楽を熱心に聴きはじめるきっかけをあたえてくれた作曲家である。
今から30年数年前、TVで放映されていた『スター・ウォーズ』を観たときに劇中に流れている音楽を耳にして正に雷に打たれたような経験をして以来、新作が発表されるたびにLPやCDを買い求め夢中で聴いてきた。
このところ世界中のプロのオーケストラがJWの作品をとりあげた演奏会を企画しているが、こうして実際に脚を運ぶのは初めてのことである。
これまで何度も何度も聴いた作品ばかりであるが。それをあらためて生で聴くことができたことは至福の経験だった。
東京佼成ウインド・オーケストラ(TKWO)の演奏も第一級のもので、確かに弦楽セクションが無いことの不満を所々感じさせるとはいえ、そのあまりに光輝に溢れた大音量を全身に浴びることができたこと幸せは言葉にしがたい。
冒頭に演奏されたのは、1984年のロス・アンゼルス・オリンピックのために作曲されたFanfare and Themeであるが、これはオリンピックのために作曲された作品の中で最も魅力的な作品であろう。
指揮の渡邊氏のテンポ設定は、少し遅過ぎるのではないか……と思わせるほどにゆったりとしたものだ。
JWの作品なので一気呵成に音楽をドライヴしていくのだろうと想定していたのだが、渡邊氏は、あえて遅めのテンポを維持することで、演奏者が深い呼吸で音楽を奏でることを可能とすると共にセクションとセクションの間に程好い空間を作ることで、それぞれのセクションが輪郭感をもって客席に届くように意図していたように思う。
そのためにテンポの早さがもたらす興奮は減じることになるが、逆に作品に内在する格調の高さが際立つことになる。
また、高い合奏能力を持つTKWOの各セクションの技量が、団子状に混じ合うことなく、適度な独立性をもって聞こえてくる。
実際、TKWOの能力は相当のもので、常に輝かしい格調を保ちながらド迫力の壮麗な音響を生みだしていく。
流石に国内最高峰の団体といわれるだけのことはある。
今回、過去30年以上に及び熱心に聴きつづけてきたJWの作品を聴いて思うのは、ハリウッドの娯楽作品向けにこれだけの質の作品が書かれたことの奇跡である。
飽きるほどに聴き込んできた者にさえこれほどの感激をあたえるのだから、これらの作品がスタジオではじめて演奏されたときにその場に居合わせた関係者は途轍もない驚愕と感動に襲われたことだろう。
今日、若い世代の作曲家が映像音楽の世界で多数活躍しているがーーたとえ映像作品における音楽の役割そのものが変化しているとはいえーーこれだけの訴求力をもつ作品を創造している作曲家はひとりもいないと思う。
正に史上最高の映像音楽作曲である。
ただ、個人的には、この日とりあげられたE.T.のAdventures on Earthに顕著なように、作曲家により演奏会用に編曲されたものは、その大多数は原曲の魅力を著しく損なうものになっており、随分と苛立ちを覚えさせられるのも事実である(その意味では、たとえばAdventures on Earth は、JWがBoston Pops Orchestraで録音したものよりも、Erich KunzelがCincinnati Pops Orchestraを率いて録音したものの方が格段に優れている)。
この日の演奏会では、上記の作品にくわえて、JFKとJurassic Parkの抜粋が編曲の劣悪さに足をすくわれた。
これらの作品はオリジナル・スコアそのものが非常に良く書けているので、願わくはその版で聴いてみたいものだ……。

Hans Zimmerの登場以降、映像音楽の質そのものが大きく変容してしまった。
音楽はもはや生楽器で演奏されるものではなく、シンセサイザーを駆使してスタジオ内で合成される素材のひとつに貶められてしまった。
もちろん、そうしたプロセスをとおして作成された作品の中にも非常に優れたものは存在するが、こうして楽譜をありのままに舞台で演奏すれば、そのまま管弦楽作品として成立するということはありえない。
James Hornerが早逝してしまい、今後、JWの後継者として芸術性と大衆性の両方を兼ね備えた才能が輩出されるとは期待しにくい今日の状況を鑑みると、このようにプロのオーケストラがJW以外の映像音楽作曲家の個展を企画することは期待できないのではないだろうか……(もしかしたら、Jerry GoldsmithとJames Hornerの個展が企画される可能性はあるかもしれない)。
いっぽう、JWの作品は、今回の演奏会にとりあげられた有名曲だけでなく、むしろ、A.I.・Born on the Fourth of July・JFK・Seven Years in Tibet等の比較的に「地味」な作品――あるいは、有名作品でも、いわゆる「メイン・テーマ」ではなく、それ以外の曲――に光を当てた演奏会が企画されることになるのではないだろうかと思う。
あるいは、クラシックの演奏会の曲目のひとつとしてJWの作品が自然にとりあげられる日が来るのではないだろうか……。
この演奏会を聴いて、JWの映像音楽がそうした地位を確立しえるだけの質を有していることをあらためて実感した。

