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プロレスと政治

先日、夜中過ぎにTVを点けたら、ちょうどプロレスが放送されていたので、しばらくのあいだ眺めていた。
わたしが小学生のころはプロレスの全盛期で同年代の男子のほとんどが夢中になっていたものだ。
そのころとくらべると最近のものはずいぶんと舞台演出が派手になったが、本質は変わらず、「選手」たちは互いの安全に気を配りながら「技」をかけているし、また、いろいろと大袈裟な表情や仕草をしながら、あたえられた脚本を懸命に演じている。
TVを眺めながらふと思ったのは、「これは政治の世界そのものだな……」ということだ。
総合格闘技が市民権を得て、プロレスは瞬く間にそれが「演劇」であることが誰の目にも明らかになったが、実は、政治の世界を眺めると、ほとんど同じような構造のものが存在していることに気づくことができるだろう。
先日、TPP法案が衆議院で可決されたが、報道を眺めていると、法案が強行採決されたことに民進党の関係者が異議を唱えているということだ。
しかし、そもそも思い起こせば、もともとはTPPは民主党が政権を握っていたときに「平成の開国」などという訳のわからない標語を唱えて言いだされたものである。
変わっていることは、単に立場が反対派になったくらいのことである。
端的に言えば、画面上で展開されるのは、「同じ穴の狢」たちが、そのときにあたえられた役割をその演技力を駆使して演じている「演劇」でしかないのである。
単純に、今 民主党・民進党の関係者にあたえられているのが、しばらくまえとは異なる役割というだけのことなのだろう(プロレスでもそういうことはしばしばあるものだ)。
脚本そのものは、いわゆる「ジャパン・ハンドラー」といわれる合衆国の関係者がとりまとめたものであろうし、また、それを日本の官僚たちが細心の注意をはらいながら関係者に展開したということなのだろう。
そのようにして籠絡された御用学者や報道等が動員されて、世論が醸成され、その文脈の中で大衆は漠然とあたかも真剣な政党間の衝突がおきているかのような印象をあたえられているのだろう。
日本の政治家達も日頃から演技力を鍛えているのだろう、プロレスラーに少しも負けないくらいに、報道陣をまえにして、いろいろな表情で感情表現をして、聴衆を愉しませてくれる。

最も必要なことは、舞台上で格闘をしている役者達に脚本を用意して、演技指導をしているのが誰であり、その真意がどのようなものであるのかということなのだが、それを問う視点が巷にはほとんどない。
そのことが素朴に不思議である。
まあ、考えてみれば、ひと昔前までは、大のおとなが「プロレスは真剣勝負なのか?」と真面目に議論をしていたくらいなので、まだまだしばらくのあいだは、政治という演劇がほんとうのものであるという幻想は解消するようなことはないだろうと思う。

 

山田 洋次監督作品と周防 正行監督作品について

先日、山田 洋次が監督した近年の作品をまとめて鑑賞した。
1990年代後半に『息子』を観て大きな衝撃を受けて以降、その作品の大半を観てきたが、このところなかなか映画をたのしむ時間を確保することができず、少し遠ざかっていた。
『家族はつらいよ』『東京家族』『小さいおうち』『おとうと』『母と暮らせば』の順番で観たのだが、作品の質にむらがあるとはいえ、どれも山田監督の抜群の作家性と職人性を感じさせる素晴しい作品である。
個人的には、『小さいおうち』『東京家族』『家族はつらいよ』がとりわけ気にいった。
逆に、吉永 小百合が主演した『おとうと』と『母と暮らせば』は、鑑賞中にしばしば違和感を覚えさせられ、あまり素直にたのしめなかった。
特に吉永 小百合の演技に半ば生理的な抵抗感を覚えたのだが、もしかしたらこの感覚は吉永 小百合という俳優が自身に寄せられる周りのまなざしにほとんど雁字搦めに絡めとられていることに基因しているのではないかと思う。
正直なところ、この俳優を視ていると、いたたまれない気持ちになってしまい、作品に没入できないのである。
また、山田監督の場合、ときとして臆面もなくみずからの政治的な思想を作品で主張しようとするので、それがしばしば物語の自然な流れを毀してしまうことがある。
しかも、そうした主張が往々にして登場人物の台詞として声高に語られるので、どうしても押しつけがましい印象をあたえてしまうのである。
また、山田氏の信奉する価値観が、いわゆる「戦後民主主義教育」を忠実に踏襲するだけのものであるために――それを独自の視点をとおして批判的に検討した痕跡がまったくない――異なる世代の者にとっては、随分と教条主義に思われてしまうのである。
そして、それに輪を掛けるように、吉永 小百合の存在感が、画面上に思考の停滞を強要するような窒息感をもたらすことになる。
ただ、不思議なもので、こんな風に不満が言いたくなる作品であるにもかかわらず、上記の作品はまぎれもなく傑出した作家による素晴しい作品なのである。
特に『母と暮らせば』は、異様なまでに密度の高い作品で、作品をとおして画面に妖気とでもいうようなエネルギーが充満していて、息苦しいほどである。
こうした感覚は宮崎 駿監督の『崖の上のポニョ』を視たときに覚えたものと少し似ているように思う。
いわゆる商業作品・娯楽作品としては半ば崩壊しているにかかわらず、視聴者はそこに真に“すごい”ものが立ち顕われていることを認識する。
もしかしたら、そこには、宮崎監督の作品がそうであるように、この作品そのものが実質的に「この世」と「あの世」の間に産みだされた作品であることが影響をあたえているのかもしれない。
それは、また、監督の精神そのものが実際にそうした世界と世界の境界にたたずむことができるまでに円熟していることの証なのではないか……とさえ思えるのである。

 

 

周防 正行監督の『終の信託』を鑑賞した。
周防監督といえば、『ファンシイダンス』以来のファンで、近年では、『それでもボクはやってない』という傑作が非常に鮮烈に記憶されている。
しかし、今回観た『終の信託』という作品はいただけない。
小説が原作になっているということだが、いずれにしても、物語を構築するときに一番してはいけないことをしてしまっている。
登場人物の頭を過剰に悪く設定して無理に葛藤や問題を生み出しているのである。
医療従事者であれば、患者との心理的な距離のとりかたについては心得ているであろうし、また、安楽死を希望する患者の声を受けて、それを医療制度の中で適切な方法で叶えてあげるための方法を冷静に検討するのだろうが、この作品では、そうした基本的な能力をそなえていない主人公を設定することで物語を成立させようとしているために、視聴者はしらけてしまうことになる。
作品の後半、主人公を告発する検事が半ば悪役のような存在として登場するが(大沢 たかおの演技がすばらしい)、たしかに検察の強圧的なとりしらべに関する問題提起はなされているが、視聴者はそもそもこうした状況に迂闊に自身を追い込んでしまった主人公に完全に感情移入できないので、なんともいえない不全感を覚えながら、画面を眺めることになる。
また、本来であれば共感を寄せられるべき患者(役所 広司)も非常に社会常識を欠いた人物として登場してきており、結局、後に遺していく家族にみずからの希望を明瞭に説明するという基本的な責任を果たさなかったために、結局、精神的な危機のただなかにある主人公の医師の弱みにつけこむようにして、無理を依頼することになる。

観客というものは、基本的に、平静な意識状態で作品を鑑賞しているために、物語の些細な齟齬や無理を敏感に認識するものである。
それゆえに、作品は、あえて平均以上の知性を発揮して思考・行動をする登場人物を配して構築すべきなのだと思う。

