<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
新文芸座の熊井啓監督作品特集

池袋の新文芸座で熊井 啓監督作品を特集していたので、日程を調整して6作品を観賞してきた。

個人的には、熊井監督の社会派としての力量が発揮された「帝銀事件」(1964)・「日本列島」(1965)・「謀殺 下山事件」(1981)に鮮烈な印象をあたえられた(今回、他に鑑賞したのは、「地の群れ」(1970年)・「深い河」(1995年)・「愛する」(1997年))。

端的に言えば、これらの作品は、日本が実質的に合衆国の支配下にあることを告発する作品といえるが、こうした視点を商業映画が持ち得た時代が存在したことが新鮮であったし、また、本質的には何も状況が変わっていないにもかかわらず、こうした視点で社会を視ることができなくなってしまった現代の作家と聴衆の鈍感と怠慢を突きつけられる想いだった。

特に「日本列島」では、CIAが謀略活動の資金源として世界規模の麻薬取引に関与していることが描かれるが、こうしたことが調査報道で本格的に暴露されるようになるのは、それから数十年後のことである(例:Gary WebbThe Dark Alliance)。

熊井監督の何という先見の明であろうか……

近年では、日本語でも比較的にメインストリームに近いところで、たとえば矢部 宏治氏等の調査報道の関係者により、隠然と維持される合衆国による日本の支配体制に関する情報を発信されるようになっているが、これらの作品が制作された時代とくらべて、そうした体制は表面的には認識しにくいものに変わっているために、大衆もこうした問題にたいする関心を失いがちで、今日においては、たぶん熊井監督のようなアプローチは商業的には成功しないだろう。

こうした社会問題をとりあつかった作品を「たのしむ」ことができるためには、それなりの基礎知識が必要だろうし、それ以上に社会の支配構造というものがどのように機能するのかということについて、日常的にある程度目にしていないと、現実感を伴って作品を理解することができないだろう。

情報革命の恩恵を受けて、今日、情報はふんだんに流通するようになっているが、それを受容する側にある一般の人々は、それを現実と地続きのものとして理解するだけの経験も感覚も喪失してしまっているのである。

今日、「社会派」が直面する困難の一端はここにあるといえる。

いずれにしても、こうした問題にたいする無関心というのは、餌付けされているエリートと呼ばれる層ほど顕著で、熊井監督の作品の中でも彼等が自己の立場や責任に「殉じる」ことで、平気で同胞を裏切る様子が描かれる。

Harvard Graduate School of Educationの発達心理学者・Zachary Steinは、「今日の教育の最大の問題は、正に高等教育を受けた人々が――即ち、エリートとして社会の中で中心的な役割を担う人々が――社会的な課題や問題にたいして悉く誤った判断や対処をしているところにある」(即ち、現代社会の中でこれらの人々が真に機能することができるように、必要な教育を提供できていないということ)と喝破しているが、こうした作品を観ても、そうした問題がそのまま当てはまることを痛感させられる( http://www.zakstein.org/mediations-during-an-educational-crisis/ )。

 

尚、「深い河」であるが、約10数年振りに観たのだが(前回はサン・フランシスコのVogue Theaterで観た)、少し時間が経つと、自分が感動するところが 随分と違うことに気づかされる。

今回は秋吉 久美子の演技にとりわけ感動した。そして、また、この登場人物と奥田 瑛二が演じる大津という登場人物の間に芽生える不思議な「愛」の姿に非常に興味を抱かされた。

大津の生き方は、世界を裏側からみつめ、あらゆる価値観を逆転させたところ成立する自由さと真摯さにもとづいたものだといえるが、そこに密かな憧れを抱く主人公の姿が実に「素直」で、とても魅かれるのだ。

同時上映の「愛する」は、この監督の不器用さが悪いかたちで出た作品で、正直なところ観るのが辛いところがある。

主人公を演じる酒井 美紀の演技も稚拙で、画面を眺めていると気恥ずかしくなってくる。

また、あからさまにプロパガンダ的な要素もあり、これは忘れ去られる運命にある作品だと思う。

著書紹介 : 加藤 洋平著 『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』

著書紹介

 

加藤 洋平著

『成人発達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』

(日本能率協会マネジメントセンター)

 

鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン代表

 

現在、オランダのフローニンゲン大学で複雑性科学と発達科学を架橋する研究に従事している加藤 洋平さんが、非常に興味深い著書を出版された。今回の著作では、加藤さんはHarvard Graduate School of Educationの研究者として活躍したカート・フィッシャー(Kurt Fischer)のダイナミック・スキル理論(dynamic skill theory)の概要を一般の読者に向けて平易な言葉で紹介している。日本では、まだほとんど認知されていない理論であるが、既に合衆国では研究者と実践者の共同作業をとおして優れた研究成果が生み出されはじめている。加藤さんは、そうした最新の成果の要点を、内容のレベルを落とすことなく、幅ひろい読者層に向けて紹介している。発達という現象に関心をいだく世の人々にたいする真に貴重な貢献といえるだろう。

さて、この理論は、同じHarvard Graduate School of Educationの発達心理学者ロバード・キーガン(Robert Kegan)の構成主義的発達心理学(constructive developmental psychology)の成果を踏まえながら、さらにその限界を批判的にのりこえ、人間の能力が発揮される際に不可避的にあらわれることになる変動性と文脈依存性に関してきめ細かに言及しようとするものである。その意味では、日々の実務・実践の領域においてわれわれが経験することになる諸現象の複雑性を理解し、また、多様な課題に対処していくうえで、キーガンの理論以上に有用性の高いものであるといえるだろう。

本書で紹介されるダイナミック・スキル理論の特徴を簡潔にまとめると、人間の発達を「変動性」「文脈依存性」「発達の網」という3つのアイデアを中心概念として位置づけてとらえようとするものであるといえる。

