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【5/27】インテグラル理論 中級講座(追加日程)※ZOOM対応

https://www.holisticspace-aquarius.com/20200527integral/

 

来週のインテグラル理論講座では、いわゆる「方便」(skillful means)に関して解説をします。
ケン・ウィルバーは、インテグラル理論に関する一連の解説の中でそれを「聞き手」に関心や欲求を踏まえて、それをいかに「翻訳」「包装」して呈示するべきかについて多くの文字数を割いて語っています。
これは、実践思想としてのインテグラル理論の本質を把握するために最も重要な論点のひとつといえます。
「入門」のレベルを通過して、次に実際に日々の現場でインテグラル理論を活用していこうとしている方々には是非踏まえておいていただきたい内容なので、ひとりでも多くの方々に御参加いただきたいと思う。

【5/27】インテグラル理論 中級講座(追加日程)※ZOOM対応

【追加日程】

インテグラル理論 中級講座

 

【日程】 

5月27日(水) 19:00〜21:15

 

【参加方法】会場 or ZOOM(リアルタイムのみ)

※ZOOMのみの開催になる可能性があります

 

【参加費】5,000円

 

【内容】

・「入門 インテグラル理論」(日本能率協会出版・3月末刊行)概説

・インテグラル理論を一般向けにどう紹介するか?・Integral InstituteとLecticaの事例を参考にして

 

【講師】鈴木 規夫 (インテグラル・ジャパン代表)

アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。主な著書・訳書に『実践インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』(春秋社)『インテグラル理論入門』(I・II)(春秋社)『インテグラル・シンキング:統合的思考のためのフレームワーク』(コスモス・ライブラリー)がある。

 

【主催・会場】ホリスティック・スペース=アクエリアス

東京都中央区日本橋馬喰町1-5-10 林ビル4階(1階が日高屋のビル)

(JR総武線快速 馬喰町駅・都営新宿線 馬喰横山駅 1番出口から徒歩1分)

 

【お申込み】https://ws.formzu.net/dist/S68241484/

お申し込み後、振込先をご案内します。振込をもって正式受付となります。

 

【お問い合わせ】holist.aquarius@gmail.com

「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」に参加させていただいて

今日の午後は「シュタイナー × インテグラル理論〜新時代の教育対話〜」と題された今井 重孝さんと後藤 友洋さんが登壇したイベントに参加させていただいた。
優れた教育者の方々が指摘されるポイントというのは、その基盤となる思想的・理論的な背景に拘わらず、しばしば共通している。
それは、一言で言えば、人間が自然に付与されている成長・発達のリズムやペイスを尊重することの重要性である。
端的に言えば、効率性を半ば盲目的に追求する今日の時代精神がいかに愚かしく、また、危険なものであるのかということを厳しく指摘するのである。
「発達はゆっくりであるべきだ」と主張したのは、発達心理学者のジァン・ピアジェであるが、その警告を無視し、大量の人口肥料を投下して――また、同時に、深刻な害悪をもたらす大量の食品添加物を混ぜ込んで――成長や発達を効率化させるために全力を投じているのが現代社会といえるかもしれない。
今日の登壇者の話を伺って非常に納得したのは、われわれの社会が、ルドルフ・シュタイナーの「7年周期説」の第2期(7〜14歳)の重要性に関する理解を徹底的に欠いているということだ。
この期間は権威に対する純粋な尊敬の念を育む期間と解説されるが、換言すれば、それは、自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができるようになると共にそれを体現する存在を尊敬するための能力を涵養する期間ということができよう。
そして、こうした鍛錬をしっかりとすることで、人間ははじめて他者を独自の内的な世界を有した未知なる存在として認識し、その世界に敬意をはらい、また、その世界を傾聴することができるようになるのである。
今、巷では「傾聴」の重要性が訴えられているが、それは単なる「スキル」に還元できるものではなく、こうした人格形成のプロセスの初期に確立された感覚や感性に根差すものといえる。
たとえば、味覚の無い人は砂糖を舐めてもその甘さを感じることができないように、こうした感覚を欠いている人は、他者を尊敬や尊重や傾聴の対象として感じることができない可能性があるのである(もちろん、何等かの治癒的な活動を通して、ある程度の是正はできるだろうが……)。
それでは、こうした感覚の開発を阻害する要因は何であろうか……?
今日、講師の方に訊いたところでは、早すぎる議論(debate)がそれにあたるという。
即ち、意見交換というものを、真に相互理解の機会として活用・満喫できるようになるための準備が整わない段階でそうした活動をさせられると、意見交換というものを単なる「勝つ」ためのゲームとして認識してしまうことになる危険性があるということだ。
自己の意見を確立するというのは、実は一般的に考えられているよりもずっとずっと難しいことだ。
そのことを理解せずにあまりにも早い段階で他者と議論をさせられると、結局は、借りてきた意見や情報を自分のものと勘違いして主張することになってしまう。
また、単純に議論に勝つことが求められるときには、そうした偽りの意見を強引に主張することを覚えてしまうことになる(それが会話の本質であると錯覚してしまうことになる)。
会話が単なる「technique」を駆使する場所に成り果ててしまうのである。
しばらくまえに「東大話法」という概念が注目を集めたが、そこで分析されている「エリート」といわれる人々の話法の特徴とは正にこうしたものだといえる。
結局のところ、その口から出る全ての言葉が借りものであり、また、言葉は「勝つ」ために利用されるべき道具に過ぎないために、言葉は徹底的に愚弄される。
そのサイコパス的な振る舞いは正に第2期を健全に送ることを阻まれた人々の歪みを端的に示しているのであろう。
もちろん、彼等はあくまでも氷山の一角に過ぎない。
今日の教育制度は、彼等のような少数の東大話法の「熟練者」だけでなく、二流・三流の習得者を膨大に生み出している。
自己の存在を超えた「高いもの」「深いもの」の存在と出逢い、それに対する憧憬や畏敬を覚えることができると共にそれを体現する存在を尊敬する能力をそなえていること――こうした条件を欠落させている人間を大量に再生産する社会は正に狂気の社会といえるだろう。
また、そうした「高いもの」「深いもの」を隣人の中に見出すことができない人間が多数派となる社会に於いては、同胞意識は消失し、格差は――たとえそれがいかに苛烈なものになろうとも――所与の条件として受容され、虐げられた人々に対する慈悲は根絶やしにされるであろう。