 

追悼・宇野 功芳

今年の6月に音楽評論家の宇野 功芳氏が亡くなった。

今年の6月に音楽評論家の宇野 功芳氏が亡くなった。
その後、宇野氏が文章を寄稿していた『レコード藝術』『音楽現代』等の雑誌で追悼特集が組まれ、また、先日 音楽之友社が『宇野功芳の軌跡』という書籍が出版され、これでいったんは追悼的な意味合いの文章は出尽くしたのだろう。
1980年代から、宇野氏の文章を愛読してきた読者として、気持ちの整理をつけるためにも、思うところを書きとめておきたいと思う。

 

宇野氏の評論は、その断定的な口調もあり、しばしば物議を醸していた。
実際、日本のクラシック音楽のコミュニティにおいては、数少ないカリスマ評論家のひとりとして、広範な支持を集めていたが、同時に、宇野氏の評論にたいして強烈な嫌悪感を示す人もたくさんいて、少なくともインターネット上ではそうした意見を読むことができる。
ただ、個人的には、宇野氏の文章が読者の中にそうしたあからさまな好悪の感情を喚起したというのは、実は宇野氏が表現者として――評論家として――実にまっとうな仕事をしていたことのまぎれもない証なのではないかと考えている。
たとえば、欧米では、映画批評等を読むと、新聞紙上にまさに「罵倒」としか形容のしようのない評論が掲載されることがあるが、芸術作品にたいする評論というのは、結局のところ、評論者が自己の存在を賭けて作品と向き合うところに生まれるものを言葉にしたものなので、ときにはそうした強烈な表現を帯びてしかるべきである。
宇野氏が逝去して間もなくして、作曲家・編曲家として活躍する友人と会話をしていたときに、彼が「宇野氏は単に批評家としてあたりまえのことをしていただけなんですよね」と述べていたが、まさにそのとおりなのである。
逆に言えば、そうしたあたりまえのことをしていただけの評論家が特異な存在としてみなされてしまうことが問題なのである。
そうした主張性をもつ評論家が他にたくさんいてもいいはずだし、また、そうした表現力をもたない評論家が淘汰されずに生き残れるということが問題なのである。
実際、雑誌『レコード藝術』を眺めると、そこに掲載されているほとんどの評論が、CD販売会社がまとめた広告の文章とあまり変わらない「疑似宣伝文」といえるものである。
執筆者の意識は常に商品の販売会社を向いており、「批評」を装いながら、いかに商品を評すれば、彼等の機嫌を損ねずに済むかということに主な関心が寄せられているのが実によくわかる。
たとえば、『レコード藝術』の常連執筆者として長年にわたり活躍した――あるいは、している――浅里 公三・歌崎 和彦・小石 忠男・諸石 幸生等の文章というのは、まさにそうした類のもので、あたかもなにも主張しないことを最大の美徳としているかのような、その徹底的に無内容な文章はまさに日本のクラシック音楽批評を象徴する評論といえる。
・表面的には行儀はいいが、本質的には、読者にたいして、自己の鑑識眼を賭して判断をして、その作品にたいする評価を伝えるという評論家としての責務を放棄したところに成立する狡知だけに貫かれた文章と言えばいいだろうか。
東日本大震災の折、原子力産業にたいして人々の注目が集まったが、そのときに、そこにいわゆる「御用学者」といわれる「知識人」が無数に寄生していることが露呈された。
それとほとんど同じような構造が音楽業界にも成立しているのである。
そうした状況の中で宇野氏が特異な存在としてみなされたのは、当然のことだったのだと思う。

クラシック音楽の領域のみならず、芸術を愛する人々は自己の美意識や鑑識眼を洗練させたいと切に思いながら、日々作品と接している。
批評論とは、そうした文脈のなかで、鑑賞者が自己の感性や洞察を深めるための示唆や刺激をあたえてくれる随伴者であり、また、作品をめぐりわれわれが自問自答をするときに心の中で対話のあいてとなってくれるものである。
宇野氏の評論にたいして、肯定的な反応を示す人と否定的な反応を示す人が大きく分れたというのは、端的に言えば、そこには対話が成立していたということだろう。
たとえば、上記の狡知に長けた評論家の文章が、そうした読者の明瞭な反応を喚起するということはまずない。
読者は、そういう文章が販売会社の宣伝文に毛の生えた程度のものに過ぎないことを看破するので、それを素通りしていくのである。
宣伝文というのは、眺められることはあるとしても、対話の対象とはなりえないのである。
単に知識や情報がほしいのであれば、そうしたものは今はいくらでもインターネット上で集めることができる。

それを豊富に所有していることで、評論家として通用する時代というのは終焉しているのである(もしそうした情報を提供することがみずからの使命であると思っている評論家は早く引退すべきであろう)。
また、これだけ膨大な商品が市場に溢れかえっている時代においては、読者は、どれを選ぶべきかについての情報だけでなく、どれを捨てるべきかについての情報を求めている。
とりわけ、これまで長年にわたり数多くの名演奏に接してきた者であるほど、限られた時間の中で真に優れた新録音だけを聴きたいと思うのは当然のことである。
悪いものを悪いと言うことをせずに、ひたすら売りだされるすべて商品を褒めるだけの評論家は、そうした読者の要求から逃げているのである。

読者はみずからが素人であることを自覚しているがゆえに、「ほんもの」をみきわめる眼力をそなえた「目利き」を素直に求めようとする。
宇野 功芳亡きあとの問題とは、そうした読者の欲求に応えようという意志をもつ批評家がいないということだと思う。

 

ゲーム

 

合衆国では恒例の大統領選挙戦が本格化しているが、基本的にあらゆる国の選挙戦がそうであるように、それが茶番であることに果たしてどれくらいの人が気づいているのだろうか……。
2008年にバラク・オバマが選挙で選出されたとき、たまたまある心理学関係のトレイニングに参加するために合衆国に滞在していたのだが、そこで、周囲の人達が狂喜しながら、「これで政治が大きく変わる」と確信しているのをみて、内心 そのあまりの無防備さにひどく落胆したことを覚えている。
実際、間もなくして、周りでは、オバマ大統領のことを高い意識に支えられた政治家として礼讃する何ともおめでたい発言がひんぱんに耳にされるようになるわけだが、そうした傾向というのは、ひろくリベラルな知識人だけでなく、国民の大多数に診られるように思う。
日本でもオバマ関連の書籍が多数出版され、それがひろく読まれたことが記憶されているが、マスコミ等をとおして製造・流布されたイメージに呪縛され、その枠の中で思考をする傾向というのは、非常にひろく蔓延している。
端的に言えば、大統領選というものが、社会の支配層が用意した二人の操り人形のどちらかを選ぶかをめぐるだけの実に空疎な茶番であることがほとんど認識されていないことが、そのまぎれもない証左であろう。
大衆は「コークとペプシ」を目のまえに並べられて、そのどちらを選ぶかを真剣に考えさせられているのである。
健康に害悪しかもたらさない二つの悪性の選択肢の中から「正しい」選択をすれば、政治が変わるという虚構を真に受けているのである。
しかし、少し冷静に状況を眺めれば、今日の選挙制度が実質的に機能していないことは明らかである。
そうした状況の中で、もしわれわれが選挙で投票をしていれば、それで政治参加したことになると思っているとすれば、それは大変な知的怠慢であるといえるだろう。

