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Virtuoso Youth Orchestra 第6回定期演奏会

代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで開催されたVirtuoso Youth Orchestraの第6回定期演奏会を聴いてきた、
今年の聴き納めとなる演奏会である。
目当ては、前回の日本音楽コンクールで優勝した大関 万結さんの協奏曲だが、今回は、それに華を添えるように、荒井 里桜さんと関 朋岳さんという日本音楽コンクールと東京音楽コンクールの覇者がオーケストラに名を連ねている。

今日は晴れていたこともあり、JRの原宿駅を降りて、明治神宮の森林を歩いて会場まで行ったのだが、神域特有の清澄な空気が流れていて、意識が浄化されるような感覚をあじわい、会場入りすることができた。
演奏会の会場の音響は必ずしもいいものではないのだが、何度も落涙してしまうほどに充実した演奏会だった。
また、将来、日本の音楽界の支えていく素晴らしい演奏家達の熱演に包まれながら、静かな幸福感に満たされた。

あらためて振り返ると、先ず指揮を担当した大森 大輝さんに大きな拍手を送りたい。また、今回の実に興味深い曲目を構成した、そのセンスの良さにも。
今 年間に30〜40回程の演奏会を聴くが、企画側がその演奏会をどのようなコンセプトにもとづいて構成しているのかということについて明言されることは、ほとんどない。
ときには、それらしい作品を前半と後半に漫然と並べて演奏会を構成してしまっているように思われることもある。
そうしたものとくらべると、今日の演奏会は全体を貫くコンセプトが明確であり、また、個々の作品の内容も演奏も非常に充実していた。
とりわけ、最初の「前奏曲と愛の死」〜「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)は、冒頭のチェロの深い音色にはじまり、最後まで心を鷲掴みにされ、この作品がこれほどまでに魅力的なものであることをあらためておしえられた。
また、「アダージョ」〜「交響曲第10番」(マーラー)は、並外れた実験精神を体感させてくれる充実の演奏で、聴きながら、作曲家が実は心身共に非常に充実しており、さらなる音楽表現の地平を開こうとしていたことを実感することができた。

後半のメンデルスゾンの協奏曲のソリストとして登場した大関 万結さんのバイオリンであるが、東京オペラ・シティで演奏されたあのシベリウスの協奏曲で示した美質がさらに際立って発揮された演奏だった。
ひとことで言えば、それは芯に鋼が通っているかのような緊張感漲る求道的な音で、そこには強靭な意志で自己を高めて演奏行為に臨む奏者の真摯な姿勢が実感できる。
また、舞台上の存在感も実に堂々としたもので、それが弱冠18歳の奏者のものとは到底思えない。
いっぽう、今回のような作品においては、そうしたアプローチだけでは処することができない要素があるのも事実であり、個人的には、第3楽章でほんの僅かのあいだ垣間見せてくれた情熱的なエロスをもっともっと開放していいのではないかという感想をいだいた。
いずれにしても、個人的には、大関さんの場合には、表現者としての自己の特性を深く理解したうえで、演奏者としての個性を確立しているように思われるので、今後は、真の自己の魅力を発揮させてくれる作品と出逢うと共にそうした個性に深化と変容をもたらしてくれる異質性を自己の内に育んでいくべき段階を迎えているのではないだろうか……。

ともあれ、同世代のバイオリニストとしては、奇しくも今日舞台に昇った、荒井 里桜さんと大関 万結さんが注目すべき才能だと思っている。
二人のスタイルは大きく異なるが、共に舞台人に必要な華をそなえている演奏者であり、今後がどのような深化を遂げていくのか非常にたのしみである。

スザンヌ・クック・グロイターの論文の邦訳

先日、翻訳者の門林 奨さんが、スザンヌ・クック・グロイター(Susanne Cook-Greuter)の論文を邦訳して、日本トランスパーソナル学会(JTA)の研究誌に寄稿してくださった。
今回、その論文を、JTAの許可を得て、Integral JapanのHPに掲載させていただいた。
2005年に発表されたものなので、に少し古いところはあるが、それでも、 “perspective taking”、即ち、視点を考慮する能力の向上が、個人の認知能力の発達にもたらす決定的な重要性を理解するには十分なものだと思う。
是非一読を御奨めしたい。

 

自我の発達:包容力を増してゆく9つの段階
スザンヌ・クック=グロイター著 / 門林 奨訳
http://integraljapan.net/articles/JTA2018EgoDevelopment.htm

「メタ」の濫用について

Harvard Graduate School of EducationでKurt FischerのもとでまなんだZachary Steinの論考は常に刺激溢れる洞察に富んでいる。

先日、blogで発表された下記の論考も面白いものだ。

 

Be Careful “Going Meta”—Metapolitical Practice (II)
http://www.zakstein.org/be-careful-going-meta-metapolitical-practice-ii/

 

近年、日本においても「メタ」という言葉が用いられるようになり(例:「メタ認知」)、とりわけ教育の領域においては、いわゆるメタ的な視座を涵養することを重要な目標のひとつとして位置づけているようである。
このように、基本的には「メタ」な発想をすることはいいことであると信じられているのだが、興味深いことに。ここでSteinはいわゆる「メタ」な視点を議論に持ち込むことに、われわれは慎重であるべきであると述べている。
即ち、「メタ」な視点を濫用すると、議論をするために必要となる前提条件そのものをひたすらに溶解させる危険性が生まれることになるのである。
また、同じように、それは論点を掏り替えための技術にもなる。
あいてが論点として設定していることを誠実にとりあうことを拒絶したいとき、この「メタ」な視点は便利な道具となるのである。

ケン・ウィルバーとロバート・キーガンのインタビュー(2004)