 

雑感:5月2日〜5月15日

5月2日
10年振りくらいに「失敗作」として唾棄されている「Final Fantasy: The Spirits Within」を観直した。
https://imdb.com/title/tt0173840/
20年前にはじめて観たとき以来、自分の意見は一貫していて、これは大変な傑作だと信じている(同意してくれる人と会ったことはないが……)。
今回もあらためて感銘を受けたし、何よりもその芸術性と技術性に深く感動した。
そして、Elliot Goldenthalの音楽が失神するほどに素晴らしい。
巨大編成のLondon Symphony Orchestraと合唱団を起用して録音されたこの音楽は、映画音楽史に残る大交響詩といえると思う。
そのまま映像無しに演奏会で演奏しても絶対音楽として立派に通用するのではないかと思う。但し、編成が大きすぎて舞台に乗らないかもしれないが……)。

 

5月3日
imdb.com/title/tt0408306/
15年振りくらいに『ミュンヘン』(Munich)を観たのだが、この頃には既にスピルバーグが演出家として下り坂にあったことを実感させられると共に公開後の時間の経過の中で作品としても賞味期限を切らしていることを感じさせられた。
作品の最後、暗殺部隊のリーダーを演じた主人公が、指揮官に対して「そもそも自分達が殺害した人達がテロに関わっていたという証拠はあるのか?」と問う台詞があり、その中に作品の一抹の良心を感じとることができるが、全体としては、ハリウッドというプロパガンダ装置が生み出した自己正当化の一商品の域を出ないように思う。

 

5月10日
先日、紹介したSusanne Cook-GreuterとBeena Sharmaのオンライン講座に関する備忘録。
個人的に、ハッとさせられた言葉がある。
どれほど発達段階が高い人でも、ほとんどの場合にはコーチングのプロセス中では「Amber」(体制順応型段階・神話的合理性段階)の「積み残し」の課題や問題が浮上してくる。その領域の課題は繰り返し繰り返し再訪してとりくむ必要がある――という意のものだ。
特に今日の社会情勢を見渡すと、この言葉の云わんとするところは明らかだと思う。
人間は社会的存在であるために常に自らの生きる共同体に適応することに――排除されないことに――執着するよう宿命づけられている。
特にそこに立ちこめる「空気」を敏感に察知して、その「指示」に従順に従えることは自らの生命を守るための必須能力として意識するように訓えられている。
そして、これはまた本能的な反応ともいえるものである。
その呪縛から自由になるのは非常に難しく、たとえ高い認知能力をそなえていても、あるいは、難解な発達理論を勉強していても、殆どの場合、そんなものはあまり役に立たないものだ。
それほど根深いものなのである。
また、この領域の課題は、個人の内的な事情により求められるようになるだけでなく、それに関わる外部(例:他者)の状態が変わるために必要とされてくるものでもある。
たとえば、人格形成期にこの領域に大きな影響をあたえた人(例:親)の状態や状況が変われば、それが大なり小なりの影響をこちらにあたえることになり、そのことが結果としてこの領域の課題をあらためて浮き彫りにすることになるのである。
くわえて、この領域の課題は往々にして非常に根源的なものであるために、「コーチング」を通して探求するだけでは大きな限界が出てくる。
Shadow領域に通じた専門の心理師の支援が不可欠になる。
ある意味では、この領域は最も難易度の高い領域といえるのかもしれない。

もうひとつ、これは講義の後の対話の中でも触れられていたが、他者支援に於いて何よりも重視されるべきは、「段階を上げる」ことではなく、今いるところで統合度を上げることである――という指摘には留意する必要がある。
バランスを崩したり、深い病を抱えたりしたまま、高い段階の認知や思考の能力を獲得したとしても、それは良い結果をもたらすことはないし、また、むしろ危険なことであるとさえいえる。
むしろ、そうしたShadow領域の課題をはじめとする人格の統合に関する諸課題に対処を講じた上で「成長」や「発達」ということに意識を向ける方が賢明であるということだ。
また、今日、われわれは――どこの段階に重心を置いて生きているとしても――この社会に生きることを通して「フラットランド」(flatland)の病に罹患して生きている。
もちろん、それは無数にある病のひとつにすぎないが、そうしたことにしっかりと意識を向けることなしに「成長」や「発達」を急ぎすぎるのは危険であるということなのだ。

 