現代において、われわれが集合規模で直面している真に深刻な問題とは、社会で共有されている価値観や世界観(所与の物語)にたいして――たとえ少しであれ――懐疑的な怠惰で接するという基本的な批判精神を涵養することがないままに大多数の人々が人格形成をすることになっているということである。
結果として、巷で「優秀」といわれる人々までもが、そうした所与の物語を前提に構築された「ゲーム」の中で「勝つ」ことだけにエネルギーを費やすことになっているのである。

大学院で研究をしていたときに、第二次世界大戦中に世界中で全体主義が蔓延したことの背景にどのような心理的なメカニズムが存在していたについて少し勉強したことがあるのだが、今日 ひろく蔓延している心性というのは、半世紀前に悲劇をもたらしたものと何等変わらないのではないかと思われる。
簡単に言えば、それは、支配的な価値観や世界観にたいして、それと批判的に対峙することなく、単にそれに適応すること――そして、その枠組の中で成功すること――に半ば全身全霊を捧げることを善とする心性である。
価値観や世界観は、それが社会の中でひろく受け容れられているというだけで、半ば無批判に信奉されることになる(「権威主義的人格」)。
先日、友人が「今どきの優秀なビジネス・パーソンというのは、とにかく“強い者”が好きで、そういう著名人の講演には熱心に参加するけれど、同時代の課題や問題について本質的に思考や探求をするための教養を得るための勉強にはほとんど興味がないようだ」と述べていた。
実際、まさにそのとおりで、権威主義的人格にとっては、知識とは、基本的に所与の「ゲーム」の中で勝ちぬくための道具に過ぎないのである。
彼等はみずからが参加しているゲームそのものが不健全なものなのではないか?――という問い掛けはしないのである。

単に所与のゲームの中で成功を収めことが目的であるならば、それほど高い認知構造は必要とされない。
みずからの存在が組み込まれている空間が果たしてどのように「設計」「構築」されているのか、また、そのことにより、みずからの感性や認識がどのような傾向や特性を帯びることになっているのかということについて、あれこれと考える必要はない。
単にみずからにあたえられた役割を果たすために、必要な知識や技術や思考を練磨すればいいのである。
それらを動員して実現しようとして目標について、それが本質的にそれに価するものであるのかというという問いを立てる必要はないのである。
今日において、もしわれわれ人間が幼稚化しているとすれば、それはわれわれの知識や技術を習得する能力が退化しているからではない。
むしろ、そうした能力は過去のいかなる時代よりも高められているといえるだろう。
いわゆる「ビジネス書」が非常に熱心に読まれていることにも診てとれるように、人々は、みずからの能力(「儲ける能力」)を高めるために、寸暇を惜しんで情報を収集し、また、技術や方法を習得しようとしている。
われわれの時代が幼稚化している理由とは、そうした勉強や訓練に人間の知的関心が集中的に向けられてしまい、われわれにそうした不断の努力にとりくむように求めている社会の仕組や構造そのものについて省察をすることに社会的に怠惰になっていることにあるのである。
誰もがゲームに夢中になって、寝ても覚めてもゲームで勝つことに血道を上げているのである。
もし道を行き交う全ての人々が携帯電話端末の画面を真剣に眺めて、そこにうつる仮想現実世界に完全に没頭していたとすれば、それは実に異様な光景だろう。
しかし、実質的にはそれとあまり変わらない光景がわれわれの日常を埋め尽くしているといえるのである。
そして、恐ろしいことに、われわれの周りには、「ゲームなどしていないで、そろそろ目を覚ましなさい!!」と注意をしてくれる人はほとんどいないのである。

 

A Reflection on The Great Divide by Robb Smith

A friend of mine introduced me to an article written by Robb Smith, CEO of Integral Life, titled The Great Divide: Trump, Populism and the Rise of a Post-Scarcity World, the other day.

Over the years, I have read articles written by those in the Integral Community on the topic of contemporary politics with much dissatisfaction primarily due to the virtually complete lack of awareness of the reality of deeper dimensions of politics—or what Peter Dale Scott calls “deep politics”. The way they refuse to acknowledge that reality could well be compared to an attitude that attempts to understand human psyche without acknowledging the existence of the unconscious—the situation where the psychotherapist pays attention exclusively to what the client utters without directing any attention to the underlying psychological dynamics. Indeed, the way they approach the topic is so shallow that it becomes quite ironic that the authors so proudly proclaim that they are presenting based on the integral perspective which is supposed to embrace more information than any other approach.

However, what is more problematic is that these articles essentially serve to damage the status of the integral approach as they basically serve as the exemplars of integral approach in the eyes of many. Despite their claim to embrace more information than any other approach in existence, those exemplars are actually embracing only what is on the surface of reality. In the still early phase of the movement, the very fact that such narratives are embraced exemplars of integral analysis of politics—or at least without much difficulty—in the community can cause serious damage to the value of the approach per se by creating the perception in those who are reasonably well informed that what qualifies as integral analysis is basically nothing more than an assemblage of various conventional perspectives, circulated by mainstream media outlets, according to the orthodox narrative of integral philosophy, the narrative which I think is uncritically embraced as given.

Under such circumstance, it becomes critically important to recognize how the approach is narrowed by means of blind adherence to the ideological tents of the Integral Philosophy on the part of thinkers in the community. Such an understanding would enable us to utilize integral approach in a more integrative way.

Here, utilizing the above article by Robb Smith as a sample, I have picked up some of the problematic tendencies of the so-called integrally informed analysis, which are shared by numerous others in the community:

 

  • The confusion of contents and structure: People’s apparent adherence to an ideology (in this case, “nationalists” and “globalists”) are confused with the level of their psychological maturity (the structures of consciousness). In reality, each ideology can be held from different structures—so there are Conformists who are “nationalists” and “globalists”, and there are Achievers who are “nationalists” and “globalists”. In the article, no such distinction is made so that the argument ends up proclaiming that those who hold supposedly more evolved ideologies are structurally more developed as well. The very essence of developmental approach is “why” or “how” people are holding specific stance. Nevertheless, despite its heavy reliance on the approach, it is completely ignored.

 

  • Distortion of the subject matter: The main part of the essay is the comparison of the two stances that constitute the majority of the world population which the author calls “nationalists” (operating from ethno-centric stance) and “globalists” (operating from world-centric stance). However, the author represents each of these stances in highly arbitrary ways based on the orthodoxy that the globalists are aiming to enhance the welfare of the humanity and the nationalists are aiming to enhance the welfare of the immediate community to which they belong at the price of the rest of humanity. In other words, despite the all the qualifications in the essay, the author essentially believes that the globalists are more evolved psychologically than the nationalists because I would assume the author believes that the embrace of globalism proves that the individual is operating from the world-centric stance and the embrace of nationalism proves that the individual is operating from ethno-centric stance. Throughout the essay, the author does not raise the question if the very characterization is actually accurate. Given that the globalist ideology is often upheld by such entities as multinational corporations which are essentially motivated to enhance welfare of small number of their stakeholders (e.g., shareholders) by means of gaining access to the market of the world—and that the nationalist ideology is often upheld in response to such tendency—one would expect that any integrally informed analysis delves into the deeper dynamics that exist beneath ideological conflicts in contemporary society. Quite disappointingly, there is no sign of such an insight in the essay.

 

  • Lack of self-reflexivity: Very frequently, so-called integrally-informed commentary such as this is itself trapped by the conformist thinking which it so eagerly criticizes. For example, in this article, the two different ideological stances are simplistically categorized into the preexisting categories (in this case, “more developed” and “less developed”) according to the apparent values that they adhere to. In other words, the author simply takes for granted that the very procedure that it is using is correct or that the way he is using the framework is correct.