また、そこには、たとえばロバード・キーガンが「意味構築構造」(meaning making structure)という言葉で示すような個人の「意識」や「人格」の重心といえる構造や段階が存在するのでなく、そのときの課題や状況に応じて異なる能力(「スキル」)が異なるレベルで発揮されるに過ぎないという動的な――そして、ある意味では、あまりにも皮相にも思える――発想が息づいている。その意味では、これまでにロバード・キーガンやケン・ウィルバーの書籍をとおして発達理論に触れてきた読者には、人間の発達というものが、根本的に異なる発想にもとづいてとらえられているので、大きな発想の転換が求められるところもあるだろう。

今後、これらの異なる「思想」に立脚した理論間の対話を心待ちにしたいところであるが、ここでは簡単に上記のダイナミック・スキル理論の中心概念について、少し解説してみたい。

 

変動性

 

変動性とは、人間の能力というものが、常に一定のレベルで発揮されるのではなく、さまざまな条件の影響のもと、異なるレベルで発揮されるものであることを示す概念である。

たとえば、これまでにスポーツにとりくんだ経験のあるひとであれば、人間のパフォーマンスというものが常に上下動していることを経験的に認識している。昨日できたことが今日はできないというようなことは、日常茶飯事である。また、ときには、同じ日の中でも、練習相手や練習環境が変わるだけで、パフォーマンスが大きく変化することもある。

このように、人間の能力とは――少なくとも短期的には――激しく変動をしているものなのである。そのことを軽視・無視して、単純に人間の発達というものをひとつひとつ段階を着実に昇っていくプロセスであるととらえるのは、あまりにも単調な人間観を奨励することにつながるだけでなく、実際の能力開発の現場においては、関係者の認識を歪ませ、その行動を倒錯させることになるだろう(たとえば、パフォーマンスの停滞を発達の過程上の自然な状態のとしてとらえるのではなく、本人の「遣る気」の欠如として解釈することで、指導者が無用な叱責をしてしまうことになる)。

もちろん、「重心」という概念にも、こうした上下動の存在を許容する余地が残されているが、実際には、そうした上下動は例外的な現象として片付けられてしまうため、変動性の中に発達の重要な鍵が隠されていることが蔑ろにされてしまうことになる。

たとえば、長い目で眺めると、短期的な「停滞」や「退行」が能力の開発のプロセスにおいては、重要な役割を担うにもかかわらず――例:そうした状態に転落したところから、あらためて訓練を重ねて、状態を高めることで、能力が強化され安定的に発揮することが可能となる――重心という概念に縛られてしまうと、そうしたイベントを発達を促進する契機として掌握し損なってしまうのである。

そうした意味でも、この変動性を中心概念のひとつとして位置づけて、人間の発達について探求しようとするダイナミック・スキル理論の発想は、しばしば「否定的」なものとして解釈される現象を「肯定的」なものとして再認識するための枠組を提供してくれるのである。

 

文脈依存性

 

上記のように、人間の能力は常に変動しているが、それにとりわけ大きな影響を及ぼすのが、文脈(context)である。文脈とは、その能力を発揮するときに、われわれをとりまいている空間や状況と理解することができるだろう。

たとえば、スポーツ選手であれば、天候や標高、道具や設備、あるいは、監督やコーチ等の関係者の思想や態度をはじめとする、競技に関わる諸条件にパフォーマンスが影響されることを経験していることだろう。集団競技であれば、仲間の状態の微妙な変化によりチームとしてのパフォーマンスが上下動することを経験しているし、また、指導者の指示や指導が的確であるかどうかということが、チームの士気や連携に決定的な影響をもたらしえることを認識している。あるいは、企業人であれば、同じ交渉術を駆使していても、その対話が日本語空間で行われるのか、英語空間で行われるのかにより、パフォーマンスが非常に異なるものになることは、日常的に経験しているはずである。

このように、われわれの能力は常に何等かの文脈の中で発揮されるものであり、その影響を受けて、高いレベルで発揮される(optimal level)こともあれば、低いレベルで発揮される(functional level)こともある。

このため、能力開発においては、文脈を意識的に変えることが非常に重要になる。常に同じ文脈の中で訓練をするだけでなく、たとえば、練習相手を変えてみたり、練習環境を変えてみたり、あるいは、課題の難易度を変えてみたりして、異なる刺激や負荷を自身に課してみることで、多様な文脈に対応できる柔軟、且つ、堅牢な能力の獲得が可能となるのである。

実際、われわれが生きる世界は、「道場」や「教室」と異なり、恒常的に大きく変化している。とりわけ、そうした変化の速度そのものが増しているといわれる この時代においては、われわれの能力は急速に陳腐化する可能性にさらされている。当然のことながら、こうした時代的な条件のもとにおいては、われわれは自己の能力を、固定的な文脈を前提としたものではなく、恒常的に変化する文脈を想定して鍛錬にとりくむ必要が生まれる。即ち、能力開発にとりくむにあたり、われわれは常に文脈の変動というものを現実の本質にあるものとしてとらえて、鍛錬をしていく必要があるのである。そのことを忘れた瞬間、われわれの実践は固定的な世界という虚構を前提とした誤ったものに堕していくことになる。

 

「発達の網」

 

周知のように、「多重知性」(Multiple Intelligences)という言葉がひろく認知されるようになったのは、ハワード・ガードナー(Howard Gardner)の功績によるところが大きい。人間には多様な知性があり、それらはそれぞれ自律的に発達・発揮されるものであるという主張は、特定の知性――及び、それを測定する尺度――にもとづいて人間の成熟度を把握しようとする発想の危険性に警鐘を鳴らした(例:IQを絶対化する発想の危険性)。

しかし、多重知性の研究は、人間が発揮する知性が実に多様にあることを示したものの、それらの知性が相互にどのような関係にあるのかということに関しては――少なくとも筆者の認識している限りでは――それほど突っ込んだ研究はしていない。

巷では、「クロス・トレイニング」という言葉に象徴されるように、複数の異なる領域の訓練に並行的にとりくむことを重視しようとする機運は着実に高まっているが、実際に、領域間にどのような相補的な関係性が成立しているのかということに関する研究はまだそれほど存在していないようである。