 

2月1日
新日本フィルハーモニー定期公演@墨田トリフォニー・ホール。
https://www.njp.or.jp/concerts/3915

 

マルク・アルブレヒト(Marc Albrecht)というオランダの指揮者を迎えてブルックナーの交響曲第5番が演奏された。
所々才能を垣間見せるとこもあるが、全くこの作品の深い叡知を感じさせてくれない「青い」ブルックナーという印象である。
また、あまりにも弱音を重視するために、これほどの銘演奏会場であっても、客席に音が生きて届いてこないために、聴衆にひどい苛立ちを覚えさせる。
同じ弱音でも、そこに内容が詰まっていれば、このようには聞こえてこないはずなのだが、アルブレヒトの場合にはそれが単に弱いだけで芯の無いものであるため、そこに意味が感じとれないのである。
くわえて、テンポ設定もイン・テンポを遵守しているようではあるが、それが単に間延びをもたらすだけのものと化してしまっているために随分と単調に聞こえる。
端的に言えば、非常に繊細な感性で彫琢されているが、結果として、それが軟弱さとして結果してしまい、音楽が半ば死んでしまったのである(昔、CDで聴いたクリストフ・フォン・ドホナーニの同曲の演奏を少し思い出した)。
名演奏で聴けば聴衆を興奮の坩堝に呑み込んでしまうあの第1楽章がこれほどまでに退屈に思えたのは初めてのことである。
いっぽう、第1楽章や第4楽章の冒頭の弦合奏に耳を傾けると、弱音志向であるがゆえに、仄かな幽玄さが漂うのも事実である。
また、全編を通じて、弦合奏の音が爽やかな光沢に包まれているかのような高貴な香りをもたらされていたが、このあたりはアルブレヒトの才能が発揮されていたところだと思う。
ただ、そうした魅力はあくまでも部分的なもので――また、作品の本質に直結しないところでのもので――全体の魅力不足を補うことはできない。
総じて、オーケストラは健闘していたが、どこかノリきれていない感覚がつきまとっていた。
ただし、今日の聴衆は立派で、演奏の終了後、余韻が完全に消えるまで静寂を保ち、また、演奏者に暖かい拍手を送っていた。
ただ、この少し冷めた拍手は、指揮者にたいするものではなく、あくまでもゲストにたいする礼節を弁えてプロとしての仕事を成し遂げたオーケストラにたいするものであったように思う。

日本でブルックナーを演奏するのは大変だと思う。
聴衆の耳が肥えているし、また、1990年代以降のブルックナー・ブームを単なる流行として消費するのでなく、そこで確実に鑑識眼を鍛えてきている。
多様なスタイルを受容する寛容性があるとはいえ、今日くらいの演奏だと、まず満足はしてくれないだろう。
実際、会場の雰囲気を眺めれば一目瞭然で、今日の聴衆がブルックナーを聴き込んでいることは明らかである。
終演後、礼儀正しい拍手を浴びながらも、その厳しい眼差しに晒されて、アルブレヒトが少々気圧されたような姿を見せていたように感じたのは私だけだろうか……

正直なところを言わせてもらえば、この程度の演奏を聴かされると、定期会員になり、苦労して日程を調整してワザワザ会場に脚を運ぶことの価値を疑ってしまう。
次世代の指揮者にチャンスをあたえたいという事務局の温情ゆえの企画だとしても、客演者が聴衆の期待に堪え得る水準に達していることを担保するのは、事務局の最低限の責任だと思う。
少なくとも、この指揮者にこのブルックナーの傑作を任せるのは無謀としか言いようがない。
聴衆にこのような感想を抱かせるのは、指揮者本人だけでなく、新日本フィルや音楽監督の上岡氏にとっても損だと思う。