5月12日
https://www.penguinrandomhouse.com/books/27357/the-chomsky-reader-by-noam-chomsky/
大学院時代に読んだ書籍だが、冒頭に興味深いインタビューが掲載されている。
「一般の人々は政治以外の領域に関しては驚異的に高い知性を発揮する。例えば、プロ野球の試合に関する人々の分析を聞くと、その精緻な批判的洞察に感嘆させられる。しかし、事が政治となると、人々の思考の質は劇的に低下し、批判的な思考が殆どできなくなる。あたえられた情報や枠組を鵜呑みにしてしまうのだ。」
知性というのは常に限定的に用いられるものなので、特に驚くべきことでもないように思うかもしれないが、それにしても、現代に於いても、自己と自らの愛する人々の生命に直接に影響をあたえることになる最も重要な話題に関して、こうした思考停止が蔓延している現実についてわれわれは真剣に考える必要があると思う。
心理学には「影」(the Shadow)という概念があるが、これは正にそうした類の問題といえる。
有名なユング(Carl Gustav Jung)は著書の中で人類の生存の鍵を握るのは、人類が自らの「影」を意識化することができるかどうかだと訴えているが、今日の状況を眺めると、正にそうした警告が正鵠を射たものであることを実感する。
それについて考えず、語らないことが社会の「常識」と化しているのである。
個人的にとりわけ興味深いことは、そうした偉大な心理学者の理論を誰よりも勉強してきているはずの「心理学者」といわれる人達の大半が、正にこうした話題について積極的に語ろうとしないことだ。
人間の治癒や成長の問題についてあれほど誠実にとりくんでいるようにみえるのだが、社会の影を自らも体現してしまっている人があまりにも多いように思う。
これはある意味では心理学というものが思想としての本質を失い、技法と化していることの証左なのではないだろうか……。
20世紀に生きた心理学者は、多かれ少なかれ、20世紀の大量殺戮の現実を踏まえて、その理論や実践を深化させたが、そうした精神が心理学という領域から失われているのではないだろうか……。
あるいは、これはあくまでも仮説ではあるが、心理学という領域が「自己責任論」というイデオロギーに深く浸食されているのではないだろうか……
「個人の苦悩は個人の責任において生じたものであり、それは個人の責任において解決されるべきものである」(あるいは、そうした発想の枠内で扱えるものだけを対象として治療を行う)――というような態度が蔓延しているのではないだろうか……
もちろん、そこには限定的な真実はあるが、それはまた個人の苦悩が社会の文化や制度により生み出さているという現実をあまりにも軽視しているように思われるのである。
あるいは、そうした集合的なことについて思い悩んでも、意味が無いので、とりあえず個人としてできることに意識を集中させようという積極的な視野狭窄を無意識的に肯定しているのかもしれない。
そういえば、『論点思考』(内田 和成著)というコンサルタントにより書かれた有名なビジネス書があるが、その主張もこうしたものだった。
それは実務書としては真当な主張ではあるが、そうした発想が人間の治癒という本質的な問題に関わる心理学の領域を浸食してしまうのはマズイのではないかと思う。

 

5月14日
「この人の文章は読むに値する」と思うときに、そこで何を直感的に把握しているのかと言えば、それは、そこに書かれている文章の背景に著者の独自の価値観や世界観が存在していることなのである。
読者には、自己の価値観や世界観そのものを深化させたいという欲求があるので、そこに書かれている文章の「善し悪し」だけでなく、それを生み出している著者の中に継続的につきあい理解を深めていくに値する独自の価値観や世界観が存在しているのかどうかを判定しようとする意識が常に働いている。
たとえば芸術批評の世界では、このところ大多数の執筆者が情報の紹介者に成り果ててしまい、自己の価値観や世界観にもとづいて敢えて「独善的」な言葉を言おうとしなくなっている。
しかし、たくさんの情報に裏づけられた「客観的」な文章というのは、検索をすればすぐに見つけられるようなものであり、実質的には匿名の文章でしかない(例えば、商品の広告文のようなもので、それは執筆者の署名を必要としない)。
不思議なことに、執筆者が「高学歴」になればなるほど、その文章は匿名的なものになり、異論は唱えられにくくはなるが、存在価値は希薄なものになる。
優秀な人は、たくさん勉強をして豊富な情報を収集し、また、それを整理して紹介するところまではできるのだが、そのプロセスの中で自己の「声」を育てるということを忘れたり、あるいは、「声」そのものを捨てたりしているのではないか……

 

5月14日
このところ、しばしば勉強会に御招きいただくのだが、参加者の方にこんな質問をいただくことがある。
「インテグラル理論に関する理解を深めていくために、この後にはどのような書籍を読んだらいいでしょうか?」
もちろん、具体的な書籍をあれこれと挙げることもできるのだが、実際のところ、われわれが自身の理解を深めていくために心懸けるべきことは結構シンプルなことなのではないかと思うのだ。
即ち、優れた著者の作品に出逢い、それに感銘を受けたときには、その著者に影響をあたえている他の研究者や思想家の作品にダイレクトにアクセスするように心懸けること――ということだ。
ただこれだけを続けていくと、思想と思想、そして、理論と理論を繋ぎあわせることができるようになる。
ひとりひとりの研究者や思想家はひとつの「世界」(システム)を呈示しており、そこに深く身を投じてみると、そのシステムに呪縛されるからこそ視えてくるリアリティ(真実)があることを認識できる。
そういう深いつきあいを複数の研究者や思想家とするのである(もしかしたら、全集を買い込んで、それを読破するくらいの気迫があってもいいかもしれない――もちろん、最終的にその全てを読むことはできないにしても)。
そうしたことを継続していると、徐々に「世界」(システム)を関係づけたり、統合したりすることができるようになる。
いわゆる、成人発達理論が「グリーン」や「ティール」と呼んでいる「システム」的な思考ができるようになるのである。
また、個人的には、書籍というのは必ずしも読まれるためにあるのではなく、そこにひとつの思想的・理論的な体系(システム)が存在していることをわれわれに意識させるためのあるのだと思っている。
たとえ忙しすぎて――あるいは難解すぎて――読むことができなくても、そこに物理的に存在していることで、書籍は、そこにわれわれが勉強すべきひとつの領域が存在することを示しつづけてくれる。
そして、その領域の探求をはじめるためにわれわれの準備が整うのを待ちつづけてくれるのである。
その意味では、書籍というのは、ある種の「家具」のようなものとして位置づけられるべきものなのではないかと思うのだ。

 

5月15日
ルドルフ・シュタイナーの著書をパラパラと眺めているのだが、「畏敬」「畏怖」の念を涵養することが全ての基礎にあるという主張に強い共感を覚えた。
もう少し正確に言うと、そこで言われているのは、そうした感覚を覚えることができるように常に自己の精神を鍛錬しつづけること、また、そうした感覚を抱ける対象を探しつづけることの重要さだ。
従って、それは、全てを無批判に受容したり、称賛したりするということではない。
畏怖や畏敬の念を抱くに値するものを求めつづけるというのは、ある意味では、それに値しないものに関しては、そういうものとして判断をすることでもあるので、シュタイナーの言わんとしているのは実は非常に厳しいことなのだと思う。
ただ、個人的に思うのは、そういう態度を維持して生きるのは大変だろうということだ。
特に現代という時代は、人間の内に息づく畏敬や畏怖の感覚に訴えるものを生み出すことを積極的に拒否している時代である。
芸術の世界に於いても、作品や演奏は基本的に大衆的な判りやすさを意図して創出されている。
その条件が満たされなければ、それは「商品」として成立しないので、重宝されないのである(Flatland)。
また、今日に於いては、自然さえもが観光地として商品化されている。
感覚を研ぎ澄ますほどに真の感動と出逢うのは難しくなる。
シュタイナーは、こうした鍛錬が「超感覚的世界」を認識するための必須条件であると述べているわけだが、そういう意味では、現代に於いては、「霊性」(spirituality)を実践するとは、時代の本質そのものであるFlatlandに抗うという要素をどうしても内包せざるをえなくなるということだ。