少し古いものになるが、ケン・ウィルバー(Ken Wilber)とロバート・キーガン(Robert Kegan)のインタビュー(2004)がYouTube上で無料公開されたので、御紹介したい。
https://youtu.be/sRzU1bDXQIs
ポスト・モダニズムの強い影響下にある今日のアカデミアにおいて「発達論」を研究することが政治的にいかに困難なことであるかということについて多くの時間が割かれている。
対話中に“normative”という言葉が登場するが、これは「規範的」と訳されるようだが、その意味するところは、複数の人間の意識の状態を比較して、ある状態を他の状態よりも“better”なものであると価値判断する態度という意味で理解しておけばいいと思う。
発達論は、そうした価値判断をすることを、人間を理解するうえで不可避的な要素として受容する理論であるといえるだろう。
しかし、こうした発想は、必然的に、「ある状態に向けて人間は成長をしていくべきである」という規範を主張するものとなるので、それを「科学」の名のもとに社会に強要するのは横暴であるという批判を招くことにもなる。
いわゆるポスト・モダニズムといわれる思想は、そうした批判を先鋭的に展開するわけだが、そうした発想がひろく浸透した今日のアカデミアにおいては、発達論を研究することそのものがどうしても難しくなる。
端的に言えば、価値判断をすることそのものが暴力につながるという価値相対主義の支配下においては、発達論等のnormativeな発想をする学問は常に攻撃に曝されることになるのである。
ウィルバーとキーガンは、こうした同時代の思想空間の中でどのように研究活動を舵取りしていくべきかということについて語っている。
もちろん、ポスト・モダニズムそのものも深刻な盲点をそなえていることは徐々に認識されはじめている。
そこには、「価値判断をするnormativeな発想よりも、そうした発想を否定する発想の方が優れている」という価値判断が息づいているわけで、端的に言えば、他者にたいして禁止していることを自らがしているのである(“performative contradiction”)。
ウィルバーとキーガンは、こうした自己矛盾をある発達段階の特徴のひとつとして位置づけ、それそのものは比較的に高度の認知構造にもとづいた発想ではあるが、最終的には超克されていくと述べているが、ただ、少なくとも、今日のアカデミアにおいては、こうしたポスト・モダニズムの価値相対主義が主流を占めているために、それよりも高次の段階に立脚した発想は、正にそれが価値相対主義を信奉しないがゆえに、熾烈な批判に曝されるのである。
ただし、
ウィルバーとキーガンの発言に関して
少し注意を喚起しておくべきことがあるとすれば、それは、彼等が往々にしてあまりにも無警戒に高次の発達段階を美化してしまうことだろう。
端的に言えば、彼等は「よりたくさんの人々が高次の発達段階を獲得すれば、社会の問題が解決されるはずだ」と言うのである。
しかし、高次の発達段階を獲得すれば、人間が必ずしも良心的になるという保証は無いし、また、視点取得能力が高まることで、たとえその可能性が高まるとしても、それが今日の社会制度の中で活用されるという保証はどこにもない。
むしろ、高次の認知能力を駆使して、自己、あるいは、自己の所属組織の利益をさらに巧みに追及するようになるだけに終わるという可能性もあるのである。
実際、今日の社会の支配層の極度の腐敗を診れば、認知構造の集合規模の高度化が社会の福利の向上に繋がるという主張があまり信憑性の無いことは窺いしれるのではないだろうか……。
たとえば、高次の認知構造にもとづいて発想されているとされる『ティール組織』(Reinventing Organization by Frédéric Laloux)等の知識が、結局のところ、来るべき時代の中で勝ち組となるための道具として受容されているに過ぎないという今日の状況を鑑みれば、いわゆる「高次」の「能力」や「知識」を半ば不可避的に横領してしまう現代社会の構造にたいして鋭いメスを挿れることなしには、個人の発達などというものが実際にはそれほどの意味を持たないことに気づくことができるだろう。

 

音楽大学オーケストラ・フェスティバル等

この時期には東京の音楽大学による演奏会が頻繁に開催される。とりわけ、川崎と池袋で開催される「音楽大学オーケストラ・フェスティバル」では、9つの音楽大学の在学生により編成されたオーケストラが集い共演をするのだが、これほどまでに組織化されたイベントは世界的にも珍しいもので、その充実度には感嘆させられる。総じて演奏の水準も高く、また、次世代を担う音楽家達の真摯な演奏には、どれほど擦れた音楽愛好家でも素朴な感動を覚えることだろう。
今年は、例年通り東京藝術大学が別次元の演奏を繰りひろげていたが、桐朋と国立と東音がそれに肉薄する気迫ある演奏で深い感動をもたらしてくれた。また、武蔵野音大の合唱団には圧倒的な感動をあたえられた。

 

11月25日(日曜日)

東京芸術劇場で上野学園大学と桐朋学園大学のオーケストラの演奏を聴く。共に見事な出来栄えだ。前者は、清水 醍輝の的確な指揮に支えられて、レスピーギとプロコフィエフの色彩的な娯楽曲を非の打ち所の無い合奏力で披露した。後者は、ホルストの『惑星』だが、舞台からあふれるほどの巨大編成を駆使して、正に大管弦楽曲を聴く醍醐味を満喫させてくれた。沼尻 竜典の指揮はきびきびとしたもので、オケは少し荒れ気味のところもあったが、そんなことをものともせず、巨大であり、また、ときに繊細で神秘的な音響の中に聴衆を惹きこんでいく。素晴らしい。

 

11月30日(金曜日)