いずれにしても、この大好きな作品を聴き通すのに難渋するとは予想していなかった。

 

ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮・新日本フィルハーモニー定期演奏会@サントリー・ホール

新日本フィルハーモニーの定期演奏会をサントリー・ホールで聴いてきた。
指揮はヤン・パスカル・トルトゥリエ(Yan Pascal Tortelier)。
Chandosに録音したCDで認識はしていたが、生で聴くのは初めてである。
曲目は、前半はショパンのピアノ協奏曲第2番、そして、後半はチャイコフスキーの交響曲第1番という実に地味なものである。
また、共に作曲者の初期の作品であるために、内容的にも随分と物足りないところがあるため、正直なところを言わせてもらえば、これを半日を割いて会場まで聴きに来るというのは、あまり気乗りのするものではない。
こうした事情を反映してか、客の入りは60%というところだろうか……。
実際、わたしも定期会員であるから来てはいるが、この曲目を見せられて、この演奏会単体に聴きに来ることはないだろう。
普段、あまり日の当たらない作品をとりあげるという姿勢はいいのだが、もうひと工夫あるといいのに……と思う。
たとえば、これに20世紀の作品を併せれば、演奏会としての印象も随分と変わってくるのではないだろうか。

ともあれ、まずあらためて新日本フィルの音の肌理の細かさに感動した。
また、客演演奏家の能力をひきだすオーケストラとしての能力が一級のものであることを確認した。
ベルリン・フィルハーモニー等のオーケストラは、客演する指揮者にたいして凄いプレッシャーを掛けて萎縮させてしまうこともしばしばあるそうだが、個人的には、オーケストラの能力のひとつには、指揮者であれ、独奏者であれ、客演演奏家を歓迎してその能力を最大限にひきだすことにあるのではないかという気がする。
結局のところ、演奏者の使命とは、その日の演奏会の聴衆に感動をあたえることであり、演奏者間の軋轢を見せつけることではないはずである(また、もしそれほど受け容れ難い演奏者であれば、そもそも招聘しなければいいのである)。
そうした意味では、そうした変なプライドに感染した団体とくらべて、新日本フィルは音楽家としての使命に忠実であるように思う。
定期演奏会で客演演奏家がなんとも嬉しそうに演奏している姿を目にすると、そのことを実感する。
個々のセクションも充実しており、ショパンの協奏曲の冒頭のニュアンスに溢れた弦合奏を聴くだけで、自然と涙が流れてきたし、また、後半の交響曲の終楽章において発揮された金管を中心にした高貴でありながら力強い合奏力には感銘を受けた。

ショパンのピアノ協奏曲は好んで聴く作品ではなく、また、それほど期待をしていなかったのだが、正直これほどの感動をあたえられるとは思わなかった。
今回、非常に強く印象づけられたのは、それがまるで葬送の音楽のように聴こえてくるということであった。
作品解説を読むと、この作品は作曲家がこれから世に出ていこうとしていた時期に書かれたものだということだが――少し穿った発想かもしれないが――結局のところ、それは、作曲者が自己の才能を受け留めて生きていこうとする決意の時期に書かれた作品ということができるのではないかと思う。
しかし、才能とは祝福であると共にその個人の終焉(demise)そのものに連なる宿命を宿してもいる。
才能はその人間の存在を呪縛し「自由」を奪う「呪い」ともいえる。
そして、それは個人の存在を最期の瞬間に向けて消耗(consume)していくことになるのである。
それを受容するときに人間は自己を鎖に繋ぐことになるのだと思う。
この作品の仄暗いロマンティシズムの中には幽かな死臭が漂うのを感じながら、こんなことを考えていた。
尚、ソリストとして登場したクシシュトフ・ヤブウォンスキ(Krzysztof Jablonski)の演奏も申し分のないものだった。
今日流行している粒のそろった清澄なショパンではなく、まさにこうした作品の本質に寄り添った誠実な演奏だと思った。