 

5月15日
https://www.imdb.com/title/tt7286456/
しばらくまえに話題になっていたので、DVDで観てみたのだが、大きく期待を裏切られた。
「凡作」ではないが、作品が主演俳優の「怪演」に全面的に依存していて、他の要素が非常に脆弱なのである。
確かに、作品の背景世界として超格差に蝕まれ実質的に崩壊した社会が描かれ、そうした意味では、今日の社会情勢を生々しく反映した「野心作」であるようにはみえるのだが、その描写が総じて表層的で、結局のところ、作品がそうした社会をどのようにとらえているのかということに関する思想や視座が最後まで全く視えないままに終わってしまう。
また、そうした超格差社会の中で虐げられ、怒りを爆発させる大衆に対する共感も希薄で、結局のところ彼等を単なる暴徒として描くことしかしないので、そうした点でも不快である。
端的に言えば、「社会派」のフリをしているだけにしか思えないのである。
また、主人公の思考や行動は、思わせ振りに描写されるそうした作品世界とは本質的に乖離したものとして生まれているために、主人公の内面的な「旅」と背景世界の間に化学反応が生じない。
主人公がブルース・ウエインと異母兄弟である可能性を示唆するアイデアは面白いが、少なくとも本作の中ではそのアイデアは単に仄めかされるだけで、それ以上に深められることもない。

 

https://www.imdb.com/title/tt6146586/
こういう作品はあまりうるさいことを言わずに楽しむべきなのだろうが、それにしても少し粗雑に過ぎないか……。
完全なるファンタジー作品であるとしても、どこかに「リアリティ」を残しておかないと、バカらしくて観続けていられなくなってしまう。
それに敵役の日本語が判読不可能なのにも鼻白んでしまう。
今回の作品の主題は、「High Table」といわれる体制に反旗を翻す決意をするまでの心の遍歴を描くことなのだと思うが、本来であれば、そこからが面白くなるところなので、そこに辿り着くまでに時間を無駄にしすぎているように思う。
矢継ぎ早にアクションが続きはするのだが、観ていると、総じて間延びしているように思われる理由はそのあたりにあるのではないか……

 

5月27日 − インテグラル理論中級講座(追加イベント)

 

https://www.holisticspace-aquarius.com/20200527integral/

【5/27】インテグラル理論 中級講座(追加日程)※ZOOM対応

 【追加日程】

インテグラル理論 中級講座

 

【日程】 

5月27日(水) 19:00〜21:15

 

【参加方法】会場 or ZOOM(リアルタイムのみ)

※ZOOMのみの開催になる可能性があります

 

【参加費】5,000円

 

【内容】

・「入門 インテグラル理論」(日本能率協会出版・3月末刊行)概説

・インテグラル理論を一般向けにどう紹介するか?・Integral InstituteとLecticaの事例を参考にして

 

【講師】鈴木 規夫 (インテグラル・ジャパン代表)

アメリカの現代思想家ケン・ウィルバーのインテグラル思想の普及のための活動を展開している。主な著書・訳書に『実践インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』(春秋社)『インテグラル理論入門』(I・II)(春秋社)『インテグラル・シンキング:統合的思考のためのフレームワーク』(コスモス・ライブラリー)がある。

 

【主催・会場】ホリスティック・スペース=アクエリアス

東京都中央区日本橋馬喰町1-5-10 林ビル4階(1階が日高屋のビル)

(JR総武線快速 馬喰町駅・都営新宿線 馬喰横山駅 1番出口から徒歩1分)

 

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お申し込み後、振込先をご案内します。振込をもって正式受付となります。

 

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「適応主義」の危険性:「ティール」の「病理」?