東京オペラ・シティで武蔵野音楽大学管弦楽団&合唱団による第九の演奏会を聴いてきた。同僚の御子息が舞台に上がることもあり、その応援を兼ねて出かけたのだが、先週の川崎の演奏よりも、総じて練れた演奏になっていたと思う。終焉後の客席も大いに沸いていた。隣にいた男性の二人組は「これが学生の演奏とは到底思えない」と感激の言葉を交わしていた。
北原 幸男の指揮は基本的にインテンポで前進していくもので、個人的にはもう少しタメが欲しいと思われる個所があったが、その違和感も今日の方が少なかった(川崎の演奏を聴いたときには、全く共感できなかったのだが……)。
残念ながら、武蔵野音楽大学のオケは金管と木管が弱く、しばしば覚束ないところがあるので、聴いていて心配になるのだが、少なくとも今日は第3楽章のホルンの大きな事故もなく、無事に演奏をした。奏者の方も安心したのではないだろうか……。
この日の演奏で気を吐いていたのは、特にチェロ・セクションで、安定した弦楽セクションの中でも光っていた。
また、噂には聞いていたが、武蔵野音楽大学の合唱団は非常に素晴らしい。終楽章に合唱がはいると突然演奏の次元が上がる。
もちろん、川崎とくらべると、オペラ・シティは容量が少ないために、とりわけ第4楽章では、この優秀な合唱団の声が十分に壮麗に響きわたらないために魅力が減じてしまうのだが、そのようなことがほとんど気にならないほどの終楽章の充実度だ。
ソリストは、井出 壮志朗さんが突出しており、見事な歌唱を展開していた。鈴木 俊介さんもそれに次いで優れた歌を披露した。女声のソリストは少々苦戦していたようで、特にソプラノの山口 遥輝さんは声量的に少々無理があるのではないかと思った。
それにしても、この作品を聴いていると、各楽章があたかも宇宙に息づく元型的なダイナミクスを幾何学的に示した作品のように思われてくる。とりわけ第1〜3楽章はそうしたことを感じる。そして、第4楽章になると、人間の存在が前面に出てきて、人間と宇宙の元型の呼応が起きるのである。

 

12月1日(土曜日)

ミューザ川崎で昭和音楽大学・国立音楽大学・洗足学園音楽大学の在学生オーケストラの演奏会を聴いてきた。いずれにも優れた演奏で、会場は大いに沸いていた。 個人的にとりわけ感心したのは、国立音楽大学の演奏で、オーケストラのアンサンブルがまるで常設団体のそれのように非常に練れたものとなっており、この聴き慣れた作品(チャイコフスキーの交響曲第5番)にあらたな光を当てようとする追求力をそなえた名演に結実していた。現田 茂夫氏の解釈も、正にいっさいの手加減のないもので、芸術表現として徹底的にこだわりぬいたものだった。もちろん、小さな「事故」があるが、全体としてアンサンブルが非常に強靭で、全てのセクションの能力が高いレベルでバランスがとれていることが窺い知れた。確か、昨年の同イベントでは国立音大はブラームスの交響曲第2番を演奏したと記憶しているが、今年の出来はそれを大きく凌駕していた。
昭和音楽大学管弦楽団はリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』を演奏したが、これは、コンサート・ミストレスの淵野 日奈子さんが奏でる陶然とするような美音もあり、猛り狂う男性性とそれを慰撫する女性性が精妙に溶け合う実に素的な演奏となった。また、第1楽章と第4楽章はオーケストラが大きく咆哮する見せ場が連続することもあり、聴衆を魅了した。
いっぽう、個人的には、第2楽章と第3楽章に関しては、音の魅力そのものーー即ち、演奏者の芸術性そのもの――で勝負する必要がある楽章であるために、その点で演奏の訴求力が落ちたと感じた。特に第3楽章はもっともっと酔わせてほしいと思った。
指揮の斉藤 一郎氏の演奏は初めて接するが、何よりもテンポ設定が的確で、作品の濃厚な魅力を余すところなく演奏者から引き出していた。また、正面席から眺めていて、その動作そのものが音楽の中に息づく秩序をダイナミックに炙り出しているように思えた。才能のある指揮者なのだろう。
最後の洗足学園音楽大学管弦楽団はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」を演奏した。これも、名匠・秋山 和慶氏の指揮に支えられ、安定した演奏となった。ただ、このイベントでは、先に東京芸術大学のオーケストラが同曲を披露しており、どうしてもそれと比較されてしまうことになる。あの精妙で輝かしく、また、驚異的なまでにダイナミックな彼等の演奏とくらべると、今日の演奏は特色の薄いものに思えてしまう。もちろん、これはあくまでも比較の話なのだが……。
もちろん、これは指揮者の特色を反映したものでもあるのかもしれないが、総じて安全運転で、個人的には、こうした異形の作品であれば、もっともっと臨界点をこえた響きを聴かせてほしいと思った(たとえば、第5楽章のクライマックスなど)。

 

12月8日(土曜日)

広上 淳一の指揮を漸く生で聴くことができた(R. シュトラウスの『ツァラトゥストラ』)。東京芸術劇場で東京音楽大学の在学生のオーケストラを指揮したのだが、無難にまとめようとするのではなく、演奏者が「一線」を超えて表現力の限界に向けて挑むことができるように指揮をしていることが、その動作から明瞭に窺える。ライブにおいては、聴衆は正にそうした演奏を期待しているのだし、また、演奏者は、たとえどれほど経験を積み重ねたベテランであろうとも、そうした演奏をとおして自己の能力をひろげていくことができるわけで、広上氏がこれほど高く評価されているのには、当然の理由があるのである。
個人的には、数年前に同会場で聴いたスタニスラフ・スクロヴァチェフスキの演奏よりも、曲の魅力が素直に届いてきた。
もちろん、この作品は、オーケストラが巨大な咆哮をあげる箇所があるかと思うと、個々の演奏者の技量を求める室内楽的な個所も頻繁にあるので、東京音楽大学の在学生達は、特に金管・木管に小さな事故を頻発させていたが、そうした技術的な未熟さを補ってあまるほどの情熱を湛えていた。ほぼ満席の聴衆にあれほどの感動をもたらしていたということそのものが成功の証といえるのではないか……。
いっぽう、東邦音楽大学は、大友 直人の指揮でサン・サーンスの交響曲第3番を演奏したが、こちらは、この指揮者の特徴でもあるのだろうが、常に余力を残した演奏を心懸けるものだった。個人的には、表現の限界に果敢に挑む演奏の方が断然好きではあるが、この作品そのものが神聖な息吹が涼やかに空間を満たしているような透明な響きを常に漂わせるものであるだけに、こうした「大人」の演奏も説得力があると思った(実際あれほど壮麗な響きを生み出す作品でありながら、それほど大きな編成でないことが驚きで、この作曲家の達者振りに畏敬の念を抱いた)。