後半のチャイコフスキーの交響曲第1番は、作曲家20代半ばの作品であるが、「胡桃割人形」をはじめとする後年の作品を特徴づける色彩的なファンタジーに溢れた佳作である。
ただし、全体としては訴求力が弱く、非常に豪華な管弦楽法が駆使されるが、45分という時間を集中して聴くのは骨が折れる。
演奏がいかに優れていても、作品そのもの内容的な弱さを克服することは難しい。
ただ、この少々躁鬱的ではあるが、総じて幸福感に溢れた作品に耳を傾けながら、後年、この作曲家が『悲愴』のような交響曲を書かなければならなかったことを思い、何とも可哀想に思えてきた。

ところで、後半は、同列の男性客が指揮をはじめてしまい、その少々病的な仕草が気になり、演奏に集中しきれなかった。
何とも迷惑なので、サントリー・ホールに御願いして、「近隣の客の迷惑になりますので、演奏中は指揮はしないでください。誰もあなたの指揮を観にきているわけではありません」というアナウンスをしてもらおうかと思う(笑)。

Reflection on the podcast: Beyond the Nation-State: Globalism, Plutocracy, and the Integral World Federation by Ken Wilber and Corey deVos

Reflection on the podcast: Beyond the Nation-State: Globalism, Plutocracy, and the Integral World Federation

by Ken Wilber and Corey deVos

https://integrallife.com/beyond-the-nation-state-globalism-plutocracy-and-the-integral-world-federation/

 

In many ways, this is a very typical response that we can expect from Integral Community on the current affairs—a response that is unfortunately deeply confused.

 

Summarizing Ken Wilber, Corey deVos writes: “According to Ken, it is not to toss out globalism entirely, but rather to create a bigger, better, and far more effective globalism — one that can remain uncontaminated by corporate interests, and one that supersedes the nation state, while also remaining aligned with the interests of its constituent nation-states.”

 

From my perspective, the problem is not that “the market is now global, the governments are national” as Ken observes but that we are basically living under “fascism” or “corporatism” as defined by Benito Mussolin (“Fascism should more appropriately be called Corporatism because it is a merger of state and corporate power”).

That is, the crux of the problem is, whatever the scale of government we have or will have, the entity called government seems to be destined to be taken over by corporate interests through what is called “the revolving-door polity of corporatism” where the key positions of the government are taken up by the “former” high-level officers of the major corporations which inevitably result in hijacking of the government institutions—as we have seen over the years in the US and other nations (the nations, according to Integral Theory, which are supposed to be highly developed operating based on world-centric principles).

 

Despite all the lip-services to world-centric values, we have basically been living under the systems that are powerfully controlled by private interests of corporations—tribes bound by self-interests. So the proposed solution to evolve and expand governments to a global form will not constitute an effective solution as long as we neglect the issue of “Fascism” or “Corporatism” which appear to be increasingly an intractable feature of government.

 

While there are some truths in the claim, I do not think that plutocracy of today is fundamentally resulting from “governance vacuum at the level of the transnational holon” simply because plutocracy has always been the case even before the arrival of so called “globalization”. It is basically an intrinsic part of the current form of capitalism where the takeover of the public sphere by the private sphere is so wantonly permitted. To characterize it as a new feature of society is highly misleading.

 

Therefore, without addressing this issue, the further expansion of government to more global scale will not solve the situation at all. It will probably worsen the situation. In that sense, to put it rather harshly, the argument Ken puts forth is essentially Ignoratio Elenchi, which entirely misses the core problem we are facing today.

 

It seems that the standard solution proposed by many in the Integral Community to the issues in current affairs—namely, “evolution/extension/expansion” of the entity to provincial to global would constitute effective solution—the solution to which we in the Integral Community automatically resort to in addressing any issues and problems, prove fallacious very often in actuality. This is probably because we unconsciously fantasize that the problems we face today would be somehow effectively addressed to once we establish what we believe to be a higher stage of development.

 

Instead of jumping to such “solution”, we need to clarify how we can really protect government from being corrupted by corporate interests. Whatever the scale of the government, whether it is local or global, unless we protect and immunize it from being corrupted by the influence of corporate interests, the solution will be meaningless or worse because it can now impose the will of the corporation on society globally.