「Teal」という概念が紹介され、ひろく知られるようになる中で、その背景にある「成人発達理論」に対する関心が高まりをみせている。
個人的には、これは非常に歓迎すべきことだと思っているのだが、同時に、こうした理論や概念が実際に社会の中でどのように解釈され、運用されているのかを眺めると、非常に懸念させられるところもある。
いうまでもなく、ここ20年程のあいだ、こうした概念の一般化に中心的な役割を果たしたのは、ケン・ウィルバーを中心とした合衆国のインテグラル・コミュニティの関係者であるが、正直なところ、発達という概念に関して、総じて慎重さを欠くところが散見されるように思えてならない。
個人的にとりわけ心配するのは、そこに「発達」や「成長」を無条件に善なるものとして位置づける態度がぬきがたく息づいていることだ。
そうした態度は、また、人間をとりまく生存環境が変化すれば、それに応じて変化をできることを無条件に肯定する適応主義的な発想としても顕在化している。
「人間の生存環境は刻々と変化しており、われわれはそれに適応しつづけることを求められる」という発想は、そのまま「真に生存する権利をあたえられているのは、そうした生存環境の変化に機敏に適応しつづけることができる者だけである」という発想に繋がる(換言すれば、そうした能力を持たない者達は滅びても仕方がないという発想である)。
もちろん、こうした適応主義的な発想は、ケン・ウィルバーの著作に於いては、右下象限の価値観である「機能的適応」(functional fit)の絶対化として糾弾されているのだが、実際の実務領域に於ける応用時には、そうした警鐘は半ば完全に等閑にされ、「発達」や「成長」を美化し奨励する風潮を醸成している。
以前にも紹介したが、発達心理学者のZachary Steinは、Blog記事の中で、現在巷で「レジリエンス」(resilience)という言葉が注目を集め、多くの人達がそうした「資質」や「能力」を測定したり、鍛錬したりすることに夢中になっていることに警鐘を鳴らしている。
そこでは、「そのような能力を涵養することを万人に要求する社会が果たして健全な社会といえるのか?」という問いが完全に忘れ去られ、ただひたすらに「生き残るために」「勝ち残るために」要求される能力を獲得することに我を忘れる「大人達」の姿が露わにされているのである。
そこでは、そうした風潮そのものが、真に受容されるべきものなのか?、また、それがいかなる意図や力学にもとづいて生み出されているのか? ということに対する問題意識が欠けているし、また、自らがそうした風潮に順応して前向きに努力をすることの結果として、将来世代にどのような社会を遺していくことになるのかということに関する内省が完全に欠如している。
「Green」や「Teal」といわれる高次の発達段階はいわゆる「システム思考能力」を発揮する段階といわれる。
成人発達理論に触発【インスパイア】された多くの人々は、これらの段階をめざそうと決意をするが、そこで先ず冷静に考える必要があるのは、現代を生きるわれわれが「レジリエンス」をはじめとする能力を獲得しようと懸命に努力をすることで、それがどのような社会を生み出すことにつながるのかということだ。
実際のところ、そうした問いを発することこそが、われわれが獲得しようとしている「思考能力」を発揮することそのものでもある。
自己の行動そのものが世界にあたえる影響に留意して思考・行動するのが、後慣習的な段階の特徴である。
それを真に獲得しようとするのであれば、こうした倫理的な問いを発することを回避することはできないはずなのである。
また、もう少し踏み込んで考えるならば、現在、集合規模で展開していると喧伝される諸々の生存環境の変化に関しても、それを所与の条件としてとらえ、それに適応するに夢中になるのではなく、先ずはその性質について批判的に検討すべきであろう。
たとえば、つい先日まで世界中で「常識」として人々により受容されてきた「グローバリゼーション」(Globalization)という概念でさえ、その信頼性そのものが揺らぎはじめている。
少なくとも、それが多国籍企業をはじめとする超国家的な勢力による惑星規模の収奪を正当化する「イデオロギー」としての側面を内包していたことは――よほど洗脳されているのでなければ――明々白々である。
そうした概念が、どのような意図や思惑にもとづいて、どのような利害関係者により用意され、拡散されているのかということについて深く考えることなく、単にその影響下で醸成された「空気」に適応することに腐心するだけでは、そこにある機械の歯車のひとつに堕すだけである。
あたえられた状況に前向きに適応することをとおして、知らず知らずのうちに自分自身がいかなる社会の創造に貢献することになっているのかという問いを不問に付してしまうのである。
全く同じことが、今、巷で口にされはじめている「ポスト・コロナ社会」("post-COVID 19")という言葉に関しても言えるだろう。

しかし、非常に残念なことに、極々少数の関係者をのぞき、現在のインテグラル・コミュニティの関係者は、こうした適応主義的な発想に深刻なまでに絡めとられているように思われる。
また、非常に悪いことに、「こうした劇的な生存環境の変化に迅速に適応できることこそがGreenやTealの特徴である」という「物語」を不用意に口にしている。
そこには、正にSteinが批判するように、「自らが適応しようとしている生存環境がいかなるものなのか?」(「それは真に適応に値するものなのか?」「また、そうでないなら、現在、喧伝される構想に対していかなる批判をくわえ、また、いかなる対案を示すべきなのか?」)ということに対する問いかけが完全に欠落しているのである。

こうした状況を眺めると、われわれはあらためて「発達理論」なるものについて勉強をすることが、果たしてわれわれの成長を促進してくれるのかどうかということについて考え直さなくてはならないと思う。
また、長年にわたりインテグラル理論を学んできた人々がこれほどまでに無防備にあたえられた「現実」に呑みこまれていること――それに迅速に適応することこそが成熟の証であると信じていること――を鑑みると、この理論の根本的なところに重大な問題が隠れていることを疑わなければならないのではないかと思う。

少なくとも、現在の状況が示しているのは、インテグラル・コミュニティの中で「インテグラル」(Teal)的であることを標榜していて活動を展開している人々が悉くそれに失敗しているということだ。
「インテグラル」(Teal)であるとは……ができることである――と訓えられてしまうと、逆にそれに囚われ「斯くあらねば」と思い込んでしまい、自由な思考を妨げられてしまうのである。
それはある意味では「型」の罠といえるが、少なくともわたしが理解している範囲では、そもそも発達理論とはそのような「型」として利用されるべきものではない。
「型」として機能するためには、その枠組はあまりにも抽象的であり、また、粗雑である。
また、そもそも「段階」という概念は「規範的」(normative)なものとして「処方」されるものではないと思う。
何よりも重要なことは、個人の能力(可能性)が最も自然な形態で発揮されることであり、そのようにして発揮された結果を客観的に把握するための道具として、こうした理論があるのだと思う。
また、もし処方的な立場から活用するのであれば、たとえばLectica, Inc.がVirtuous Cycle of Learningという概念で示しているように、具体的な「スキル」に焦点を絞る必要があるだろう。
少なくとも、それは――あたかも道徳教育の中で示されるように――「斯くあるべき」という状態を示す理論ではないはずである。
現在のインテグラル・コミュニティの関係者の言動を眺めていると、あまりにも生真面目に「インテグラル」(Teal)的であることに固執するあまり――少し冷静に考えれば、発達理論に準拠して「斯くあろう」とすることそのものが可笑しいのだが――自身が目標として掲げている「像」に含まれていない資質や特徴を無意識の内に排除してしまっているのではないかと思う。
しかし、後慣習的段階に関しては、「この段階の人はこのように思考・行動する」と確定的に言えることなど微々たるものであろうし、そのように拙速に決めつけることで、人間の可能性を恣意的に狭めてしまうことになってしまうのではないか……