 

12月8日(土曜日)

東京芸術劇場で東京音楽大学の在学生のオーケストラ(TCO Symphony Orchestra)を聴いた。前半はモーツァルトの交響曲第35番とジョリヴェの打楽器協奏曲、後半はR. シュトラウスの「ツァラトゥストラ」そして、アンコールは、ブラームスの「悲劇的序曲」という構成である。
先週、同じ会場で「ツァラトゥストラ」は聴いていたが、そのときの演奏よりも練度が上がっていた。とりわけホルン・セクションが大健闘しており、演奏全体を通じて響きの官能性を高めるのに大きな貢献を果たしていたと思う。また、各弦セクションのトップが互いに絡みある室内楽的な箇所では、各奏者が確かな技術で美しい旋律を切々と奏でていた。第2部冒頭近くのトランペット・ソロに小さな事故が続いたのが少々残念ではあったが、全体としては非常に見事な演奏だったと思う。また、広上 淳一氏の指揮も優れたもので、響きを過度に膨張させないように心気味引き絞りながら、尚且つ全強奏の部分では、あたかもオーケストラ全体が呼吸をするように有機的に巨大な響きを生み出していた。冒頭の「日の出」の箇所では、オーケストラが最後に爆発するまえに一瞬のあいだ静まるのだが、そのダイナミクスには心の底から震えた。
前半のハイライトはジョリヴェの協奏曲だろう。ソリストの吉永 優香さんが正に七面六臂の活躍で、舞台の前に並べられた様々な打楽器を次々と持ち替えて演奏していく。打楽器奏者の腕前を披露するためのショー・ピースとして素朴にたのしませていただいたが、こういう視覚的なたのしさはライブでないとあじわうことはできない。
近年、コントラバスが8本はいるモーツァルトは聴くことができないので、それはそれで期待していたのだが、如何せん作品との相性が悪く、最後までたのしめずに終わった。
いずれにしても、非常に充実した演奏会だった。また、客席は8〜9割埋まっていて、この二時間以上にわたる演奏会中、大きな騒音を立てることもなく、実に集中して聴いていた。季節柄、演奏会に行くと周囲の騒音に悩まさられることが多いのだが、この日はそういうことがなかったのも、嬉しかった。

 

目も眩むような清澄な音響:東京藝大シンフォニー・オーケストラ定期演奏会

昨日、東京藝術大学の奏楽堂で開催された東京藝大シンフォニー・オーケストラの演奏会を聴いてきた。

 

https://www.geidai.ac.jp/container/sogakudo/67940.html


在学生により編成される団体だが、その技術の高さは驚異的で、また、この時期にしか生み出すことのできない清澄な音響が、プロの演奏では気づけなかつた作品の魅力を示してくれる。
数年前に、このオーケストラでショスタコーヴィッチの交響曲第8番を聴いたときには、その途轍もない凄演に度肝を抜かれた。
それは、その数週間前にロンドンで聴いたサイモン・ラトルの指揮するロンドン交響楽団の演奏の感動を大きく凌駕するほどものだった。
それ以来、この定期演奏会は非常にたのしみにしている。
昨日は、梅田 俊明の指揮により、ベートーヴェンの交響曲第4番とバルトークの『管弦楽のための協奏曲』が演奏されたが、どちらも実に優れた演奏だった。
もう少し音量が欲しいと感じるところはあるのだが、作品に内在する魅力を「素のまま」に伝えてくれる演奏に感動した。
とりわけ、ベートーヴェンのような古典を演奏すると、演奏者の「素性」が問われることになるが、そうした意味では、演奏者の品格の高さに目の眩むような思いをした。
この作品は、後半の第3楽章と第4楽章が内容的に下ちるので、その弱点が補われずにありのままに表現されてしまう嫌いはあるが、いっぽう、第1楽章と第2楽章では、作曲家の逡巡と苦悩と飛躍が現在進行形のリアリティを伴って非常に生き生きと表現される。
これには心を深く揺り動かされた。
後半のバルトークは、奇しくも、しばらくまえにロンドンのRoyal College of Musicの在学生の演奏を聴いているが、比較すると、音量では劣るものの、その輝かしい金管群を中心として、技量的にはひとつ上をいっている。
鮮明で迫力がありながら、同時に、音と音が潰し合わず壮麗に交響をしている。
また、作品の把握の的確さでも、梅田氏の指導もあるのだろうが、作品の意味がグイグイと伝わってくる見事なものだった。
聖なるもの卑なるものが隣り合わせに織り合いながら展開していくこの作品に耳を傾けていると、自己の内に沸きあがる心の動きを過度に対象化できてしまうがゆえに、それに純朴に浸りきることができないという現代人が抱える難しさを思い知らされる。
圧倒的な暴力を前にして、美を奏でることに果たして何の意味があるのか……? とはよく言われることだが、その意味では、20世紀の二回の大戦における大量虐殺というのは、人類の精神を破壊するうえで、正に途轍もない魔術的な遺産を残したのだな……と思う。