ピエタリ・インキネン&プラハ交響楽団@サントリー・ホール

サントリー・ホールで、ピエタリ・インキネン(Pietari Inkinen)が指揮するプラハ交響楽団の演奏会を聴いてきた。
初めて生で聴くが、率直に非常にいい指揮者だと思う。
チャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたのだが、この作品の場合、往々にして、主旋律の影に全ての声部が埋もれてしまうのだが、インキネンの指揮のもとでは、全ての声部が全体を構成する自律的な要素として光彩感と立体感を伴い鮮やかに聴こえてくる。
もしかしたら人間の人体を表面の皮膚を剥がして眺めることができたら、個々の筋肉が相互に連携しながら動くのを観察することができるのかもしれないが、今日の演奏はそんな印象をあたえられた。
こういうチャイコフスキーは初めて聴く。
どれほど音楽が沸騰しても、指揮者は常に冷静であり、われわれがこの交響曲に期待する熱く暗い情念はない。
その意味では、「今風」の音造りなのだと思うが、それでも演奏が実に魅力的に聞こえてくるのは、それが確固たる美学にもとづいて創造されていることが実感されるからであり、また、実際に生み出された音そのものに、作曲者がそこに籠めたであろう意味が素のままに息づいているからである。
渦巻く情念の代わりに、そこには精緻に設計された音響があり、それが、この聴き慣れた作品にあらたな表情をあたえ、類い稀な新鮮さを付与する。
実は、昔、大学の音楽の先生が、チャイコフスキーの管弦楽法が優れていることを強調していたのを聞いて、あまりピンとこなかったのだか、今日の素晴らしい演奏を聴いて、ようやくその意図が理解できたような気がする。
もしインキネンにその演奏にたいする思想を尋ねたら、「作曲家が楽譜に書き留めた音符の全てが聴衆に聞こえるように務めるのが、演奏家の責任だ」とあたりまえのように答えるのかもしれない。
全ての要素がオーケストラという有機体の要素として自律的に音を奏でながら、また、それらが相互に対話と協奏をしながら、全体的な音楽を立体的に構成する――もしかしたら、これこそがオーケストラを聴く醍醐味なのかもしれないが、インキネンの演奏にはそうした思想が徹底されているのである。
こういう演奏は録音で聴いても全く魅力が伝わらないのではないだろうか……。

インキネンの音楽に幽かな不満があるとすれば、それは彼の音楽が芯から燃えあがらないということである。
その眼差しは結局のところ音響として音楽に向けられているために、どうしても「作曲者の“spirit”に触れたい」という、われわれ聴衆の欲求が充たされないままに終わってしまうのである。
もちろん、そこには、それを補って余りある感覚的な悦びがあるわけだが……

プラハ交響楽団も実に充実している。
前半の協奏曲の伴奏では、インキネンは自己の個性を封印して伴奏に徹していたが、後半の交響曲では、その優れた機能性を存分に発揮させていた。
日本ではあまり知られていない団体だが、揺るぎない実力集団だと思う。
アンコールのドヴォルジャークのスラブ舞曲も感動的で、何だか涙が溢れてしまった。
人生に破れたチャイコフスキーの作品のあとに、悠久の人間の営みに根差したこうした作品を聞かせてもらうと、ほんとうに救われた気持ちになる。
満員の聴衆の喝采も凄いものだった。

尚、樫本 大進をソリストにむかえた前半のブラームスのバイオリン協奏曲だが、サントリー・ホールの1階中央席(16列の中央)には、バイオリンが単なる蚊細い音としてしか届いてこないために、全く楽しめなかった。
樫本氏の演奏を頻繁に聴いている知人も、あまりにも音に迫力が無いために首を傾げていた。
また、少し厳しい言い方をすれば、この日のソリストの演奏は、こうした音響上のハンディを補うだけの訴求力を欠いていたようにも思う。
たとえば、昨年暮れに東京オペラ・シティで聴いた、日本音楽コンクールの荒井 里桜さんの演奏とくらべても、あきらかに聴き劣りしていた(もちろん、樫本氏の解釈にくらべて、荒井氏のそれは未完成なものではあったが、ソリストとしての華の有無は如何ともしがたい)。
むしろ、樫本氏の美質が発揮されたのは、アンコールで演奏されたバッハの協奏曲で、大協奏曲のソリストとして舞台の中央にいるのではなく、室内楽的に仲間と和気藹々とアンサンブルを奏でるのが向いているように思う。
その意味では、ベルリン・フィルハーモニーのコンサート・マスターという立場は正に絶妙のものなのだろう。