非常に皮肉なことに、もし「インテグラル」(Teal)的であることについて真剣に学ぼうとするのであれば、そうした「言葉」を用いずに――また、そうしたことに関して変に勉強をして自己を雁字搦めにしてしまうことなく――今日の現実と厳然と対峙している――そして、そうした対峙を通して得られた真実を抑制することなく表現している――人を探し出す必要があるのである。

 

発達段階の流動性について

しばらくまえにLectica, Incの講義を受けていたときに、講師の発達心理学者が非常に興味深いことを説明していた。
曰く……

ある時点に於いて、高次の発達段階の特徴として位置づけられていた特性の中には、その後、さらなる調査や研究が進む中でそれよりも低い段階の特徴として再認識されることがある。

この指摘を聞いたとき、個人的にはいろいろな疑問が氷解する感覚に襲われたものである。
とりわけ、高次の後慣習的段階に関しては、基本的には、そのサンプル数は少なく――正にそうであるからこそ「後慣習的段階」と言われるのである――その特性に関しては常に憶測がつきまとうものである。
また、当初は非常に稀有のものとして位置づけられていた特性も、時代の流れの中で社会が文化的に成熟し、その発想や思考がある程度理解されるようになると、一般的に発揮可能な能力としてひろく共有されるようになるものである。
それまではその稀少性ゆえに高次の特性として認識されていた能力が、それがある程度ひろく習得されてみると、実はそれほど「高次」の能力ではないことが明らかになるということがあるのである。
こうした事情のために――これは今回10年振りに過去の著書を改稿しながら実感したことでもあるが――一昔前には「稀有」の能力として紹介したものを「一般的」なものとして格下げして紹介するということがたまにあるのである。
そのひとつが、「成人発達理論」で「Green」といわれる段階である。
これは、一般的には複眼的な視座を獲得する段階として紹介されるが(Susanne Cook-Greuterはこの段階を「Relativist」とよんでいる)、そこでは、自己の思考や発想を支えている枠組を対象化して、その「構築性」や「虚構性」に気づくことができるようになる。
しかし、こうした発想そのものは、いわゆる「多様性尊重」の大義の下、ひろく奨励されるようになり、半ば常識的な能力として認識されはじめている。
それは、そのひとつまえの段階である「合理性段階」(Orange)を構造的に凌駕する段階というよりは、むしろ、それは僅か半歩超えたところに発現する移行的な段階として位置づけられる方が相応しいと思うのである。
その意味では、高次の発達段階というものは、それが発現してしばらく時間が経過して、その思考や発想や洞察がある程度翻訳・紹介されたあときに、明確に定義できるものになるという特性があるのではないだろうか……。

こうしたことを考慮すると、合理性段階以上の諸段階に関して過剰に断定的なことを言うことには慎重である必要があると思う。
たとえば、インテグラル・コミュニティに於いては、いわゆる「Green」を巡る「Mean Green Meme」論争があったが、それなどは、Greenといわれる「段階」の特性を過剰に決めつけてしまうものであったといえるだろう。
そのために、インテグラル・コミュニティの関係者は、今日に至るまで、Green以降の段階を随分と歪曲して理解しているように思う(そういう自分自身もそうで、このあたりの問題に関して意識的に再検討するようになったのは、ここ数年間のことで、Lectica, Incの長期的な講座と測定を受けて、専門のセラピストと対話をできたゆえである)。
また、こうしたことを踏まえると、われわれはあらためて「理解している」と思っている諸々の段階に関して慎重に再検証しておくべきだろうと思うのである。
先日、あるところで耳にした情報では、悪名高いBill & Melinda Gates Foundationも発達理論に興味を示しているということなので、こうした理論がイデオロギーとして悪用されないためにも、多くの方々が目効きになっておくことは非常に重要である。
特に、こうした理論が容易に優生学的に解釈され悪用されてしまうことを鑑みれば、尚更のことである。

 

ひとりひとりの心に向けて奏でられる音楽

 

先日、遠山 一行の著作集をパラパラと捲っていたのだが、非常に心に響く箇所があったので、メモしておきたい。
著者は、海外の有名指揮者の来日時の演奏会を聴いて、全く心に響かなかったと述べているのだが、その理由として、演奏が「マス」に対して奏でられていて、そこにいるひとりひとりに向けて奏でられるものではないと感じたからと説明している。
思うに、これは、その演奏が大会場に於いてそこに集まった聴衆に向けて「スペクタクル」として奏でられたものであることが明瞭に見えてしまい、寒々とした気持ちに襲われたということなのだろう。
音楽は作曲者という一人の人間の心から溢れでたものであるという意味に於いては、本質的に非常にプライベートなものであるが、演奏家は、そのことを忘れて、壮麗な大音響の展覧物にもしてしまえる。
もちろん、そういう演奏は娯楽としてはそれなりにたのしいものではあるが、今日、これほどまでにオーケストラの技量が高まると、そうした絢爛豪華な音楽がひどくありふれた演奏に聞こえてしまうのも事実である。
そのときにはそれなりにたのしいが、翌日には忘れてしまうような演奏である。
遠山氏が求めているのは――そして、多くの聴衆が求めているのは――そういう演奏ではなく、そこに耳を澄まして聴いているひとりひとりの心に語り掛けてくれる演奏である。
それは、誰に消費されても必ず満足を保証するようなものではなく、いわば不特定多数に向けた音楽ではなく、その空間を共有するひとりひとりに向けた奏でられる表現者の心情に裏付けられた音楽である。
大量消費の時代に於いては、そういう音楽はもはや望めなくなっていると遠山氏は述べているが、それでも、そういう演奏は――非常に稀ではあるが――存在するし、また、聴衆はそういう演奏を求めつづけるように思う。
端的に言えば、その日にその音楽を演奏する必然性を演奏家が心から実感していることを感じさせる演奏ということになるだろう。
そうした演奏と出逢うとき、われわれ聴衆は、その演奏家がその日にその舞台の上でひとりの人間として根源的な選択をして演奏をしてくれていることを直感する。
そして、そこに感動が生まれるのである。
もちろん、必ずしも全員ではないだろうが、聴衆は、その日にあえて会場に足を運び、そこで人生の貴重な時間を過ごす選択をしている。
演奏家がそのことに対する基本的な認識と尊重を欠いてしまえば、その音楽は瞬時に陳腐化するのである。