For example, as I noted above, the apparent value of the ideology that is held by individual is not directly reflective of the level of cognitive complexity of the individual. However, devoid of such basic awareness, it appears that the author simply and blindly follows the procedure to categorize the two stances solely on the surface contents that are upheld by each. Ironically, in a way that is quite similar to how the conformists think—whom they so passionately criticize—the integrally informed thinkers appear to be trapped by the orthodoxy of the community themselves. That is, on the topic of politics, so-called integrally informed people themselves are also trapped in an automatic mode that does not exercise critical spirit toward how they are framing the situation.

 

  • Ignorance on the nature of transnational entities: The article also typically exemplifies the pervasive ignorance of the nature of the super-government agencies (power structures) that are assigned to oversee the global activities. As exemplified by the negotiation process of TPP, where democratically elected politicians have not been granted full access to the information that pertains to the nature of the treaty, those transnational entities, which are naively celebrated by the integral community as the indication of the emergence of transnational entities, are basically undemocratically elected entities usually under the control of multinational corporations.

 

  • Distortion of world-centrism: If the Integral Community is truly committed to promoting world-centrism as it so claims, then, it should devote much more energy in critically analyzing how various ideologies based on world-centrism—which usually takes the form of globalism—is hijacked to promote the interest of select group of people today—rather than the entire humanity as the very word world-centrism suggests.

Once an ideology is created and disseminated to the community at large, however noble it is in its original conception, it is intrinsically prone to be hijacked by basically any group of people to promote its own interests. Any integral analysis needs to pay careful attention to how any ideology is consumed and used in the community to promote whose interest instead of simply looking at the apparent logic and value it is adhering to. And it is particularly in this respect, I believe, the authors in Integral Community have failed consistently since the inception of the community. Indeed, to my knowledge, the Integral Community has never produced an analysis of the power structures that take advantage of the dissemination of various globalism-based narratives by pointing out specific names of individuals, organizations, or industries—even though it is quite eager to name names only when some celebrity figures are professing support to it. Unlike many investigative journalists who are willing to explore the deeper dimensions of the contemporary politics by elucidating the underlying power structures sometimes by naming names, authors in Integral Community consistently avoid such approach and instead stay at the far distance from reality contriving various stories which would rationalize whatever is happening as the sign of cosmic evolution (I would think this overall tendency to escape into evolutionary ideology is likely caused by the phobia and that is widely shared by the community).

 

  • Ignorance of power issues: In the latter half of the article, the author discusses about some of the negative impacts of the current technological advances, such as Artificial Intelligence, will likely make calling attention to the possibility that it will disproportionately benefit capitalists, instead of ordinary labors, further empowering the former financially and politically which then will further widen the gap between haves and have-nots. As far as I can recall, this is probably only time I saw a decent criticism on Orange vMeme raised by a writer in Integral Community. While the community has been so eager to criticize Green vMeme, it has always been very reluctant to voice criticisms toward Orange vMeme.

Not surprisingly, though, Robb’s criticism toward Orange vMeme is quite mild as it does not even slightly mention the fact that the concentration of power and wealth in the extremely small number of people (“the one percent”), which has been taking place over the past century with accelerated speed, is the product of aggressive strategy implemented by the community of the haves through such measures as systematic lobbying activities, sponsoring of politicians, control of media, control of banking system, and so on. As a matter of fact, based on the article, the reader is left with the impression that all the changes that have led to the concentration of wealth is basically the result of natural process of collective evolution where no willful (“malicious”) intentions were exercised by anyone in particular.

While people are willing to acknowledge that individuals are quite prone to lie to themselves and others when they are discussing on the topic of individual psychology—Integral Psychology clearly acknowledges that it is extremely difficult for us to be genuinely authentic to ourselves and acknowledge and accept what we are feeling— on the topic of politics, most of the authors become extremely reluctant to acknowledge that there are likely hidden goals that are pursued by various stakeholders (especially more powerful ones) concealed beneath pleasant discourses that fills the public spheres.

Consequently, because the essay completely fails to imagine that there are actually forces who is aiming to concentrate more and more power and wealth in THEIR hands—by the way, it is quite perplexing to read an essay written by someone who claims to be an experienced business person that is so naïve in its outlook of society as one of the core themes of strategy in corporate spheres is to enhance and enlarge the power and control over the competitors and industry and society—it completely ignores the possibility that what is required may actually be the integrally-informed analysis and exposure of those forces which some say have virtually taken over the political and economic spheres of our society, instead of some kind of well-intentioned social innovations as the author seems to be advocating.

 

  • Misguided paternalism: What is probably most annoying is that the article, while it purports to blame Globalists for the Great Divide that plagues today’s society, it actually carefully strokes its pride by essentially saying that it is up to more evolved Globalists to save the humanity by building the future where less evolved Nationalists/Tribalists too can embrace. Even if it is the case the more psychologically developed individuals can take Greater responsibility in shaping the future, it is doubtful that those who so naively embrace Globalism in the age where that ideology can be—and I think actually is—hijacked to promote the interests of the One Percent is in a position to do any real Good to the welfare of the whole humanity…

In the hands of authors such as Robb Smith, it would appear, Integral Philosophy seems have been distorted into an ideology that endows people with specific ideology with a paternalistic sense of pride and superiority...

 

Robb Smith states that the article deserves a book-length treatment in order to fully unpack what it is attempting to say. However, what is presented here basically rehash of the party line narrative with a small number of minor twists. Further enhancement of the argument will not likely provide any more substantially valuable insight to the reader.

The basic failure to understand the issues surrounding the ideology of Globalism seems to fatally compromising the argument at the fundamental level. Unless the author re-examine the basic assumptions of the article, I am afraid that it will not offer anything valuable to Integral Community other than to deepen the illusion of people that this kind of simplistic analysis would suffice as an integrally-informed analysis…

 

インテグラル理論研究会特別編:AIの未来と社会

告知

インテグラル理論研究会特別編:AIの未来と社会

2016年10月29日(土曜日)

 

インテグラル理論においては、人間の成長とは、これまでに意識されていなかったものを意識化するプロセスをとおして実現されるといわれます。また、カール・ユングがModern Man in Search of a Soulが指摘するように、現代においては、そうした意識化をすることにたいして個人が積極的に責任を負うことが、とりわけ重要になっています。現代という時代を生きるにあたり、われわれは、みずからの認識や思考や行動に影響をあたえている無意識の領域に意識の光をあて、それを深く理解・洞察する必要があるのです。

Integral Japanの研究会・特別編(不定期開催)では、こうした問題意識にもとづいて、多様な領域の識者を御招きして、内的・外的な世界の意識化という、この重要なテーマに関する洞察を深めていきます。

2016年10月の研究会では、データ解析のコンサルタントして活躍される久本 空海(ひさもと そらみ)さんを御迎えして今後の人類社会を大きく変えていくだろうと予想される人工知能(Artificial Intelligence)に関して、特に言語の観点から探求します。

貴重な機会ですので、御誘いあわせのうえ、御参加ください。

 

発表概要:

囲碁で人間のプロに勝利した事件や、無人自動運転車の話題など、「人工知能(AI)」という言葉を耳にする機会が増えています。しかしその内容としては、AIの能力を過剰に見せ恐怖心を煽ったりするものも多く、いったいAIとはなんなのか、どのようなことができて、どんなことはできないのかよく分からない、という方も多いかと思います。