 

(1月7日)

 

2018年総括(4)

これからの時代を生きていくうえで、とりわけ重要な能力(スキル)をあげるとすれば、ひとつはDynamic Skill Theoryの中でadvanced systems thinkingの特徴として説明されている構造を見抜く能力であるといえる。
即ち、自己を「マトリクス」の中に囚われた存在として認識する能力である。
自律的な判断にもとづいて選択し、自律的な意志にもとづいてとりくんでいる活動でさえもが、実際には、ある構造(世界観・価値観)の中であたえられたものに過ぎない可能性を省察する能力である。
換言すれば、たとえば、ある課題や問題と直面するときに、そもそもそれがなぜ課題や問題として認識されているのか? ということについて問い、その構造そのものに批判的な眼差を向ける能力であるといえるだろう。
現代社会を支えるAdvanced Linear Thinkingの発想は、発達理論をふくめ、対象物をあたえられた物語(世界観)の中で設定した自己の目的を実現するための道具として利用することしかできない。
もしそれが期待したほど効果を発揮しないことが理解できれば、すぐにそれを見限り、次の流行の道具に意識を向けていくのが、その習性であろう。
しかし、そこでは、そもそもなぜ自身が追及している目的そのものを根源的な意味で見詰めなおそうとはしないし、また、それがそもそも人生を投じるほどに意味のあるものとして信じられている理由を探求しようともしない。
「なぜそういう問いかけをしないのか?」と尋ねれば、彼等は「それが何の特になるのか?」と答えるだけだろう。
Susanne Cook-Greuterと会話をしたときに、彼女は「認知的な発達は必ずしも幸福をもたらすとは限らない」と明言していた。
また、今回、Lectica, inc.,のオンライン・トレイニングを受けたときに、インストラクターは、「認知的な発達が実務的な生産性を高めることを示す証拠はないし、むしろ、認知の複雑化は、往々にして、過剰な視点や情報をもたすことにより、混乱や混沌をもたらし、また、実務能力を落とすことにもなりかねない」と述べていた。
端的に言えば、少なくとも現代社会において、Advanced Systems Thinkingを体得することには実利的な利益は望めない。
むしろ、それは生きにくさをもたらすことになるだろう。
しかし、そうした生きにくさを積極的に甘受する人間が輩出されることなしには、状況が好転することはないのである。