 

「大きな物語」の復権に対して警戒すること(II)

もちろん、こうした違和感は、部分的には、そうした解説をしている人々の性格に対するものである可能性もある。
解説そのものが、それを呈示している人々の性格を不可避的に反映せざるをえないからである。
たとえば、インテグラル・コミュニティに関わる人達にはいくつかの特徴があるが、そのひとつは間違いなく「大きな物語」に対する「執着」であるといえる。
1995年のSex, Ecology, Spiritualityの刊行後、それに寄せられた諸々の批判に対して、ウィルバーは非常に防衛的になり、それらの批判者に対して「Mean Green Meme」というラベル付けをして攻撃的に逆批判をしたことは記憶に新しい。
そうした反応の中にも、ケン・ウィルバーという思想家を――そして、その思想を基盤に形成されている共同体を――特徴づけている心性が露見していると思う。
もちろん、こうした愚かしい「ラベル付け合戦」がいつまでも続くわけでもなく、ウィルバーに続く第2世代はそうしたものに殆ど関心を示さなくなっているが、それでも、Integral Instituteの発足後、10年近くにわたり続いたこの一連の騒動の中で、関係者の思考がイデオロギー化して、冷静な探求が停滞してしまったのは紛れもない事実だと思う。
実際、そのあたりの「リハビリテイション」が漸く進んできたのは、この5年程のことなのではないだろうか……
そこではとりわけ発達心理学者の(Zachary Stein)等の貢献が大きいと思うが、発達というものを善に向かうプロセスとして規定する発想(growth-to-goodness assumptions)(http://www.zakstein.org/human-development-1-higher-levels-not-always-better-sorry-everyone/)に対して批判のまなざしを投げ掛ける意見が発せられるようになったことは、非常に大きなことだと思う。
こうした視点が欠けていると、人間とは発達すべき存在として無条件に見做されてしまい、「発達」することが全ての人に義務づけられてしまうことになる。
即ち、その義務に従わない――あるいは、従えない――人に対して「制裁」がくわえられることを「善」として受け容れてしまう空気が醸成されてしまうのである。
そうした発想が優生学的な発想をもたらすのは半ば不可避的であろう。
また、より発達したとされる人々の「物語」に人々を従属させることを「善」とする発想が強要されてしまうのである。
特に、先述のように、そうした物語を編みだしている人々が、そうした物語が虚構であることを冷静に自己批判する精神を有していなければ、そこには途轍もない悲劇がもたらされることになる。
ウィルバーに対する批判のひとつは、それが実質的に大きな物語を安易に復権することで、その支配の下に世界を従属させていく流れを生み出すのではないかというものである。
個人的には、少なくともウィルバーの思想・理論そのものに関しては、必ずしもそうした批判はあたらないと思う。
しかし、同時に、意図的にポップ化された後のインテグラル理論に関しては、そうした批判はそれなりに的を射たものであると思っている。
たとえば、これは先日のウエブ・セミナーに於いてもSusanne Cook-Greuterにより指摘されていたが、インテグラル理論に精通したコンサルタントが、途上国を訪問して、「発達の法則」なるものを示して、それにもとづいて共同体の「開発」に従事するように教授するその姿勢はあまりにも暴力的である。
そのことにあまりにも無自覚であることは、グロテスクであるとさえいえる。
「成長」や「発達」という夢を見て、その実現に熱心に貢献しようとするそのあまりに素朴に楽観的な姿勢が、こうした無自覚の暴力を肯定してしまうのである。
そして、少なくとも、ポップ化された後のインテグラル・コミュニティに於いては、こうした問題意識は非常に希薄である(ウィルバーの著書の中で指摘されているそうした問題意識が一貫して後退させられている)。
しかし、もし「Teal」といわれる発達段階の認知能力そのものが自己の「物語」に安易に呪縛されてしまうのであるとすれば――特に「Teal」という概念がひろく流通しはじめている今だからこそ――この問題に対して非常に意識的なる必要がある。
人間は「誰か」により妄想された物語や構想にもとづいて「成長」させられたり「発達」させられたりする存在ではないというシンプルなことを思い出す必要があるのであるのである。

 