ボストン〜東京

Boston Symphony Hallでボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra・BSO)の定期演奏会を聴いてきた。指揮はアンドリス・ネルソンス(Andris Nelsons)。

https://www.bso.org/Performance/Detail/96114/

急遽ボストンに出張することになり、タイミングが合えばBSOを聴きたいと思っていたのだが、幸いにもチャイコフスキーとショスタコーヴィチを中心としたロシア・プログラムを満喫することができた。
MITに隣接する宿から、散歩がてらHarvard Bridgeを渡って会場まで歩いたのだが、酷寒の中、結局1時間程も歩くことになってしまった。「もうボストンは真冬ですよ」と同僚から警告を受けていたのだが、それを真に受けず、「東京より少し寒いくらいなのだろう」と甘くみていたのが災いした。結局、こちらで防寒具を買うはめになった。
ボックス・オフィスに辿りついて、券を求めると、何と1階席後方の席(DD3)が$10で購入できた。いわゆる「rush券」というそうなのだが、演奏会の当日に売れ残っている券を安値で売りだしているようなのだ。$50〜60くらいは覚悟していたので、これには助かった。日本でも真似をすればいいのに…… と思う。
それにしても、Boston Symphony Hallは――いい意味でも悪い意味でも――歴史を感じさせる演奏会場である。大編成のオーケストラを収容するにはあまりにも舞台は狭く、また、音響効果(残響)も実に素気ない。音響特性に優れた東京の銘会場と比べるまでもない。
また、聴衆(定期会員)の年齢層が非常に高いことに驚かされた。印象としては、平均年齢は75歳くらい。周囲を見渡すと、歩行に難儀している老人ばかりで、若い世代の聴衆がほとんどみあたらない。日本の聴衆が高齢化していることに関して、あちこちで危機が叫ばれているが、それとは別次元の過酷な現実を前にして、言葉を失った。
さらには聴衆の何とにぎやかなこと。会場の席が革張りであるために、少し姿勢を変えるだけでゴソゴソと音がするのだが、それ以外の音があちこちで絶え間なくしてくる。演奏中であるにもかかわらず、連れと話をしたり、鞄から物をとりだしたり、携帯電話の電子音がしたり……と実ににぎやかである。東京の演奏会では、これほどの騒音に曝されることはほとんどないので、まあ、新鮮といえば新鮮である。「大らか」ともいえるかもしれない。
また、面白いことに、オーケストラの団員の舞台上の振舞いも和やかである。演奏が終わり、聴衆が拍手をはじめると、あまり聴衆の方を見ずに互いにおしゃべりをはじめる。ネルソンスも、それほど生真面目に礼をしない。
何とも大らかだなあと思う。
また、休憩時間には、隣の席の客が話しかけてくる。「妻が死んで定期公演に脚を運びはじめて、もうかれこれ19年にもなるんだ」という老人が左にいる。右には、オウストラリアから移住してきたという女性の方がいて、「ほんとうはバレイが好きなのだけど、BSOも素晴らしいわ」と話しかけてくる。後方には、アジア系の若い「クラシック・オタク」の青年が座っているのだが、定期会員の老人が「若者の隣に座れるというのは何とも幸運だなあ〜」と言いながら着席している。また、もう少し後ろでは、高齢の女性が係の女性に「あの騒音を立てていた人に注意をしたら、逆に意地悪をされたの。許せない。思い知らせてやるわ」と意気込んでいる。
いやはや……。
ところで、演奏であるが、アンドリス・ネルソンスという指揮者の特性を少し理解できた気がした。Shawn Murphyの優秀録音に支えられて、このところBSOのCDは非常に好評で、それらはひととおり耳にしているのだが、こうして実際に会場で耳にしても、その印象は変わらない。
ネルソンスの指揮は、奏者を厳格に統制しようとするタイプのものではなく、むしろ、それぞれの奏者が楽器の魅力を最大限に表現できるように、構えの大きな場造りをする。そのために、それぞれの楽器は決して痩せることなく、オーケストラは全体として骨太の音響を生み出すことになる。その迫力は、在京の団体からは聞けない類のものである。
ネルソンスの音楽に寂寥感のようなものは希薄ではあるが、それと引き換えに、肉汁の滴るような充実した響きが実現されるのである。
その指揮振りは決して流麗なものではないが、聴衆に演奏者が音楽をすることの歓びを満喫していることが伝わってくる気持ちのいいものである。指揮法云々の前に、ネルソンスという指揮者が自己の音楽性に正直であることがみてとれるために、それが今後どう深化していくのかということに関して自然と期待をいだかせるのである。それは若くして交通整理術に長けてしまい、それで評価されてしまった指揮者には無い魅力である。
冒頭のAndris Dzenitisの“Mara”という作品は、1970〜1980年代にJerry Goldsmithが書いていた諸作品(例:Capricorn OneやOutland)を想起させる作品で、比較的に耳に心地のいい響きがサスペンス映画用の音楽のように続いていく。実際、何の情報もなしに、「これはJerry Goldsmithが演奏会用に書いた作品なのです」と紹介されたら、ほとんど人が素直に信じてしまうのではないだろうか……。
ショスタコーヴィチの交響曲第1番を生で聴くのは初めてのことだが、10代後半の青年が既に達人の域の達していたことを立証する恐るべき作品だと思った。対極的ともいえる様々な感情が作品の中に包含されているのはショスタコーヴィチの特徴であるが、何よりも作品に力みがなく、常に軽みが息づいていることに、ひたすら感服する。生真面目になろうとする自己を常に達観してみつめている眼差しとそこから生みだされてくる「諧謔」(ゆるみ)に世界との向き合い方そのものをおしえられる思いである。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の第2幕は、ただひたすらに美しい旋律が続く、銘旋律の宝庫である。そんな耳の御馳走をいただきながら、同時に、こうした人間離れした作曲を成し遂げたチャイコフスキーという作曲家の凄さを思い知らされた。

 

 