ダイナミック・スキル理論の真に重要な貢献のひとつは、正にここにあるといえると思う。即ち、人間の発達というものを本質的に多様な能力が相互に絡みあいながら展開していくプロセスとしてとらえることを可能としているのである。発達とは、自律的に存在する「線」(line)として想起されるべきものではなく、あたかも蜘蛛の巣のように四方八方に伸びる糸が交差して織り上げられる「網」(web)として把握されるべきものなのである。

実際、われわれが日常生活の中で課題に対応するとき、ひとつの能力を発揮して対応するようなことはほとんどない。

たとえば、組織人として、企画に関する社内関係者の承認を得ようとするときに、われわれには、その企画に関係する関係者の意見や要望を想像する能力(視点取得能力)が求められるし、また、その企画の意義や価値、あるいは、それが組織の戦略と整合性をそなえたものであることについて説得力のある説明をする能力(合理的な思考力と主張力)が求められるし、さらには、それが現存資源で現実的に実現できるものであることを的確に計算する能力(計画能力)が求められる。もちろん、実際に関係者と対話をするときに、彼等の情緒的な側面にも配慮をして的確に関係性を築くことも必要とされる(共感力と傾聴力)。くわえて、あらためて言うまでもないが、そもそも説得力のある提案をとりまとめるためには、関連領域に関する豊富な知識や洞察が必要であるし、それらを素材として活用して物語性と整合性のある物語を構築できる必要がある(関連領域に関して土地勘がないときには、たとえどれほど優れた共感力や傾聴力や主張力があっても、責任を果たすことができない)。

このように、実際の日常のほとんどの活動において、われわれは実に多様な能力を統合的に活用しているのである。

こうしたことを考慮すると、われわれの能力とは常に具体的な文脈の中であたえられる具体的な課題にたいして発揮されるのであり、そうした文脈から切り離して人間の能力のひとつひとつについて云々しても、あまり意味はないといえるだろう。むしろ、われわれが必要としているのは、世界に存在する無数の文脈の中で、それぞれの要求に応じて、複数の能力を臨機応変に組み合わせて発揮する人間の動的(dynamic)な生態そのものを解明することなのである。そして、ダイナミック・スキル理論の意図するのは、正にそこにあるのである。

 

 

その革新的な価値にもかかわらず、日本では、これまでダイナミック・スキル理論に関してほとんど紹介されることがなかった。そうした中で、今回、加藤 洋平氏による入門書が出版されたことには、非常に大きな価値がある。また、本書は、単なる入門書ではなく、中級者〜上級者にも読み堪えのある充実した内容になっている。とりわけ、営利・非営利を問わず組織の現場において成人の成長支援にとりくんでいる方々には、ダイナミック・スキル理論の知見は、重要な疑問を解くための貴重な示唆と洞察をもたらしてくれるはずである。

また、各章には、ダイナミック・スキル理論の知見を実際の実践や訓練に活かすための方法が豊富に紹介されている。読者の方々には、それらを日々の現場で活用してみることで、ダイナミック・スキル理論の可能性を御自身の手で確認していただきたいと思う。

雑感 - 『君の名は』・演奏会

先日、ようやく新海 誠監督の『君の名は』を観ることができた。

素直に感動した。そして、この作品がひとつの社会現象になったことに納得感を抱いた。
端的に言えば、作品は現代人の等身大の霊性(spirituality)を見事に描いていると思う。
自己の存在を意味づけるためのコスモロジーを示してくれているといえるだろう。
周知のように、現代社会においては、われわれの存在を根源的なかたちで意味づけてくれる社会的・文化的な資産が半ば完全に失われてしまっている。
たとえば、作品の中でも示されているように、主人公達の日常を占める活動(受験勉強や就職活動)は、われわれがこの世界に生まれてきたことに根源的なかたちで意義や価値をあたえてくれるものではない。
つまり、われわれの「魂」や「霊」といわれる領域に全く関係のない殺伐とした営みによって、われわれの日常は占められているのである。
そうした状況は、都会であれ、田舎であれ、ほとんど変わることはない(気を紛らわすために用意されている装置が異なるだけである)。
現代社会の特徴をあらわす言葉として、しばしば「閉塞感」という言葉が挙げられるが、その本質的なものとは、このように時空を超えた領域や文脈にたいして半ば完全に意識を閉ざしている現代社会の根源的な貧困に起因するものとはいえないだろうか……。
大多数の識者は、そうした閉塞感を「打破」するために、これまでよりもさらに懸命に日々の経済活動に邁進するように人々を鼓舞するが、それは、決してわれわれを救済してくれない表層的な領域に人々を駆り立てることでしかない。
もう少し懸命に努力をすれば、現代の不毛な世界は再び意味や意義を湛えたものに変貌するはずだ――そんな的外れの主張の暴力にわれわれは恒常的に曝されているのである。
アメリカの思想家・ケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、そうした発想を「フラットランド」(表層主義)と名付けて、「そうした倒錯した発想は、われわれに底の浅い水溜りに頭から飛び込むことを奨励している」と批判している。
そうした狂気に恒常的に囲まれていれば、精神の羅針盤に混乱を来すことになるのは当然のことだろう。
こうしたことを考えると、この作品が、あたかも清涼剤のように、われわれ現代人の精神の深層に働く羅針盤を回復させてくれるような感動と洞察をあたえてくれるものとして受容されたのは、自然なことだと思う。
こうした作品を観ると、あらためて、「ファンタジーは最高の社会批判となりえるのだ」というミヒャエル・エンデの言葉を思い出される。(6月21日)

 

 

ロンドンのRoyal College of Music(RCM)の在学生のオーケストラ・RCM Symphony Orchestraの演奏会に訪れた。
夕刻にCovent Gardenで遅い昼食を摂り、その後Tate Modernに立ち寄り、そこから地下鉄でSouth Kensingtonまで移動して、RCMに徒歩で向かった。
演奏されたのは、ドヴォルジャークの「チェロ協奏曲」とバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、そして、リゲティの「Lontano」である。