この研究会では、「AIの歴史」「AIと言語」「AIの未来と社会」という3部構成で、AIとはなにか、そしてそれがどのように我々に影響をおよぼしうるのか議論していきます。

これからの社会においてAIは確実に重要度を増していき、無視することができないものになっていくでしょう。そしてまた、AIを知ることは、人間を知ることにつながります。なんとなく重要だとは思っているが、漠然としたイメージのAIについて、考えを深める機会になればと思います。

 

課題資料

松尾 豊『人工知能は人間を超えるか』(2015, KADOKAWA) https://www.amazon.co.jp/dp/4040800206/

ブライアン・クリスチャン(訳: 吉田晋治)『機械より人間らしくなれるか?』(2014, 草思社) https://www.amazon.co.jp/gp/product/4794220804

『岩波データサイエンス Vol.2 統計的自然言語処理 ことばを扱う機械』(2016, 岩波書店) https://www.amazon.co.jp/dp/4000298526/

 

講師プロフィール:

久本 空海(ひさもと そらみ)

アイルランドなどでの海外生活を経て、日本在住。大学院では、コンピュータで人の言葉をあつかう「自然言語処理」の研究に従事。現在は、主にマーケティングの分野でのデータ利活用のコンサルティングを行っている。技術計算のための新しいプログラミング言語「Julia」の勉強会「JuliaTokyo」( http://julia.tokyo/ )主催。

 

日時:10月29日(土曜日) 13:00〜17:00

開催場所:株式会社トモノカイ 岡崎ビル3階

https://goo.gl/QeXZiw

定員:30名

参加資格:なし(定員に達し次第、締め切ります)

参加費用:4,000円

御申込は、下記のフォームよりお願いします。

https://goo.gl/forms/xgAIfeL6iHLGb9lF3

 

JATP・JTA合同大会 - 未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

JATP・JTA合同大会

未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

 

日本トランスパーソナル心理学 / 精神医学会

日本トランスパーソナル学会 合同大会

未来をつなぐ トランスパーソナル 原点・課題・展望

 

夢の共催、ついに、実現!

それぞれの道を歩んできた

日本トランスパーソナル学会と日本トランスパーソナル心理学/精神医学会の 共催による学術大会が

いよいよ開催されます!

http://transpersonal.jp/jatp_jta_taikai/

 

今年11月26〜27日に相模女子大学で開催される日本トランスパーソナル心理学・精神医学会と日本トランスパーソナル学会の合同大会のシンポジウムに登壇することになった。

4人のシンポジストがそれぞれに話題を持ちより、まずそれについて20分ほどの発表をしたあと、それに関して議論をする形態をとるとのことだ。

どのような話題をとりあげようかと思案した結果、欧米におけるインテグラル・ムーブメントの現状に関する批判的な考察を呈示することにした。

欧米では、1995年に『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)が発表されると、各界から非常に大きな反響を集めることになった。

その後、間もなくして、そこで呈示されたインテグラル思想を基盤として、研究と実践を推進するための機関であるIntegral Instituteを設立するための準備作業が開始されることになる。

当時、わたしもサン・フランシスコ・ベイ・エリアのインテグラル・コミュニティに参加していたこともあり、そのときの熱気を鮮明に記憶している。

ただ、その後、どういうわけか、コロラド州のボウルダーに設立されたIntegral Instituteを中心にして展開された活動は、徐々に「勢い」を失うことになる。

わたしも2000年代中盤までは、ひんぱんに合衆国に足を運び諸々のイベントに参加をするようにしていたのだが、コミュニティの空気に漠然とした違和感を覚えはじめ、しだいに距離をとるようになっていった。

周知のように、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)を中心として形成されたインテグラル・コミュニティの在り方にたいしては、これまでにもFrank Visserが主催するIntegral Worldで活発な批判的な議論がおこなわれてきているが、ただ、その考察の内容はあくまでも学術的なものであり、インテグラル・コミュニティが今日の時代状況の中で思想運動として存在意義を失いはじめていることの本質的な理由を明らかにしえていないように思われる。

端的に言えば、批判する側も批判される側も同質の盲点に絡めとられているように思うのである。

今回のシンポジウムでは、このあたりのことを少し掘り下げて発表してみたいと思う。

 

発表要旨

トランスパーソナル思想の課題:インテグラル理論の視点から

鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン

 

1995年のSex, Ecology, Spirituality(邦訳『進化の構造』)を契機として、それまでトランスパーソナル運動の中心的存在のひとりと活躍したケン・ウィルバー(Ken Wilber・1949〜)は、本格的に「トランスパーソナル批判」をはじめ、それを超克する新たな思想的・理論的な枠組としてインテグラル理論といわれる独自の思想・理論を提唱しはじめた。以降、これまで20年にわたり、Integral Instituteを中心にして多数の関係者を巻き込んで活動を展開しているが(例:書籍や研究誌の出版・イベントの開催・企業組織や自治体にたいするコンサルティング)、ここにきてインテグラル・コミュニティは思想運動として深刻な行きづまりを経験しているように診うけられる。そこには、これまでにもたびたび指摘されてきたように、共同体そのものが圧倒的な存在感をもつカリスマ型のリーダーにより牽引されてきたことにくわえて、インテグラル理論にたいして批判的な意見を持つ関係者との対話に消極的であったことの弊害が少なからぬ影響をあたえているように思われる。ただし、それ以上に重要なのは、同時代の集合的な課題や問題にたいして積極的に関与していこうとする当初の意図が、実際には、同時代の重要な利害関係者と友好的な関係性を構築・維持することを必須の条件であると解釈された結果、社会にたいする真に批判的な分析やアプローチをすることを関係者に困難にしていることにあるように思われる。そのために、同時代の状況がどれほど病理化しようとも、その根本的な問題を指摘することに躊躇せざるをえないという状況に陥ってしまっているように思われるのだ。本発表では、発足20年を迎えたインテグラル・コミュニティが現在直面しているこうした課題について、これまでにその内部関係者として関わってきた者の視点から省察したい。

 

On the Status of Integral Politics

On the Status of Integral Politics

 

https://integrallife.com/daily-evolver/democrats%E2%80%99-integral-convention-plus-glimmers-hope-right

 

A very typical view that comes out of the Integral Community nowadays which unashamedly proclaims to be asserting so-called “integrally-informed” view—a view which essentially accomplishes nothing more than making sense of the speeches, written by the speech-writers hired by the candidates, with integral jargon to create the impression that those speeches are somehow commendable because the contents resonate with some of the principles of integral philosophy. This kind of approach, which is so rampant in the community, completely misses the essence of who these candidates are as they exclusively pay attention to the contents of their speeches while paying little attention to the power structure that have been puppeteering them from behind the scene. However masterfully you analyze the speeches of the candidates, you are simply fooling yourselves by believing that you are understanding what they stand for when in actuality you are just analyzing the lines spoken by actors in a fictional play which are basically designed to entertain and enthrall audience.