BSOの演奏会の翌日は、ボストン美術館(Boston Museum of Fine Arts)で半日ほど過ごしてきた。
$25であれだけの規模の施設に入れるのは妥当な価格設定だと思う。
また、ロンドンの美術館は入館料を徴収しないので、会場が荒れ気味になるが、これくらい「しっかり」と徴収するのはいいことだと思う。
「美術館」という名称ではあるが、実際は、日本で言うところの「博物館」と「美術館」を合わせたもので、純粋な西洋美術作品の所蔵量はそれほど膨大なものではない(もちろん、日本の美術館とくらべると桁外れだが)。
個人的には、期待していた現代美術(Contemporary Artの2階、及び、Art of Americasの3階に所蔵)があまり面白くないことが印象的だった。
「芸術というのは、これほどまでに解釈する努力を鑑賞者に要求するものなのか……?」という素朴な疑問が沸くのである。
作品と出逢う瞬間、その作品そのものが発してくる「存在感」のようなものが希薄であると、そうした解釈をしようとする意志そのものが沸いてこないのだが、大多数の作品は、そうしたことを棚にあげて、鑑賞者に努力を求めてくるように思う。
たとえば、Stuart DavisのHot Still-Scape for Six Colors-7th Avenue Styleという作品がハイライトとして展示されていて、係の女性が作品の前で講義をしていたが、その説明があまりにも「ひとりよがり」なものに思える。
端的に言えば、作品の芸術性が問われるのではなく、それを意味づける鑑賞者のエクササイズが中心に置かれてしまっているように思うのである。
Pablo Picasso・Jackson Pollock・Georgia O'Keeffe等、有名な作家の作品が陳列されていたが、Picassoの作品を除けば、作品の圧倒的な存在感に打たれるという感覚は得られなかった。
ただし、今回はフランスの印象派の傑作が数多く展示されていて、それらには心を動かされた。
それらの作品に描かれた人間は、「個」としての個性を剥ぎとられ、純粋な人間として抽象化されていくのだが、そこには鑑賞者が共感できる普遍性が息づいている。
鑑賞者はそこに自己の人生を投影できるために、自然といろいろな情緒を味わうことができるのである。
こうした作品を眺めたあとに、現代美術の会場で、特に写真をはじめとする人物描写を眺めていると不思議なことに気づかされる。
生きている人物の写真の場合には、確かにそこに被写体の個性が刻印されているのだが、同時にそれらの個性が虚構の個性であることを実感させられる。
今日において、「個性的であること」は実質的に全ての者を呪縛する強迫観念である。
そして、人々は、好むと好まざるとにかかわらず、エネルギーを傾注して「個性的」であろうと懸命の努力を重ねる。
しかし、それらの努力は、正に外的な操作のもとに行われているのであるために、「虚ろ」なものを茫漠と伴うことになる。
それぞれの個性を並べて眺めてみると、それらがいずれも虚構性を内包していることが照明されるのである。
具体の中に息づく普遍性を暴きだすという、こうした洞察力には感心する。

 

 

帰国の前日、同僚と一緒にHarvard Squareに近くにあるジャズ・バーでライヴを聴いた。

http://www.getshowtix.com/regattabar/moreinfo.cgi?id=4008

同僚は昔ハーヴァード大学に留学していたときに、しばしばここに通って来ていたという。
東京でアマチュアのジャズのライヴは聴いたことはあるのだが、こうした本格的なプロのアーティストによるライヴを聴くのは実は初めて。
そのあまりの愉しさに圧倒された。
Gunhild Carlingはスウェーデンのアーティストで、歌だけでなく、トロンボーン、トランペット、リコーダー、バグパイプ等の楽器を次々に持ち替え、舞台の上を縦横無尽に舞いながら(ときにはタップ・ダンスをしながら)、古典作品と自作品を織り交ぜて演奏する。
その演奏を至近距離で聴く迫力は途轍もないものだ。
また、「次は何が聴きたい?」と聴衆に訊きながら、舞台を構成していくというのも、実に面白い。
90分程というそれなりに長い舞台だが、これほどまでに躍動的なパフォーマンスを、1〜2回の短い休憩を挿入するだけで、こなすパワーは凄いものである。
ところで、個人的にとりわけ印象的に感じたのは、演奏家の立ち位置が、クラシック音楽におけるそれとくらべて、大きく異なるということである。
クラシックの場合には、演奏者はまずは作品の前に謙虚になり、それに尽くすことが求められるが、ジャズの場合には、演奏行為の中心にあるのは演奏者そのものである。
そこには演奏者の徹底した自己肯定があり、それを曝け出すことが求められるように思う。
もちろん、ジャズの素人なので、全てのジャズ・アーティストがそうだと言うことはできないのだが、少なくともクラシックの世界でここまでの自己肯定・自己表現が許されるとは到底思えないのである。
そこには音楽というものにたいする質的に全く異なるアプローチがある。
そして、もうひとつ新鮮に感じたのは、ジャズという音楽の中に息づく「下降衝動」の治癒的効果である。
クラシック音楽には多かれ少なかれ超越性(上昇衝動)が息づいており、また、演奏者も自己の存在を高めてそれを表現しようとする克己のダイナミクスが働くものだが、ジャズの世界には、むしろ、積極的に下降していこうとする頽廃的な背徳的な衝動が息づいている。
いうまでもなく、上昇衝動は、ときとして、自己の人間としての「ありのまま」拒否しようとする抑圧を伴うことになるものだ。
クラシック音楽を堅苦しいものにしている要因は、ひとつにはそのあたりにありそうだが、こうした下降を積極的に受容する音楽には、そうした音楽には欠けている癒しがあることが実感される。
少なくとも、Gunhild Carlingのパフォーマンスには、その傑出した愉悦の中に諦念や自暴自棄や寂寥を潜ませるもので、個人的にはあたらしい音楽の楽しみ方をおしえてもらったような気さえしている。

 

 

ボストン出発の日は東部が嵐に見舞われて、飛行機の運航に混乱が生じ、経路や到着地が変更されたが、何とか無事に帰国できた。
24時間以上も移動をするというのは大変である。
帰国の翌日に新日本フィルハーモニーの定期公演券を買ってあったので、脚を運んだ。

 

 