「大きな物語」の復権に対して警戒すること

先日参加した発達心理学者のSusanne Cook-Greuterによるウエブ・セミナーでは、先ず前慣習的段階〜慣習的段階〜後慣習的段階を概観する講義があったのだが、それを聞いていて、あらためて「統合的段階」(Teal段階に相当)が――少なくとも彼女の理論によれば――自身が構築した「メタ・ナレイティヴ」に思いの外に絡めとられやすいことを実感した。
「統合的段階」に到達すると、所与の物語を脱構築したところに生じる「空虚」を必死に満たそうとするかのように、物語を構築することに腐心するようになると言っているようにも思える。
教科書的には、これは「脱構築的発想」→「再構築的発想」という「発達」のプロセスとして描かれるが、果たしてそれが真に「発達」といえるのかということについては、少し慎重に考える必要があるのではないだろうか……
人間は物語に依存せざるをえない生き物ではあるが、そうした自らの性と意識的に対峙できるようになることが、高い内省力を発揮するとされる後慣習的段階の特徴であるはずである。
統合的段階に於いて構築される物語がたとえ非常に包括的な性格を持つことになるとしても、もし物語を構築する行為そのものが内包する「虚構性」に対する意識が希薄であれば、それは半ば退行的な営みに堕してしまうのではないだろうか……
慣習的段階に於いて、われわれは自らの生きる社会や時代にひろく流通する「物語」に呪縛されることになるが、後慣習的段階はそうした物語を対象化し脱構築することになる。
しかし、今日の説明を聞くと、後慣習的段階の第2段階といえる「統合的段階」に到達すると、そうして獲得した自由を放棄するかのように、再び物語を構築することに腐心するようになるとされる。
そうした説明を聞くと、そうした在り方が果たしてより成熟した状態といえるのかという疑念が沸いてしまうのである。
また、そうした構築作業にとりくむときに、人は意外と無防備に社会に流通する「大きな物語」に魅惑され、それを自己の物語として採用してしまう。
同時代に流通する物語に対して心理的な距離をとることができていると言いながらも、実際には意外とそれと同一化してしまう可能性があるのだ。
特に、このところ、そうした素材としておあつらえむきの魅力的な「大きな物語」があちこちに用意されはじめている(また、そうした物語がプロパガンダとして意図的に流されてはじめてもいる)。
そうした状況に於いては、物語の構築に腐心する統合的段階(Teal)は、その優れた知性を駆使して、単にありきたりの物語をより強固に社会に流通させる役割を果たすことになってしまうのではないかと思うのである。
実際、たとえばアメリカのインテグラル・コミュニティの「広報機関」といえる https://www.dailyevolver.com/ の発信などは、完全にそうした罠に陥っているように思う。
こうしたところにも、今日「インテグラル・ムーヴメント」が抱える問題が顕れているように思う。
Susanne Cook-Greuterによると、「物語」の本質的な虚構性を認識するのは、次の構築性認識段階(Construct-Aware stage)(Turquoise段階に相当)に於いてということだが、少なくともその萌芽は、いわゆる「脱構築的」な思考能力を発揮しはじめるGreen段階で発露しはじめるはずである。
それを考えると、いわゆる「Teal」といわれる段階の物語に対する執着振りは少々釈然としない。
また、もしこうした特徴が「Teal」の本質的な特徴であるとすれば、われわれは、こうした概念がひろく共有され「大きな物語」が「復権」していく中で、それが暴力的なものとならないように、そうとう警戒していく必要があると思う。

 

「garbage in, garbage out」

今日は、昔、数年の間就いて発達理論と測定法に関して勉強させていただいた発達心理学者のSusanne Cook-Greuterとその同僚によるウエブ・セミナーに参加した。
駆出しの頃に基礎的なトレイニングを受けた土地勘のある領域ではあるが、それを専門にしている研究者の話を聞くと、いろいろなあたらしい発見がある。
その後、他の発達理論にも触れる中で様々な異質の発想や洞察をあたえられ、全体を俯瞰的に眺めることも少しはできるようになったと思うが、こうした講義を聞きながら、あらためて非常に重要だと思うのは、発達理論といわれるものが内包している盲点に注意をするということだ。
実際、優れた研究者と会話をすると、先ずそのことが明確に指摘される。
また、それにくわえて、それをどのように補えば克服できるのかということに関しても言及される。
実際、今日も発表者はこうしたことを繰り返し指摘していた。
たとえば、思想家のケン・ウィルバーが「AQAL」という概念で指摘するように、発達という概念は人間をとらえるためのひとつのレンズに過ぎない。
その原因を補完するためには、「Quadrants」や「Type」や「States」や「Lines」という概念が必要となるのである。
ところで、個人的には、ウィルバー程壮大な発想をしなくても、先ずは非常にシンプルなことを心懸けるだけで、この問題に効果的に対処できるようになるのではないかと考えている。
そのヒントとなるのが、「garbage in, garbage out」という言葉だ。
翻訳すれば、「どれほど高い思考や認知の能力を有していても、そこで処理をする情報が質の低いものであれば、全ては無駄に終わる」ということだ。
即ち、「高い」情報処理能力を獲得することも重要だが、そうした能力を適用するに価する質の高い情報に触れるように気をつける必要があるのだ。
この言葉はLectica, Inc.のTheo Dawsonの講義の中で出逢い、ハッとさせられた言葉なのだが、あらためて実に示唆に富む言葉だと思う。
もう少し噛み砕いて言えば、こんな風に説明できると思う。
厨房にどんなに素晴らしい調理器具を備えても、食材の質が悪ければ、あまり意味は無い。われわれはそれほど深く考えずに近所の店で食材を購入しているが、果たして流通に乗る食材が真に良質な物であるのか、また、そこに乗らない食材の中にさらに素晴らしいものがあるのでは……とあらためて考えようとはしない。発達理論というのは基本的には厨房の調理器具を整えることに注目をしてしまうが、それと同等にそこで調理される食材の質に注意をするよう気をつける必要があるのである。
「garbage in, garbage out」という言葉が指し示すのは、そういう問題意識なのだと思う。
Dynamic Skill Theoryでは、「perspective taking」と「perspective seeking」を峻別して、他者の視点を理解するために実際に問いかけをすることの重要性を強調するが、こうした発想が、生情報の収集に関しても言えるのではないだろうか……。
特に、現代社会に於いて「優秀」といわれる人達は、長年の教育を通じて、外部の「指示」の下に自己の意識や関心を向けるように条件付けされている(「この文献を読みなさない」「あの文献を読みなさい」「この文献は素晴らしいよ」「あの文献は駄目だよ」)。
何を信頼に足る情報としてとらえるのか、また、何は信頼できないのかということに関する判断を実質的に外注することに慣れているので、真に自身の責任に於いて情報を探すということができなくなっているのである。
また、最悪の場合、そのようにして外部の権威により「承認」された情報源の外に注目しなければならない情報が存在していたとしても、その存在(可能性)に気づけないばかりか、そうしたベクトルの好奇心を抑圧してしまうことさえありえるのだ。
想像するに、現代に於いては、「優秀」な人ほど、こうした条件付けをされているように思う。
そのために、実はあたえられた「食材」の質が低劣なものであっても、それにしかアクセスできないために、他により良質なものがあることに気づけなくなっているのである(「認識しておくべき情報は基本的に認識できていると思う」)。
その意味では、発達理論の効果的な活用法について検討するときには、こうした課題を克服するための具体的な実践を組み込む必要があると思う。
今、自分自身がその存在さえ意識することができていない未知の領域があるということを念頭に置いて探求をする習慣を確立するための実践が必要となるのだ。