そして、もうひとつの重要な能力(スキル)はいわゆる「サイコパス」にたいする感性を涵養することである。
東欧の心理学者のAndrew M. LobaczewskiによるPolitical Ponerology: A Science on the Nature of Evil Adjusted for Political Purposes (2007) という興味深い書籍があることを知ったのは、昨年のことである( http://www.ponerology.com/ )。
著者のLobaczewskiは、ポーランドの心理学者で、東西冷戦時代には母国でサイコパスの研究をしていたという。
その結果、共産党独裁政権において、支配体制の中枢がサイコパスにより占められていたことに気づき、その洞察をもとにして、西側に移住後、その政権の形態如何に拘らず、国家というものが半ば本質的にサイコパスにより掌握される特性を内包していることを訴えた。
端的に言えば、政治という現象について検討をするときに、われわれは自己の社会の支配構造が既にサイコパスにより掌握されているという前提にもとづいて思考をする必要があるということなのである。
残念ながら、文章そのものは非常に読みにくいのだが、解説者による音声解説等が多数存在しており、それに耳を傾けると、Lobaczewskiが云わんとしたことがきわめて高い価値を有していることは明瞭である。
The Sociopath Next Doorの著者として有名なマーサ・スタウト(Martha Stout)は、「サイコパス」という現象は本質的に非常に理解しにくい性質を帯びているという。
即ち、一般の人々にとり、良心というものはあまりにも確かなものであり、それを持たないものが同じ人間の中に存在するとは信じられないのである。
そのために、人々は「サイコパス」の存在を概念としては知っていても、この世界にそうした人物が存在すると真に思うことができないのである。
また、今日、巷に流通する進歩的な価値観は、人間を性善説的に理解するよう人々を誘導し、そうした純粋な悪が世界に存在することにたいして意識を塞ぐことになる。
サイコパスが最も怖れるのは自己の本性が露わにされることであるとスタウトは指摘するが、今日の進歩的な価値観を信奉する社会は、彼等が自己の存在を隠匿するための絶好の条件を提供しているといえるのである。
Lobaczewskiは、ポーランドでは、自己の本性が暴かれるのを恐れた支配層によりこうした領域の研究は長いあいだ取り締まられたと述懐しているが、西側の民主主義社会においては、人々はそうした弾圧とは異なる影響を受けて盲目化されているのである。
また、サイコパスの影響下にある社会においては、一般の人々もサイコパス的な特性を習得するように誘導されていくことにある(このあたりのことについては、たとえばRobert Jay Lifton等の犯罪心理学の研究書を参照していただきたい)。
とりわけ、適応力が高い「優秀」な人々に関しては――今日においては、状況を倫理的に判断するよりも、勝利や生存のために最も俊敏に状況に適応できることが優秀であることの証とされる――こうした影響にたいする感受性(susceptibility)は非常に高いといえる。
そうであればこそ、安冨 歩氏が「東大話法」という概念を示して主張するように、最高学府の在籍者ほど――ある意味では、彼等は受験というゲームに最も俊敏に適応した「勝利者」であり「成功者」である――そうした傾向を特徴的に示すのである。
少々コスモロジカルな言い方にはなるが、もしわれわれの生きる時代そのものが、いわゆるサイコパスの特性に象徴されるこうした悪魔的なダイナミクスの包括的な影響下で形作られているとすれば、そのことに無意識でありつづけることは自殺行為であるといえる。
Advanced Systems Thinkingとは決して社会的な構造にのみ意識を向けるわけではない。
コスモロジーの視点に立って、この時代がいかなる時代であるのかということを問うことも、その紛うことなき実践といえるのである。

2018年総括(3)