While reasonably educated people would not experience much difficulty distinguishing the difference between the stage personas of an actor from his or her personality offstage, it would appear, they suddenly allow themselves to be easily deceived by such trickery when it comes to politics. What is most amazing is that in the age where more and more people are beginning to cultivate healthy spirit of skepticism toward politics, the overall majority of the Integral Community, who proud themselves to be insightful to deep or hidden dimensions of reality, appear to be extremely complacent to be enthralled by the show that is contemporary politics of all people. Indeed, this kind of naiveté seems to be so rampant in the Integral Community that I know virtually nobody who voices the perspective that is not confined in such naiveté. In that sense, the unashamedly docile and contented attitude of Jeff Salzman is essentially a particularly noticeable example that represents that pervasive naiveté of those in the Integral Community (many of the writers who are featured in Integral World, http://www.integralworld.net/, the website that attempts to offer a space for constructive criticism of Ken Wilber’s Integral Philosophy seem to share similar attitude to Salzman).

 

Given the reasonably high level of intelligence of people who are associated with Integral Community, as shown in various essays written on the subjects other than politics, it is quite perplexing why they are so open to suggestion—and are so unwilling to exercise skepticism—in addressing the topics on politics. I seriously wonder if this symptom derives from the nature of Integral Philosophy—namely, does the philosophy contain some kind of mechanism that facilitate the suppression of critical thinking capacity when approaching contemporary political affairs? Or does the symptom derive from the particular type of personalities that are attracted to the movement?—in that they are so infatuated with the abstract concepts which provide neat illusion—the illusion that the world is constantly evolving and that those in charge of their governments are making conscientious effort to facilitate that collective process—that they are willing to close their eyes to the reality that contradict what they hope to see?

 

Over the past years, as far as I can see from Japan, the Integral Community seems to have been continually narrowing the scope of its applicable usefulness to the area of personal transformation (as represented by Integral Life Practice) while at the same time, continually and steadily promoting the stance to the contemporary politics that can only be described as complacent supported with excessive willingness to believe in—or concern themselves in dissecting according to so-called Integral Framework—the speeches of the public figureheads prepared for mass consumption. As a result, the Integral Community seems to have essentially fallen into the same stance as Transpersonal Community, which it so eagerly criticized in the early phases to claim its superiority, by rendering itself virtually useless in providing truly incisive insights for generating transformation in the collective spheres (As a matter of fact, to make the matters worse, because of the false sense of superiority that they have at least transcended transpersonal movement, the Integral Community seems to be caught in a state where they do not have to feel any need to critically examine their own state).

 

In any case, the above podcast by Jeff Salzman seems to symbolize the serious compromised state in which the Integral Community is caught…

 

勇気ある思考

 今から15年ほどまえのことである。

 サン・フランシスコにある大学院在籍中に、アメリカの思想家ケン・ウィルバー(Ken Wilber)のインテグラル思想に関心を寄せる内外の関係者が定期的に集まって研究会を実施していた。

 この研究会を開催していた時期というのは、ウィルバーの執筆活動が最も盛んなころで、毎月のようにあたらしい論文等がWEB上で発表されていたころで、そこでは、それまでに発表されていた著書を精読するだけでなく、そうした新作をリアル・タイムでとりあげた。

 また、インテグラル・コミュニティ―の関係者のあいだで注目を集めていた他の研究者による作品をとりあげて、ウィルバーの理論と比較をしたりしながら、活発な議論をしていた。

 そのころにとりあげた作品のひとつが、発達心理学者ロバート・キーガン(Robert Kegan)が同僚と共にまとめたA Guide to Subject-Object Interviewである(当時は、これはWEB上で販売されていなかったので、ハーバードに連絡をして取り寄せたことを今でも覚えている)。

 キーガンの学術書は、文章が難解であることで知られているが、ただ、同時に、この研究者は非常に示唆に溢れる言葉遣いをする人でもある。

 個人的にとりわけ印象深いのは、合理性段階の精神を説明するときに用いられる“self-authoring”という言葉である。

 一般的には「自己著述」と翻訳されることが多いようだが、もう少し解りやすくいうと、「知識を自己の力で創造・表現することができる」ということになるだろう。

 また、上記のA Guide to Subject-Object Interviewの中では、合理性段階の精神というものが、単に「知識の消費者」(“consumer of knowledge”)であるだけでなく、「知識の生産者」(“producer of knowledge”)であろうとする精神であると述べられている。

 わたしは、その後の15年ほどのあいだ、この時期に得た知見を礎としながら、実務領域で活動をしているが、日々痛感するのは、成人期において「自己著述」する力を鍛錬・発揮することがいかに重要であり、また、いかに難しいかということである。

 知識というものは、それがいかに高度の知性によって創出されたものでも、いったん普及可能な知識に整理・包装されると、基本的にはそれほど高い認知構造がなくても理解できるものとなる。

 われわれのところには優れた知性により創造された膨大な知識が届けられ、われわれはそれらを咀嚼して生活しているわけだが、ただ、ややもすると、われわれはそうした知識を吸収・収集することが学びであると勘違いしてしまう。

 結局のところ、消費可能な知識として包装され届けられた知識は、われわれの意識のなかに蓄えられる内容物(contents)に過ぎない。

 本来であれば、われわれはそうした知識を創造した意識や思考そのものに思いを馳せて、それを体得しようと努力する必要があるのだが、いつの間にかそうした知識を意識に「容れる」ことが「知る」ことだと錯覚してしまう。

 もちろん、自己著述ができるようになるためには、たくさんの知識を蓄積することが必要となるのは疑いのないところである。

 それが基盤となり、そうした多様な素材を統合・融合して、あらたな知識を創造する高次の知的作業が可能となるのである。

 しかし、同時に重要となるのは、自己を知識の創造者として自覚すること、即ち、知識の創造者としてのアイデンティティを確立することである。

 つまり、比較的に早い時期に、優れた知識の消費者となることを目標とするのではなく、優れた知識の創造者となることを目標とする意識を確立する必要があるのだ。

 わたしの場合、日本の高校を卒業して、数箇月後には合衆国の大学で現地の学生に混じり授業に出席しはじめたのだが、いきなりはじめから――その領域の基礎知識を習得するまえの段階にいるにもかかわらず――教授たちから毎日のように「君はどう思うのだ?」「君はどう考えるのだ?」と問われて、大いに苦しめられたものである。

 ただ、今となっては、実はそれが非常に貴重な訓練の場所となっていることを痛感している。

 いうまでもなく、教授たちは初心者がまともな意見を言えないことを百も承知である。

 彼等の狙いは、想像するに、たとえ基礎知識がなくても、ひとりの人間としての素朴な感覚にもとづいて既存の知識体系に批判的に対峙して、それと対話をしようとする意志を鍛えることの重要性を伝えることにあったのだと思うのである。

 そして、それは、知識の吸収という作業をあくまでも最終的に独自の意見や洞察を創造するための準備的な作業として位置づける発想を生徒の中に注入することをとおして、早い段階から、自身を知識の生産者とみなす自覚を促すことになるのである。

 教授陣は、まだ海のものとも山のものとも知れない若い生徒たちにたいして、みずからを知識の創造者となるべく訓練を積むことを当然の義務として課したのである。

 つまり、自己著述型の知性を獲得するために――合理性段階の精神を獲得するために――必要となるのは、知識を豊富に吸収することだけでなく、それを素材として、独自の知識や洞察を創造しようとする意志なのである。

 実際、大学院では、たとえどれほど資料を丁寧に参照していたとしても、それらの資料の要約や翻訳の閾を出ない論文を提出しようものなら、あからさまな侮蔑や批判の目にさらされることになる。