すみだトリフォニーで新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いた。

https://www.njp.or.jp/concerts/3358

演目はブラームスの協奏曲と交響曲(共に第2番)である。指揮はローレンス・フォスター(Lawrence Foster)。数多くの協奏曲の伴奏録音でしられる指揮者である。率直な印象は、実に箱庭的な音楽造りをする無個性の音楽家だな――というものである。音楽に訴求力が無く、前半はまだしも、後半は完全に退屈してしまった。もちろん、新日本フィルの上質な美音は健在で、指揮者の個性が希薄であるがゆえに、そうした美質が素のままで聞こえてくるのだが、ただ、40分に及ぶ交響曲をそれだけで聞かせるのは無理がある。終演後、団員はこの老指揮者を和気藹々に讃えていたが、果たしてこうした演奏家と共演することでオーケストラの能力が高まるのか? という疑問が沸いてくる。少なくとも、それまでになかった表現力を授けてくれる指揮者には到底思えないのである。このオーケストラのファンとして、こうした定期公演でオーケストラが自己の表現力を少しでも高めようと格闘している姿を観たいものである。音楽監督の上岡 敏之氏の音楽性があまりにも優れているので、こうして招聘される指揮者が見劣りしてしまうのは致し方ないのかもしれないが、今日の演奏会を聴いて、もう少し事務局には奮闘をしてもらいたいと思った。この素晴らしい会場でこの素晴らしいオーケストラを聴いて、こういう空虚な想いをしたのは初めてのことである。
尚、協奏曲のソリストのヨーゼフ・モーグ(Joseph Moog)は中性的な音楽を奏でるピアニストで、はじめのうちはその清潔な美音に魅惑されるが、作品の魅力を深く掘り下げてくれるものでもないので、これだけの傑作であっても、徐々に飽きてくる。
ブラームスは本質的に超越性が希薄な作曲家だと思うが、今日の演奏会のように、演奏家の個性的な魅力により、そこにあらたな価値を付与しようとする意志が弱いと、途端に凡庸な作曲家に思えてくる。

 

日本音楽コンクール バイオリン部門本選を聴いて

昨日は東京オペラ・シティで日本音楽コンクールのバイオリン部門本選を聴いてきた。
個人的には、東京音楽コンクールの覇者の荒井 里桜さんと関 朋岳さんの激突となると予想して、楽しみにしていたのだが、結果は、4人の参加者の中で荒井 里桜さんがあらゆる意味で別次元の名演を展開し優勝した。
東京文化会館で聴いた荒井さんのチャイコフスキー、そして、関さんのシベリウスは共に途轍もない名演で、この二人の演奏家の存在を強烈に心に焼きつけられたものだが、いまあらためて振り返ると、あのときの演奏は彼等の演奏家としての素のままの姿を表現したものだといえると思う。
生まれながらにあたえられた彼等の存在そのものに息づく魅力が表現された演奏とでもいえるだろうか……。
また、あのときにとりあげられた作品は彼等の音楽性を直截的に表現するには打ってつけの作品でもあった。
しかし、今回とりあげられたブラームスのVn協奏曲は一筋縄ではいかない作品である。
演奏者が自己の精神を極度に高めて臨まないと作品の高い品格に届かない――そんな作品である。
実際、関さんは、作品を自己にひきよせて演奏したが、結局、作品とのあいだに齟齬を起こしてしまい、あきらかな失敗に終わってしまった。
逆に、荒井さんは、この作品の高みを仰ぎ見て、そこに自己の表現を高めていこうとする内熱する意志と情熱を漲らせて、この作品の魅力を十全にひきだすことに成功した。
また、荒井さんは、東京音楽コンクールの時とは比較にならないほどに深化を遂げていて、表現の幅を格段にひろげていた。
もともとこの演奏家には、会場の空気を一瞬にして清澄なものに変えてしまうような高音域の清冽な美音がそなわっているが、今回の演奏会では、それにくわえて、この作品に必須となる渋みのある中音域の表現力が深まり、結果として、総合的な表現力が劇的に高まっていた。
ここぞというときに繰り出される高音域の美音は、それまでの中音域の充実した音楽があるからこそ、唖然とするような喜びをあたえてくれるのである。
また、第1楽章のカデンツァ等を聴いていると、この演奏家の中に単に清潔な美しさを志向するだけではなく、逸脱を厭わずに音楽の本質を表現しようとする熾烈な意志が息づいていることが痛感された。
舞台姿も実に堂々としており、舞台人としての風格を漂わせている。
昨日の演奏を聴いている限りでは、まだまだいろいろと思考錯誤の中にあるという印象も抱かされたが、そうした精進が進み熟してくると、いっそう優れた演奏家に変貌することだろう。
いずれにしても、荒井さんが、自己の「才能」の豊かさに溺れることなく、強靭な意志をもって探求にとりくんでいける演奏者であることが確認でき、これから必ず大成していくだろうという安心感と信頼感を得られたことは、昨日の演奏会の大きな収穫であった。
逆に、関さんに関しては、自己の「音楽性」に拘泥してしまっているのだろう、作品との相性が悪いと、昨日のようにどこか齟齬を覚えさせる演奏をしてしまうところがあるようで、先行きが少々心配である。
あのシベリウスの名演で魅せた「ラプソディック」な音楽性は、全ての作品に適用できるものではないはずである(少なくとも、ブラームスはそれだけではどうにもならない)。
稀有の個性をそなえている演奏家なので、あらためて古典を演奏するということの意味を熟考するべきなのではないだろうか……素人ながら、そんな心配を覚えてしまった。