RCMは、有名なRoyal Albert Hallの目の前にある実にこぢんまりとした学校だが、錚々たる著名音楽家を輩出している(後で気づいたのだが、敬愛する作曲家・James Hornerも在学していた)。
会場のAmaryllis Fleming Concert Hallは、昔の体育館のようで、演奏会を開催するときには、床にパイプ椅子を並べて体裁を整えているような粗末な施設だが――ただし、天井に透明の反響板が設えてある――音響は豊かである(これにくらべると、日本の音楽大学の施設の充実していること!!)。
演奏の素晴しさもあり、冒頭のドヴォルジャークの協奏曲の演奏が開始されたときには、その弦の響きの美しさに思わず涙ぐんでしまった。
ただし、バルトークの作品のような大編成の作品には、会場が小さ過ぎて、音が飽和してしまい、どのような音楽なのか解らなくなってしまう。
くわえて、当日は、バルトークに関しては、金管が随分と荒れており、それもそのことに貢献していたようだ。
この日の白眉は、ドヴォルジャークのチェロ協奏曲であった。
もしかしたらこの作品を生で聴くのは初めてかもしれないが、あらためてこの作曲家の偉大さをおしえられた。
そして、この作品が古今東西のチェロ協奏曲の王者と言われることに納得した。
作品を貫くのは郷愁だが、それは、換言すれば、年齢を重ねて、自己がとりかえしのつかないものを抱えた存在であることを認識するときに生まれる後悔の念ともいえるだろう。
そして、作品をひときわ魅力的なものにしているのは、そうした想いを微笑みと共に超克していこうとする意志である。
それは、世界にたいする根源的な信頼とでもいえるものである。
RCM Symphony Orchestraの演奏は、こうした作品の魅力をあますところなく表現していた。
そして、こうしたことを、これから将来に向けて羽ばたいていこうとする若い青年演奏家達におしえてもらうというのも、なんとも不思議な感じである。
感謝である。(6月30日)

 

 

東京オペラシティで国立音楽大学の学生オーケストラによるメシアンの「トゥーランガリア交響曲」を聴いた

なにぶん帰国の翌日で時差呆けの状態なので体調的にキツかったのだが、こうしたときでないと、こういう作品に触れることもできないので――それほどひんぱんに演奏会でとりあげる作品ではない――心待ちにしていた。
演奏は実に素晴らしいものだった。
実に不思議な音楽である。
個人的には、あたかも鉱物の響きで構成された作品というような印象をあたえられる。
正直なところ、構成的に随分と冗長なところのある作品だと思うのだが、忍耐強く耳を傾けていると、不協和音がこの世の清濁併せ飲んだ美として心の中に鳴り響いてくる。
また、一聴するとひどく拙いように聞こえる旋律が深い叡智を蔵した旋律として響いてくる。

昨年の暮れより、音楽大学主催の演奏会に脚を運ぶようにしているのだが、在学生の演奏には独特の魅力がある。
たとえば、秋頃に聴いた東京藝術大学の演奏会などは、その直前にロンドンで聴いたサイモン・ラトル率いるロンドン交響楽団の演奏会より何倍もの感動をあたえられた。
それ以降、その理由についていろいろ思いを巡らせているのだが、ひとつには作品にたいする理解を深めようとする現在進行形のとりくみが自然と生み出すことになる開かれた謙虚さと誠実さのようなものが伝わってくるのだと思う。
くわえて、優れた指揮者・指導者の存在も大きいと思う。
この日の指揮は、準・メルクルが担当していたが、その非常に誠実な姿勢が舞台姿からも如実に伝わってくる。
舞台人としての活動だけでなく、教育者としてこうした人達が果たしている役割の価値は測り知れないものだと思う(7月3日)

 

 

東京芸術大学の奏楽堂で開催された「モーニング・コンサート」にはじめて行ってきた、ほぼ満席である。驚いた。

在学生をソリストに迎えて2曲の協奏曲が演奏された。
個人的には、久しぶりにブラームスのピアノ協奏曲第1番をじっくりと聴いて、ひどく感動した。
実はあまり得意な作曲家ではないのだが、特にこうした若い頃の瑞々しい作品は絶品だと思う。
とりわけ、第二楽章にみられるように、この作曲家の奏でる高貴な旋律には深く心が震える。
たしかに、強靭な打鍵の男性的な演奏もいいが、もしかしたら、この作品の魅力というのは、この演奏会の武岡 早紀さんの演奏のように、常人の等身大の演奏をとおして伝わるものなのかもしれない。
いずれにしても、このような作曲家の若い頃の魅力的な作品に触れると、ある意味では、音楽というのは若い頃だけに人間の内に生まれる感情を糧として成立する芸術なのではないかとさえ思えてくる。
往々にして、作曲家の人生後半の作品は、技巧的に優れてはいるが、ここに息づくような瑞々しさが失われるように思われるのだ。(7月6日)

 

加藤 洋平氏インタビュー

今回は、加藤さんが2017年6月に出版された『成人発 達理論による能力の成長:ダイナミックスキル理論の実践的活用法』(日本能率協会マネジメントセンター)の内容を中心にして、 現在の発達研究をとりまく状況について議論をしました。

 


今回の著作では、Harvard Graduate School of Educationの研究者として活躍したカート・フィッシャー(Kurt Fischer)のダイナミック・スキル理論(dynamic skill theory)の概要が一般の読者に向けて平易な言葉で紹介されています。この理論は、同じHarvard Graduate School of Educationの発達心理学者ロバード・キーガン(Robert Kegan)の構成主義的発達心理学(constructive developmental psychology)の成果を踏まえながら、人間の能力が発揮される際に不可避的にあらわれることになる変動性と文脈依存性に関してきめ細かに言及できるものです。
その意味では、フィッシャーの理論は、日々の実務・実践の領域においてわれわれが直面することになる複雑な現象を理解し、また、多様な課題に対処していくうえで、キーガンの理論以上に有用性の高いものであるといえるでしょう。
 現在、加藤さんは、オランダのフローニンゲン大学に在籍しながら、複雑性科学と発達科学を架橋する研究に従事しています。今回の対談では、著書の内容の紹介にくわえて、発達研究の最前線においてどのような研究活動が展開されているのかについて加藤さんに紹介していただいています。そのために会話の内容が部分的に専門的なものになっていますが、発達研究の現状に関して少し踏み込んだ情報を求めている方々には刺激をもたらしてくれるものとなっているのではないかと思います。