 執筆作業を通じてあたらしい価値を創造して世界に貢献しようとする意志を持つことは、すべての学生に課された義務であると訓えられるのである。

 こうした経験もあり、個人的には、とりわけ人格形成の過程においては、いかなる目標を設定して日々の学びにとりくむのかを確認することは決定的に重要であると考えている。

 そこで下した判断が――たとえそれが無意識の内に下したものであれ――その後の人生の思考の質に少なからぬ影響をあたえることになると思うからである。

 優れた知識の消費者となることを目標にして学びにとりくんできたのか、あるいは、優れた知識の創造者となることを目標として学びにとりくんできたのかということが、30代以降のその人の精神活動の質に大きな影響をあたえるように思うのである。

 当然、成人期を迎えても、われわれは実務者としての活動に従事しながら学習を継続するわけだが、その時期の学びは実務領域の論理に否応なしに絡めとられることになる。

 それゆえ、この時期の精神活動を、実務領域の論理に呪縛されることのない自由なものに維持していくためには、人格形成期においてとりくんだ鍛錬の質が大きくものを言うことになる。

 そこで培った教養の深さが、実務者としての生活をはじめたときに、実務の論理に呑みこまれることなく、むしろ、それを批判的に眺めるための視座を保障してくれるのである。

 

夢を視る知性

 ケン・ウィルバーは、合理性段階の知性を「夢を視ることができる知性」――即ち、自己の知性を発揮して、世界に働きかけることをとおして、世界をみずからの希望や構想や理想のもとに再構築できると確信する知性――と説明する。

 表現を変えれば、それは、現実に異を唱えて、それに対抗・抵抗できる知性であるともいえるだろう。

 いうまでもなく、それはときには既存の権威にたいして敢然と闘いを挑むことができる知性でもある。

 実際、大学院在学中にわたしも優秀な同僚が大家といわれる研究者にたいして果敢に論争を挑んでいくのをたびたび目にしたが――もちろん、ときには「それは少々的外れな批判ではないか」と疑問を抱くこともあったが――確かに、自己著述型知性というのは、そうした「勇気」や「闘志」といわれるものと不可分に成立しているのだ。

 たとえば、ウィルバーは、集合規模で合理性段階の意識が共有されたとき、過去にはしばしば革命が発生したと述べているが(例:フランス革命)、自己著述型の知性には――少なくとも潜在的には――そうした破壊力と創造力が息づいているのである。

 こうしたこともあり、個人的には、成熟した思考というものは情熱に支えられた営みであるべきであり、また、われわれはみずからの思考をそのようなものにするために努力をする必要があると考えている。

 もちろん、ひとくちに情熱と言っても、その質感は人それぞれであろう(世界には熱い情熱も冷たい情熱もある)。

 ただ、われわれは、自己著述型知性を獲得するうえで、それを情熱を伴うものとして完成させていけるように心懸ける必要があるように思うのだ。

 しかし、まさにこの点において、今日、われわれは社会的に大きな障害に直面しているように思われるのである。

 

フラットランド

 『進化の構造』(Sex, Ecology, Spirituality)(1995)の中で指摘されているように、今日において、合理性段階の精神は、「フラットランド」(質の喪失と量の絶対化)の病理に冒され、数値的・感覚的な目標の追求に半ば完全に呪縛されている。

 真に追求に価する目標とは、数値的に測定可能、あるいは、感覚的に捕捉可能なものであるべきだという価値観に呪縛されてしまっているのである。

 そのため、合理性段階の精神は、その目標を量的な成果を獲得することに置くことしかできず(例:売上)、際限のない拡張と膨張の衝動に囚われた状態に絡めとられている(c.f., instrumental rationality)。

 結果として、大多数の人々が「夢」というものをそうした量的な成長の物語の延長線上にしか語れなくなってしまっている(例:経済成長を無条件に礼賛する発想)。

 学生時代を終えて、いったん実務者としての生活がはじまると、どうしても実務的な課題や問題に対処することに忙殺されてしまうことになる。

 そこで突きつけられる課題や問題がどれほど複雑なものであろうと、空間そのものがフラットランド的な価値観に覆い尽くされているなかでは、単にそれらに対応するための能力を鍛錬するだけでは(例:MBA)、真に本質的な問題に関する思索や洞察を深めることができないままに終わることになるだろう。

 結局のところ、すべては営利活動の論理のなかに収束していき、そこから逸脱する価値や論点は排除(無意識化)されることになるのである。

 端的に言えば、実務領域のなかで求められる能力を開発することに集中しているだけでは、自己著述型の知性は量化の精神に呪縛されたものになってしまうのである。

 合理性段階の知性の萌芽は、早い場合には、思春期に芽生えはじめるが、実際にそれが堅牢なものになるのは、大多数の場合には、成人期を迎えてからのことだろう。

 しかし、そうした重要な時期においてあたえられる支援と挑戦の大半がフラットランド的な価値観に支配されているために、自己著述型の知性はしばしば歪な形態で完成されてしまうことになる。

 また、社会のなかで自己著述型の知性の体現者として指導者的な立場にある人々の大多数がフラットランド的な価値観の熱烈な信奉者であるために、人格形成期の只中にある若者は否応なしにその影響下で知性を鍛錬することを強いられることになる。

 このために、いつの間にかわれわれは儲ける夢しか思い描けなくなってしまうのである。

 

支援者に突きつけられているもの

 今日、成人の発達支援に携わる関係者が直面する課題のひとつは、自己著述型の知性を涵養するための適切な支援と挑戦を提供することにあるが、上記のように社会空間そのものが病理化しているために、よほど注意をしないと、知らず知らずのうちに歪な形態の自己著述型知性の乱造に加担してしまうことになる。

 聞くところによると、日本の教育も、「知識の消費者」の大量生産に邁進してきたこれまでの方針を転換して、今後は「知識の創造者」を育成しようと検討を進めているという。

 しかし、そこで問題となるのは、そうした施策の背景には、人間の教育と成長を経済成長の道具として位置づけるフラットランドのイデオロギーが強力に息づいているということである。

 そうした文脈においては、自己著述型知性を鍛錬するための行為そのものが、フラットランド・イデオロギーの強い影響下に置かれてしまい、そうしたイデオロギーを受容・実践することが、自己著述型知性を習得することと不可分のものとされてしまう可能性があるのである。

 その意味では、健全な自己著述型の知性を集合規模で涵養するための方法を真剣に模索することは――そうした活動が財界の影響の下に動きはじめているがゆえに――非常に重要な課題である。

 ただ、残念ながら、状況はまったく楽観を許さないところまで進んでいるようで、フラットランドのイデオロギーに心酔する自己著述型の知性はひろく蔓延して、現代における合理精神の在り方を強烈に規定しているようである。

 たとえば、経営思想書を宗教書・哲学書のように崇めて熱心に読む老若男女の姿はそのことを示唆して余りあるといえる。

 こうした状況においては、自己著述型の知性を特徴づける情熱は、往々にして、金儲けに傾注されることになってしまう。

 このようなことでは、たとえこれから大量の知識の生産者が生みだされることになるとしても、結局のところ、彼等は、みずからの知性が潜在させている批判精神を育んで、同時代の人々が興じる「ゲーム」の妥当性そのものを批判的に問おうとする勇気や闘志を涵養することはないままに終わってしまうことだろう。

 知識は利己的な利益を追求するための資材として私物化され、「知る」ことに伴う社会的な責任は疎かにされることになるのである。

 こうしたことを考慮すると、まさに現代においてこそ、自己著述型知性の基礎を構築するための空間となる高等教育機関は、フラットランドのイデオロギーから可能な限り解放されたものとなる必要があるといえないだろうか……。