国内に目を向けると、2018年は、日本人の政治にたいする慢性的な無関心が最悪の影響を社会にもたらしていることが露呈した年であった。
2011年の東日本大震災時に福島原子力発電所の過酷事故が発生したときに、首都圏が退避圏内にはいる可能性と隣り合わせになったことは、まだ記憶にあたらしいが、個人的には、そこで人々がその現実にあまりにも無関心であることを目のあたりにしたときの衝撃を忘れられない。
そのとき、日本人がこの世界で生きていくために果たすべき最低限の責任と権利を放棄している事実を認識したものである。
今日に至るまで、この国の人々のそうした状態は少しも変わっていない。
そして、そのツケは着実に急速にこの国を衰退に追い遣ろうとしている。
端的に言えば、「インテグラル」云々言うまえに、最も根源的なレベルにおいて、この世界で生きていくために必要とされる感覚(生存にたいする基礎的能力)そのものが毀れているのである。
今年も政権のもと、国を弱体化するための数々の法案が採択されたが――確かに報道機関が無関心と思考停止を涵養するための装置として機能しているとはいえ――権力というものが本質的に腐敗するものであることを肝に念じ「関心をはらいつづける」「思考をしつづける」という大人としての責任をこれほどまでに徹底して放棄して全てを傍観している様子を眺めていると、この国が衰退の最終局面に入ったことを実感する。
もちろん、日本人は、ある領域においては、勤勉であるといえるかもしれない。
書店には自己啓発系の書籍が無数に置かれており、それが旺盛に消費されている。
また、社会の動向を俯瞰的に眺めて、来るべき時代の姿を占う書籍も多数販売されている。
全体的には書籍の販売数が激減しているとはいえ、国内・国外の書籍がこれだけ豊富に陳列され、また、積極的に読まれている状況を眺めると、それほどまでに知的怠慢が蔓延しているとは信じ難いと思われるかもしれない。
しかし、問題は、こうした知的衝動が徹底的に企業人としての活動を高質化・効率化するためだけに振り向けられていることである。
また、自己の精神的・肉体的な状態を整えるための諸々の方法(例:食事・睡眠・運動・瞑想に関するもの)も、結局のところ、それを実践することで、企業人としての自己の生産性を高めるための道具としてしか見做されていないということである。
たとえば、「世界のエリートが実践している休息法」というようなタイトルの書籍があるが、それが「約束」しているのは、結局のところ、「上手に休息をとることができれば、あなたも「勝ち組」(“エリート”)の仲間入りすることができます」というようなことである。
即ち、たとえば休息や睡眠をはじめとする最もプライベートな「活動」でさえ、生産性を高めるための機会としてとらえるべきなのだ――という脅迫的なまでのメッセージがそこに隠されているのである。
そして、そのことに気づいているかいないのかは別として、人々は実に素直にそうしたメッセージを消費して、自己の存在を熱心に経済の論理に差しだしているのである。
インテグラル理論は、Jurgen Habermas等の指摘を踏まえながら(“Colonization of the lifeworld by the instrumental rationality of bureaucracies and market-forces”)、こうした状況を量的な価値観に生活の全ての領域が占領される状態としてとらえ、それが現代社会を深刻に蝕む根幹的な病理であることを指摘する(c.f., 「フラットランド」)。
正にそうした病理に骨の髄まで蝕まれているのが日本であり、その末期的な症状が、今社会を覆う「全てを経済活動の論理でとらえ、他の論理(価値観)を積極的・消極的に排除する」という習性なのである。
実は人類の歴史の中で、現在われわれが信奉している経済観は非常に特異なものだが、現代人はそれを歴史的に最も進歩したものとして無批判にとらえて、その呪縛のもとに楽園を夢見て世界を再構築している。
そうした怠惰な知性が――それは皮肉にも過労死を日常的な風景として正当化してしまえるほどに勤勉な精神でもあるのだが――歴史(将来)にたいしてまともに責任をとれるはずはない。
非常に勤勉ではあるが、同時にあたえられた物語を無批判に信奉して、その指示に忠実に思考し行動する――そうした姿は正に機械のそれに喩えることができるだろう。
当然のことながら、そうした実質的な催眠状態にある人間を操作するのは非常に簡単なことである。
広告代理店が仕掛けるプロパガンダ施策にこれほどまでに容易に誘導されてしまうのは、当然といえば当然のことなのである。
しばらくまえにSNS上でこんな記述を目にした。
曰く――The Walking Deadをはじめとする、今日流行しているゾンビ映画に描かれるゾンビとは実は現代の大衆そのものなのだ。それは、自己の衝動だけに忠実であり、底無しの欲望を満たそうと常に刺激(快楽)を求めつづける。そして、少しでも人間性を残した同胞を目にすれば、それに群れをなして襲い掛る。
正に現代の大衆の姿である。

近年、サイコパスに関する書籍が注目を浴びているが、そうした解説書の中には、サイコパスが自己の異常性を隠蔽するために、しばしば、環境そのものをサイコパス的なものに変容させてしまうことが述べられている(c.f., The Sociopath Next Door by Martha Stout)。
たとえば、長年にわたりHarvard Medical Schoolで教鞭をとった精神病理学者のMartha Stoutは、合衆国の全人口の少なくとも4%がサイコパスであると述べているが、そうした人物が共同体の支配構造の上層部を占めるとき――われわれは正にそういう時代に生きているといわれる――社会そのものがサイコパス化してしまうのである(たとえば、安冨 歩氏が提唱する「東大話法」は、こうした心性を再生産しひろく蔓延させるためのmemeといえるだろう)。
「フラットランド」の支配のもと長年にわたり集合規模で醸成された知性と感性の鈍磨にくわえて、サイコパスの跳梁跋扈の結果として常態化したサイコパス的な心性の蔓延――日本はこうした深層的な病理に蝕まれながら末期的な状況に突入したのである。
とりわけ、そうしたサイコパス的な心性を発揮して権力構造の頂で犯罪的な行為を行いながらも、たとえそのことが公にされても、それにたいする責任が問われなくなるとき、その社会は真の意味で完全にサイコパスにその統治権をあたえたことになる。
そこでは、彼等は自己の犯罪を隠蔽しようとするのではなく、むしろ、それがどれほどあきらかにされたとしても、全く責任をとらずに済むことを示すことにより、大衆の無力感を増長させ、自己の支配権を増幅しようとする(“revelation of means”, Michael A. Hoffman II)。
2018年とは、そうした支配が完成したことを如実に示された年として画期的な年であったといえるだろう。