 

http://integraljapan.net/articles/kato/index.htm

 

加藤 洋平『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)

友人の加藤 洋平さんが新著『成人発達理論による能力の成長』(日本能率協会マネジメントセンター)を出版された。
献呈していただいたので、さっそく目を通してみた。
ここ数年のあいだ、Robert Keganの発達心理学が漸く日本で本格的に紹介され、成人期を対象にした心理的な発達に関して注目が集まりはじめたが、それほど時を経ずして、このようにKurt FischerのDynamic Skill Theoryに関して一般向の書籍が出版されたことは、実に素晴しいことである。
Kurt Fischerの研究は今日の発達科学の中でもとりわけ重要なものでありながら、日本語にほとんど資料が翻訳されていないこともあり、実質的に全く認知されていない。
また、WEB上には膨大な量の論文が公開されているが、内容的に難解なところがあり、高度の英語能力と心理学の基礎知識がないと、なかなか理解できないものである。
その意味でも、加藤さんが、こうして非常に平易な言葉遣いで、その重要な内容を紹介してくれる書籍を著わしてくれたことは、貴重な貢献である。
成人期の発達に関する研究の最新の成果に触れる機会が無い日本の一般の読者にとって、正にこうした精緻な研究が現在進行形で展開していることを知ることができることそのものが大きな喜びをもたらしてくれるだろうし、また、さらには、ここにある知識を基礎知識として共有すれば、成人期の発達に関して、これまでよりも論点を格段に整理して対話や探求ができるようになるだろう。
端的に言えば、成人期の発達に関して、社会的な議論をはじめるための必須の知見を提供してくれる書籍といえるだろう。
一読を御勧めしたい。

尚、内容に関する詳しい感想は後日あらためてまとめて、ここで御紹介したいと思う。また、近日中に加藤さんと書籍についてインタビューをさせていただく予定なので、それについても御期待いただきたい。

今日は、とりあえずこの素晴らしいしらせを共有したく筆をとった。

「現代音楽」と職人文化

先日、東京芸術大学の奏楽堂で「創造の杜」と題された現代音楽の演奏会が開催されたので、聴いてきた。
目当ては黛 敏郎の『曼荼羅交響曲』だったのだが、二人の在学生の作品もなかなかいい作品だった。
やはり現代音楽を聴くときには、「どのような音楽が飛び出してくるのだろう」という独得のワクワク感がある。
数週間前に同じ会場でシューマンの交響曲を聴いたのだが、そのときの退屈感とくらべると(もともとロマン派の作曲家にはそれほど惹かれないのだが、特にシューマンは苦手である)、同じ「クラシック音楽」といわれる音楽でも、体験の質が全く異なることに気づかされる。
当日 演奏された四作品の中で最もつまらなかったのは、皮肉なことに、大家と目される小鍛冶 邦隆氏の作品で――配布された資料の作曲者の意味不明な解説に象徴されるように――アカデミアという閉じた世界の中で「身内」に向けて語ることしかせずに長年月を過ごしてきた芸術家の成れの果てをみせつけられるような気がした。
二人の在学生に関しては共に才能を感じさせられたが、とりわけ、久保 哲朗氏の作品は、非常に演奏効果に富んでおり、ときに花園にいるような感覚に襲われた。

ただ、この演奏会を聴いて――そして、現代音楽之演奏会を聴いてしばしば思うことなのだが――ひとつだけ苦言を呈すとすれば、いわゆる現代音楽といわれる作品の語法が、作曲者はいろいろと工夫をこらしているのだろうが、どれも似通ったもので、非常に陳腐化しているという印象をあたえられるのも事実である。
また、いわゆる「大衆的」であることを意固地に拒絶しているために、逆に、そうした姿勢そのものがありきたりのものになっているように思うのである。
将来的な可能性を秘めた若い作曲家の作品と、「現代音楽」という閉じた世界の中に長く安住して完全に干からびてしまったベテラン作曲家の作品を並べて聴きながら、それらの若い作曲家達が後者と同じ道を辿らなければいいなあと――そして、そのためには、あまりに「現代音楽」の世界に安住することなく、そこから越境していく勇気をもってくるといいなあと――思ってしまった。

ちなみに、黛 敏郎の作品は、期待ほどではなかったが、それなりに愉しませてもらった(個人的には、この作曲家の「手癖」のようなものが散見されるので、気にはなる)。
響きが骨太で、作曲者がみつめている世界が非常に本質的(精神的)なものであることが明瞭に感得できる。
これは、芸術家としての問題意識の次元が高いとも、志が高いともいうことができると思う。
このことは、この日に演奏された他の作曲家の作品とくらべると非常にあきらかで、端的に言えば、彼等は音の細工師としての要素がつよく、感覚的な領域の向こうにあるものをどれくらい視ることができているのだろうという素朴な疑問が沸いてくる。
もちろん、それはそれで「芸術とは精神的なものでなければならない」という価値観の呪縛から解放されているとも言えるのだが――そして、そうした在り方を自由度が高いとも言う向きもあるのだろうが――そうした態度そのものが既に陳腐化しているように思うし、また、時代や社会の中で作曲者としての自己の役割について思いを巡らせたときに、果たしてそうした在り方に安住していいのだろうか? という疑問が沸かないのだろうかと素朴に思う。
換言すれば、音楽の世界においては、役割上 演奏者が常に聴衆に寄りそうことを求められるのにたいして、作曲者達は往々にして「技」をみがくことだけに意識を狭めてしまい、語りかけるべき他者の存在を見失ってしまうのではないかと危惧するのである。

こうした課題というのは、音楽界のみならず、いわゆる専門的な技術の鍛錬を軸にしている職人文化の構造的な課題なのだと思うが、演奏会で披露された作品を聴くかぎりでは、その解決の糸口はみえてこないというのが正直なところである。
固定された専門領域では驚異的な能力を発揮するが、その領域の「パラダイム」と距離をとり、発想していくということはできないというのは、非常に普遍的な問題だと思う。