 そうした条件が保障されていればこそ、自己著述型の知性は、真の意味で夢を視るための能力を獲得して、現実に果敢に対峙するための勇気と闘志を個人に授けることができるようになると思うのである。

統合の方法について:研究会メモ

いわゆる統合的な思考や発想を可能とするVision Logicといわれる意識(認知構造)に関しては、一般的には、単純に対立する視点や立場を融合できるものであるとする理解がみうけられるが、実は、ここでいう「統合」の要となるのは、単に異なる視点や立場を融合するということではなく、それらの視点や立場がそもそもいかなる構造や文脈にもとづいて成立しているのかということに関する洞察であることは、総じて看過されているようである。
つまり、重要なことは、単に対立しているようにみえる立場や視点を調停・統合できることではなく、それらの個々の立場や視点が対立するものとして存立しているそもそもの条件に目を向けて、その枠組そのものを批判的に眺めることができるにようになるということなのである。
実際には、世界には調停・統合できない立場や視点も存在するし、また、たとえそれらを調停・統合できたとしても、それらのいずれもが看過している重要な課題や問題が網羅されていないために、結局、完成された統合的な理解そのものが深刻な欠陥を内蔵したものに終わるということがある。
Vision Logicとは、こうした単純な足し算的な発想を超克するものである。
そして、そのために、それぞれの立場や視点が成立させている文脈そのものに意識を向けるのである。
先日、天野 統康さんを御迎えして開催したIntegral Japan研究会では、こんな問題意識を深めるうえでの、貴重な洞察がいくつも得られたので、ここで簡単にそのときのメモを共有しておきたいと思う。

 

対立構造について
社会の中で対立構造が存在するときには、そのいずれかに安易に与するのではなく、それが真に意識化されるべき対立構造を隠蔽するものとして機能していないかを問うこと。
たとえば、マルクス主義は、資本家と労働者の間の階級闘争に焦点をあてたが、結果として、それは真に人々が問題視すべき問題にたいする目眩ましとして働いた可能性はないのか?
共同体の中に対立構造があり、そこで烈しい緊張や衝突が生じているときには、そうした構造そのものが「分割統治」(divide and conquer)の発想にもとづいて作為的に演出されたものであるかもしれないことに思いを馳せること。

 

弁証法的なダイナミクスについて
世界とは本質的に弁証法的なダイナミクスにもとづいて展開していくところであるという。
もしそうであるならば、智慧ある者達は、そうしたダイナミクスに抗おうとするのではなく、それを誘導することが肝となることを心得ているはずである。
そのためには、弁証法的なダイナミクスの両極(thesisとantithesis)を担う「役者」を用意して、それぞれの活動を支援すればいいということになる。
また、それぞれの立場の発想が洗練されて、それなりに説得力をもつものになれば、両極の間に発生する論争は、熾烈なものとなり、また、容易に解決されえないものとなる。
くわえて、こうした論争が派手なものとなり、ひとつの高級な「娯楽」として成立すれば(例:娯楽としての討論番組)、それが煙幕となり、大衆の目は真に意識化されて探求されるべき本質的な問題からは逸らされることになる。
その意味では、「情報リテラシー」を涵養するためには、巷で言われるように、単純に対立する立場の両方を理解しようとするだけではなく、両方の立場が無意識化している真実がある可能性に留意する必要がある。
両極間の弁証法的な統合が真の解決をもたらしえない場合には、それらの極(立場)そのものが偽りのものである可能性を考慮しなければならないのである。
表面的には緊張状態にある両極の関係者は、しばしば、ことのほかみずからの置かれている対立構造を維持することに熱心である。
彼等が真に対立構造そのものを超克して、真の弁証法的な解決の実現を意図しているか否かは、既存の対立構造にたいする執着のありようを診れば理解されるだろう。

 

顕教と密教
他の領域においてそうであるように、社会の統治においても、顕教(exoteric)と密教(esoteric)が存在する。
たとえば、宗教学においては、Ken Wilberが指摘するように、意識の垂直的変容に関する訓えとしての密教と主に意識の水平的な変化を援助する顕教が存在するが、それらは本質的に異なる志向性を有するものである。
同じように、社会の統治においても、支配層の中で「密教」が伝承され、それが改良をくわえられながら実践されていると想定すべきである(実際、Richard Wernerは、日本銀行の関係者からそうしたことを聞いているという)。
ただし、重要なことは、密教といわれるものが必ずしも難解なものであるとは限らないということである。
実は顕教以上にシンプルなものである可能性さえある。
しかし、真実は難解であると思い込まされている者には、それはしばしば見過ごされることになる。
密教の目的が、顕教の信奉者が密教の存在に気づかないようにすることにあるのだとすれば――そして、顕教の枠組の中でしか発想しないようにすることにあるのだとすれば――その場合には、情報を隠すのではなく、それらをどれほど総合しても全体像(構造や仕組や機関)に関する正しい理解に辿りつかないような偽りの理論をあたえることが必要となる。
情報は隠していないのだから、それは隠避にはあたらない。
人々には自由な情報へのアクセスを許容しつつ、それが真実の認識に至らないように、権威とされる理論を操作すればいいのである。
また、そうして流布される理論は、完全に誤りのものではなく、それなりに正しいものである必要がある。
その理論にもとづいて状況を理解しようとすれば、それなりに謎を解明できるようには思われるが、ただし、どこか釈然としないところが残るくらいでいいのである。
とりあえず、ある程度は状況を理解できているという感覚をあたえることができればいいのである(あるいは、「現実とはそう簡単に理解できるものではなく、さらなる調査や研究が必要とされるのだ」と「謙虚」にひとりごちれるくらいの納得感をあたえることができればいいのである)。
必然的に、教育においては、真の納得感を得ることの重要性を伝えるのではなく、理解できなくても、とりあえず理解できたふりをする「器用」さを涵養することが奨励されることになる。
「納得できない」「腑に落ちない」「釈然としない」等の内なる声を尊重するのではなく、てきぱきと情報を吸収・処理できるようになることを教育の目的とすることが肝要となる(いわゆる「東大話法」の蔓延は、こうした教育の必然的な結果である)。
逆に言えば、こうした状況を克服するためには、抜本的な変革が必要とされるのではなく、真に納得できるまではみずからの頭で思考と探求を執念深くつづけるという能力だけが必要とされるといえる。

 

世論の分断と無関心の醸成
民主主義体制においては、社会にたいして選択肢を示してそれを自由に選ばせる必要があるが、そのときに極端な二つの選択肢を示すと、人々はそのどちらも選ぶことができなくなり、結果として、投票を放棄したり、無関心になったりする(disenfranchisement)。
また、このときに、それぞれの選択肢の内容を理解するためにある程度の専門的な知識を有していることを必須条件とすると、大多数の人々は諸々の議題についてどう考えればいいのか判らなくなり、結果として、無関心な状態に陥ることになる。
民主主義が機能するための要は、すべてを平易にすることにあるはずだが、現在はそれとは反対の方向に状況が進んでおり、結果として、多数のひとびとが恒常的に混乱させられている。
実際、今日、社会には膨大な情報が流通しているが、それらに関して少しふみこんだ理解を得ようとすると、高学歴のひとでさえ、たいへんな苦労をすることになる。
こうした状況はまさに世論の分断と無関心の醸成を深刻化するための絶好の状況ということができるだろう。
まさに『危険社会』の中でウルリヒ・ベックが指摘しているように……。