発達がもたらしてくれるもの……(事例)

Harvard Graduate School of Educationの教育学者・発達心理学者のZak Steinが、学校制度の現在と将来に関して非常に内容豊かなインタビューをしている。

 

http://www.zakstein.org/the-future-of-education-a-fast-moving-podcast/

 

後慣習的段階の思考・発想というものがどのようなものであるのかということについて具体的に示すために、これは非常にいい事例である。
論者の思考を少し整理すると、「教育」というものはいかなるものであるべきなのかという本質的な問いを常に発しながら、同時に、それが、それぞれの時代の社会や産業の構造の中で本質と乖離したものに歪められていることにたいする痛烈な問題意識を抱き、同時代に胎動している変化の可能性と危険性を見据えようとしている。
時代をこえた普遍的なところに意識を向けながら、目の前にある現実を相対化して――また、それが現在進行形で変化の只中にあることを認識して――その構造を批判的に検討するのである。
今日の典型的な慣習的段階である合理性段階の論者であれば、「教育制度をどのように変革すれば、個人や社会の競争力を高めることができるか、そして、それにより、激化する国際競争の中で勝利を収めることができるか」というような物語の枠組を出ることはないだろう。
また、そうした論者の場合には、たとえ「変化」や「変革」という言葉を用いながらも、結局、あくまでの自己の時代を規定する価値観や世界観に呪縛されながら、将来を想定することになるので、Steinが示すように、「人間とは賃金を稼ぐことを義務づけられた存在である」という現代の前提条件そのものが崩れ得ることを踏まえて、将来を構想することはできない(“The issue here is what’s the human if the human’s not a wage laborer?”)。
くわえて、Steinは、教育というものが、社会の産業構造に従属する形態で構築されていることを明確に指摘したうえで、教育が内在させる課題や問題というものが、根本的には、そうした集合的な条件に起因していることを的確に診断する。
そして、きょういく改革というものが、そうした社会的・集合的な条件を批判的にとらえることなしには、実現しえないものであることを明らかにする。
即ち、それは、安易に「現実的」になることを拒絶して、問題の核心を見据えようとする非常に強靭な発想であるともいえるだろう。

 

第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス @ TOPPAN HALL

先日TOPPAN HALLで開催された「第5回国際音楽祭NIPPON マスタークラス」を観に行った。
講師は著名なチェリストのマリオ・ブルネロ(Mario Brunello)である。
桐朋学園大の3人の優秀な学生が、ひとり1時間程の持ち時間をあたえられ、舞台上でブルネロ氏のレッスンを受けるのだが、その指導内容はわたしのような音楽の門外漢にも非常に刺激的である。
もちろん、奏法等に関する技術的な領域の指導に関しては、ときに着いていけないところもあるのだが、少なくとも、演奏を技術的に正確に弾くことを主眼にした段階から、聴衆の存在を前提とした芸術的な表現に高めていくことに関する指導に関しては、音楽以外の領域にもあてはまる非常に普遍的な言葉が次々と発せられるので、非常に勉強になる。
3人の生徒さんはいずれも優秀な演奏家なのだが、ブルネロ氏は、彼等にたいして、一貫していわゆる「自己著述能力」(self-authorship)を獲得することの重要性を伝えようとしていたように思う。
たとえば、次のような言葉はとても印象的である。

「そういう演奏は学校では褒められるかもしれません。しかし、それは学校向けの演奏です。しかし、ここはこのように聴衆がいるコンサート・ホールですので、そういう演奏では通用しません。」

つまり、作品の本質的なものをたいせつにしながら、しかし、作品をとおしていかに自己を表現するのかという難題を突きつけているのである。
そして、それは、教師や学者に代表される外部の権威的存在に承認されるような「正しい」演奏をするのではなく、自己の感性をとおして――自己の内に蓄積してきたもの全てを投じて――作品を表現することを鼓舞である。
傍から見ていても、なかなか厳しいレッスンなのだが、それをとおして目の前の生徒達の音楽が変化していくのを眺めるのは、それだけで感動的である。
そして、そんな光景を眺めながら思っていたのは、自己の「声」を表現することを決意するということが、どれほど難しいことであるかということであり、そして、そのために、このようにして、それを日々実践している指導者的存在に触れることが実に重要なことであるかということである。
最終的には唯一無二の自己の声を発見することが求められるとしても、少なくとも最初の段階においては、こうした随伴者と一緒に橋を渡れることの価値は計り知れない。

また、ひとりの音楽愛好者として、今回のイベントをとおして訓えられたのは、演奏者の「造詣力」というものが、いかに緊密に自己の声を見出すことに関係しているのかということである。
たとえば、単に機械的に楽譜の休符を守るのでなく、それが前のセクションと次のセクションをつなぐ生きた静寂となるように、いかに間を取るのかということに関するブルネロ氏の指導に耳を傾けていると、演奏者が作品の構造――そして、全体の中でのそれぞれのセクションの意味や役割――をいかに洞察するかが、その演奏者の造詣力に直結していることを実感する。
そうした洞察が演奏者に作品を生きたものとして再現することを可能とするのである。

いずれにしても、どれほど教育制度が整えられていても、そこで指導にあたる者が、作品の陰に隠れて、生徒に正しく演奏することしか訓えていなければ、生徒は自己著述的な段階に至ることはできない。
また、いずれはそうした指導者の存在が邪魔になることになる。
生徒にとり、この発達上の橋を渡ることがいかに難しいことであるのか、そして、指導者にとり、そうした生徒の成長を支援することがいかに難しいことであるのかを実感させられるクラスであった。

 

備忘録として、当日のメモを記しておきたい。

 

課題曲:Beethoven: Cello Sonata No. 4 opus 102-1

・性格の異なる二つのセクションのあいだに存在する「間」(空白)をいかに演出(創造)するか?
・間とは、単に音を出さないでいることではなく、ひとつのセクションが完結して完全な静寂に収束する音楽の一部であり、また、それにつづく躍動的なセクションが爆発的に生まれるのを聴衆が息をこらして待つ濃密なところでもある。そうした聴衆の心理に意識を向けて演奏者は間を演出する必要がある。
・“There is no music here. Only power. No beauty” ベートーヴェンの音楽には、美しい旋律を奏でるの拒絶して、ただ原初的な音の塊そのものが鳴り響くところがある。そういうところでは、演奏者はいわゆる「音楽」を奏でることにたいする執着を捨てなければならない。また、そうしたところでは、ブルネロ氏は「余裕」をもって演奏することができない状態にあえて演奏者を追い込もうとしていたように思われる。最終的には、演奏者は自力で自己をそうした状態に追い込んでいけるようになる必要があるわけだが、真に作品の本質につきあうためには、ときとしてそうした状態に自己を高める必要があるのである。
・こうした水準で表現ができるためには「体」が重要であるように思われる。20歳という年齢は、実はまだまだ身体ができあがる過程にあるのではないかと思われる瞬間もあった。

 

課題曲:Gaspar Cassadó: Toccata in the Style of Frescobaldi
・「あなたはこの音楽を理解していない」
・楽譜を間違いのないように演奏できることに腐心しているようだが、それは作品の本質と関係のないところで優れているに過ぎない。
・聴衆と対話をしながら――聴衆をエンターテインしようとしながら――演奏ができているのか? そして、そのために必要とされるケレンを持とうとしているのか?
・即ち、それは作品を自分のものとするということである。そして、それを鍛錬することが演出力=造形力を鍛錬するということである。
・「それは学校用の演奏です。しかし、ここにはこうして聴衆の方々がいてくれるコンサート・ホールです。ここではそんな演奏は通用しません」

 

課題曲:Bach: Cello Suite No. 5 Sarabande and Gigue
・「無伴奏の作品を演奏するときには、演奏者はその伴奏を自己の意識の中で奏でるといいのではないか(わたしはそうしている)。そして、そこにはそれまでに自身が蓄積してきた経験や知識や教養の全てを投入する必要があります」

 

発達がもたらしてくれるもの……(4)

思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は、「インテグラル」(統合的)であるとは「政治的」であることだと発言している。
いろいろな解釈ができる発言であるが、個人的には次のようにとらえている。
即ち、後慣習的段階――ウィルバーは、ここで個人は統合的な発想ができるようになると述べて、この段階をインテグラル段階と形容している――に到達することで、われわれは、個人の意識というものが時代や社会の価値観や世界観に深く影響されるものであることを認識して、そうした影響が具体的にどのような集合的な機構や制度をとおして行使されているのかを批判的に探求しようとするようになる。そして、そこに何等かの不正義があるときには、積極的に問題提起をしようとする。
また、後慣習的段階においては、社会には、ある特定の世界観や価値観が信奉されることをとおして、自然とその利益を享受する者達とそうでない者達が生まれ、社会の機構や制度はしばしば前者の利益を保護・増幅するかたちで機能するものであるという厳然とした事実を認識するようになる。そして、そうした認識にもとづいて、同時代の中で排除・抑圧されている存在や視点に意識を向けて、そうした排除・抑圧がいかなるメカニズムやダイナミズムをとおして温存されているのかを探ろうとする。つまり、社会の主流の対話の中でとりあげられない事実や真実に目を向けて、それらを包含したものとしての全体性を把握しようとするのである。
こうした発想は、単に「右派」と「左派」や「保守」と「急進」をはじめとする対極の両方の意見に耳を傾けようとするだけでなく、そのどちらにも考慮されないこと――また、ときには、そうした対立軸があることで排除されてしまうこと――にも意識を向けようとする。
端的に言えば、慣習的段階における統合的思考が、一般的に――たとえば教科書や報道等において――対極なものとしてあたえられている立場や視点の両方を考慮・包含しようとするものであるのにたいして、後慣習的段階における統合的思考は、そもそもそうした対立構造そのものが――少なくとも潜在的には――何等かの真実や事実を排除・抑圧するものであることを察知して、そうした所与の思考・発想の枠組そのものを超克(脱構築&再構築)しようとするのである。
換言すれば、後慣習的段階の発想とは、既存の価値観や世界観――及び、それに付随する社会的な機構や制度――そのものを批判的・構造的に検証することをとおして、さらなる全体性を回復しようとするのである。
当然のことながら、それは既存の権力構造・支配構造にたいする辛辣な視点を伴うことになり、そうした意識に立脚した思考や行動は半ば不可避的に政治的な性格を帯びることになるのである。

このように、慣習的段階の発想が既存のゲームにおいて成功しようと策を練るのにたいして、後慣習的段階の発想は既存のゲームをゲームと看破して、必要であれば、それそのものに異議を唱えることになる。
真剣にゲームに興じている者には、そもそもそれがゲームであることに気づくことすらできず、全存在を賭して、そこで勝利を収めることに腐心することになる。他者がゲームの終了を告げる笛を鳴らしてくれるまでは、自力ではプレイを終えることすらできない。
後慣習的段階とは、はじめてみずからの意思でそうしたゲームから降りることができる段階であるとさえいえるのである。

今日の社会状況は、近年の諸々の論考の中でケン・ウィルバーも指摘しているように、既存の価値観や世界観――そして、それに立脚した支配構造――が徐々にその「正当性」(legitimacy)を失いはじめている時代であるといえる。
その背景には、いうまでもなく、インターネットをとおして自由に情報が流通するようになり、これまでに排除されていた情報に人々が比較的に簡単にアクセスできるようになったという事情がある。
日本においては、「記者クラブをはじめとする中央管理機関の指示を受けて、「大本営発表」を半ば機械的に発信することで成立していた報道体制にたいする信頼が喪失していることは、もはやあきらであろう(実はこうした状況は、欧米でもそれほど変わらないことは、たとえばNicholas SchouがSpooked: How the CIA Manipulates the Media and Hoodwinks Hollywoodの中で克明に論じている)。
また、たとえば、先日 OXFAMが告発したように、極少数の人間が地球の富を独占的に所有する極度の格差社会が出現していることが露わにされ、慣習的段階の人々が信奉していた価値観・世界観が根本的な問題を内蔵していたことが認識されはじめている。
当然のことながら、こうした状況の中では、既存の支配構造の中で恩恵を受けてきた階級の関係者は、さらなる価値観・世界観の動揺を回避しようと策を練ろうとする。
周知のように、2001年の「同時多発テロ」以降、合衆国内では徹底的な監視制度の整備が強力に推進されている。また、日本国内では、特定秘密法・共謀罪等の性格を同じくする法律が施行・検討されている(こうした日米間の監視社会の感性に向けた連携については、たとえば、先日、The Interceptが非常に興味深い調査報道記事を発表していた)。

こうした状況を眺めると、われわれは今まさに慣習的段階の認知構造の行動論理が限界をむかえる時代に生きているといえるのかもしれない。
ただし、こうした状況は、インテグラル・コミュニティの関係者が主張するように、必ずしも集合意識の進化により牽引されているわけではない。
むしろ、それは純粋にICT技術の進化により牽引されているものである。
実際、インテグラル・コミュニティの関係者の主な関心は、あくまでも発達理論を同時代の中で展開されているゲームの中で成功を収めていていくためにどのように活用できるのかというところにあるのであり、そもそもそうしたゲームの背景にある価値観・世界観そのものに批判的な問題意識をいだき、その超克にいかに寄与できるかという発想はほとんどできていない。当然、今日 価値観・世界観の正当性をめぐり惑星規模で展開されている「抗争」についても半ば無関心を決め込んでいる。
その意味では、発達理論に関心を寄せていても、実はその真意をとらえそこねてしまっているのである。
しばらくまえに、ある発達心理学者が「インテグラル・個コミュニティの重心は合理性段階にある」と語っていたが、それは正に的確な指摘である。発達理論に興味をいだくことは、その本人の認知能力が高いことを保証するものではないのである。

先述のように、ケン・ウィルバーが、「インテグラル」であるとは「政治的」であることだと言うとき、そこで意味されているのは、単純にいわゆる「政治的」であるということではない(もちろん、それを排除するものではない)。
むしろ、社会において集合意識を呪縛する価値観や世界観の正当性をめぐる抗争が恒常的に展開されていることを認識して――それは必然的に既存の価値観や世界観に埋没することを拒絶することである――その問題にたいして主体的に責任をとろうとすることである。
後慣習的段階とは、そうした責任感に支えられたものであろう。

発達がもたらしてくれるもの……(3)

巷では、批判的思考力を鍛錬するための方法として「前提条件を疑え」と訓えられる。
しかし、これは往々にして所与の目標や目的を温存したまま、あくまでもそれを実現するための方法上の制約にたいして疑問を抱くようにという訓えとして理解されるようである。
いうまでもなく、それは慣習的段階の枠組の中の理解である。
後慣習的段階の意識をとおして批判的思考をするときには、みずからの思考を動機づけている心理的な動機や物語や欲求そのものにたいして内省しようとする。
即ち、われわれの価値観や世界観そのものを意識化して、それが自己の思考に大きな影響をあたえていることに気づこうとする内向的な探求にとりくもうとするのである(たとえば、環境経済学の大家であるHerman Dailyは、われわれが分析的な思考をはじめるうえで基盤としている価値観や世界観のことを“pre-analytic vision”と形容しているが、後慣習的な発想とは、正にそれを意識化しようとするものなのである)。
こうしたことを踏まえると、「後慣習的段階に到達することで、仕事ができるようになる」という発想そのものがいかに的外れなものであるかが理解できるだろう。
むしろ、後慣習的段階の人間は、そもそも人間の成長というものを半ば自動的に営利活動に従事するための優位性を高めるための「方法」として道具化してしまう自己の嗜好そのものを意識化・対象化して、それについて批判的に検討するはずである。
また、その過程の中で、自律的であるはずのみずからの精神活動が実は時代や社会の圧倒的な影響下で営まれていることに気づくことになるだろう。
端的に言えば、Max HorkheimerとTheodor W. AdornoがDialectic of Enlightenmentの中で分析したように、人間の存在そのものが経済的な活動に効率的・効果的に従事するための「資源」や「道具」として位置づけようとする現代社会の支配的なイデオロギーの枠内で「自律的」に思考していたということに気づくはずである。
また、そうした気づきにもとづいて、真の自律性を確立するための探求にとりくもうとするだろう。
もちろん、ときには、そうした気づきを得たうえで、それでもなお同時代のイデオロギーの枠の中に安住することを選択する場合もあるだろう。
しかし、それは、迷信を迷信と認識しながらも、周囲との協調を図るために、表面上はそれを信奉して生きるふりをするようなもので、そこには必ずそうした生き方をすることを意識的に選択するという高次の要素が加わることになる。
つまり、自身が参加しているものが、「虚構」(game)であることを認識しているのか、あるいは、それを現実と錯覚しているのかという決定的な差が生まれるのである。

いずれにしても、後慣習的段階の認知構造をそなえた人間はどのような行動をするものなのかという問いに答えようとするとき、われわれは、その独特の「醒め」がもたらす洞察に留意する必要がある。
それは、単純に所与の価値観や世界観の中で「活躍」「成功」しようとするのではなく、そうしたものそのものを豊かな批判精神を発揮して脱構築して超克しようとする。
あえて言えば、それは、発達することで業績を上げようとするような発想とは正反対のものであるといえるだろう。
むしろ、後慣習的段階の認知構造は、人間の成長衝動を悉く経済的な論理に絡めとってしまう 惑星規模で人類を集合的に呪縛するシステムを脱却するための道を模索しようとする。
思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)は『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)の中で「フラットランド」(flatland)という概念を呈示して、現代という時代が――貨幣に代表される――量の論理にもとづいて世界を矮小化する深刻な病に冒された時代であることを示したが、結局のところ、後慣習的段階の認知構造に立脚して発想するとは、フラットランドを超克するための闘いを展開することになるのである。

(つづく)