福田 麻子さん(バルトーク)と佐々木 つくしさん(チャイコフスキー)も優れた演奏をくりひろげたが(技巧的には完璧といえる)、結局、この段階ではまだ表現が一本調子のところがあり、30分をこえる大曲において聴衆を魅了するまでには至らなかった。
たとえば、バルトークは、作品の構成が独特であり、優れたプロが演奏しても散漫な印象をあたえてしまう難曲である。
福田さんは抜群の技巧と美音をそなえているので、しばらくのあいだはその魅力で聴衆を感心させるのだが、この大曲はそれだけではのりきれない。
確かに、高関 健の指揮する東京シティ・フィルハーモ二―の伴奏が驚異的に充実しているので、それを聴いているだけでじゅうぶんに愉しいのだが、聴衆としては、それに拮抗するくらいの充実をソリストに求めたくなってしまう。
また、チャイコフスキーを演奏した佐々木さんは、技術的には完全無比な演奏をくりひろげたが――また、聴衆はそれに大きな喝采を送ったが――少々厳しい言い方をすれば、それだけの演奏で終わってしまったように思う(個人的には、こういう類の「完璧な演奏」を聴いていると、寂しくなる)。
高校3年生にしてこれだけの技術を獲得していることは驚異的ではあるが、そろそろ異なる方向に探求のベクトルを向けていくべきなのではないだろうか……と思う。
技巧的な優秀さが辿りつくところは、窮極的には曲芸的な刺激でしかない。
そのようなものに才能を捧げるのは何とももったいないことで、そんなものは早いところで卒業してしまえばいい。

ところで、高関 健指揮の東京シティ・フィルの伴奏が驚異的なまでに充実していたことを記しておかなければならない。
いわゆる「コンクール」向けの無難なものではなく、芸術表現として深く突きつめようとする指揮者とオケの意志と気迫がこちらにも明確に伝わってきた。
実際、第1演奏者のブラームス作品の導入部の心の籠った「溜め」を聴いたときには思わず涙ぐんでしまうほどだった。
これほどまでに真摯な想いに支えられて演奏できたソリストの方々は何と幸せなことだろう!!
いつものことながら、次世代の演奏者にたいする在京のオーケストラの方々の溢れるような愛情にはただただ感謝の気持ちしかない。

音の公案:新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いて

墨田トリフォニーの新日本フィルハーモニーの演奏会を聴いた。
はじめのシベリウスのVn協奏曲があまりにも酷く愕然としたのだが、二曲目のリンドベルイの新作からオーケストラの調子が上がり、最後のシベリウスの交響曲第7番では圧倒的な名演奏をくりひろげた。
今日は少し早めに会場に到着して着席したのだが、開演のベルが鳴っても、1階席がガラガラであることに驚いた。
指揮者のハンヌ・リントゥはこのところ続々とCDが発売されて注目を集めている存在なので、それなりに知名度も高いと思うのだが、これほどまでに空いているとは!!
どれほど演奏が優れていても、ここまで閑散としていると、会場にどこか寂しさが漂うものだ。
いうまでもなく、生演奏というのは、会場の空気(熱気)に刺激されてその質を高めるところがあるので、こうした状況の中では演奏の冷めたものとなる。
その意味では、今日は実に残念な演奏会だった。

今日の演奏会では、まず第1曲のシベリウスのVn協奏曲の演奏の訴求力があまりにも低いことに愕然とした。
古今東西のVn協奏曲の中でも最高傑作のひとつであるこの作品が、思わず欠伸が出るほどに退屈な音楽に聞こえるのだ。
この作品を生で聴いて、これほどまでにつまらない思いをしたのは初めてのことだ。
何よりもソリストのヴァレリー・ソコロフの演奏には、音そのものの美しさも無ければ、聴衆に訴えてくる力も欠けている。
その演奏を評するのに「凡庸」という形容詞しか思い浮かばないのだ。
ところどころギドン・クレーメルの演奏を想起させるような癖のある響きが聞こえてくるが、それらが曲の魅力を全く伝えるものではないために、興醒めさせる。
くわえて、リントゥの指揮するオーケストラも異常なまでに体温が低く、ミスも散見され、くわえてソリストとの呼吸が合わない。
ところどころ指揮者の指示で伴奏に工夫がくわえられるが(たとえば第3楽章の冒頭のティンパニ)、それらがどうにも不自然であるために、単なる夾雑物にしか聞こえてこない。
ここ数年のあいだこのオーケストラを聴いてきて、これほどまでに調子の悪い演奏に出遭ったのは初めてのことである。
この名曲をこれほどまでにつまらない演奏をするソリストにも呆れたし、また、この優れたオーケストラの魅力をこれほどまでに毀した指揮者にたいして怒りを抱いたほどである。

しかし、二曲目のリンドベルイの新作から徐々にオーケストラの調子がもどり、曲の途中からは、作品の音響的な面白さもあり、オーケストラは元気をとりもどした。
数多くのCDが発売されていることもあり、リンドベルイは比較的にひろくしられた作曲家であるが、その作品をこうして集中して聴くのは初めてのことだ。
この新作は、もしかしたら映画音楽の分野で活躍しているJerry GoldsmithやJohn WilliamsやThomas Newman等の作曲家の演奏会用の作品として紹介されたら、思わずだまされてしまうくらいに耳に馴染みやすいものだ。
作曲者は青空に向けてファンタジーを飛翔させていき、そこにひろがる極色彩の世界を華麗な音響で描いていく。
特に途中以降の美しさは秀逸である。
ファンが多いのも納得できるというものである。ただし、曲の結尾は物足りない。何とも勿体無いと思う。

休憩をはさんで、後半はシベリウスの交響曲第7番である(後半はこれだけ)。
20分そこそこの短い作品だが、あらためてこの作曲家の才能に圧倒された。
シベリウスの交響曲では、第4番と第7番が最も晦渋・難解だといわれ、また、個人的にもそれほど積極的に聴きたいと思う作品ではないのだが、こうして優れた演奏で聴いてみると、これらの作品が普通の意味の「理解」を必要とする作品ではないことに思いしらされる。
少し極端な言い方をすると、それはもはや音楽でさえないのかもしれない。
これらの作品を集中して聴いているときのこちらの精神状態は、たとえば公案を意識しながら瞑想をしているときの状態に似ているといえるかもしれない。
正に音の公案である。
その意味では、これらの作品は、表面的には音楽という姿を装っているが、その本質は音楽を超えたものなのかもしれない……。
いずれにしても、今日の新日本フィルハーモニーの演奏は圧倒的な名演奏だと思った。
ここで発揮されている力こそが、リントゥという指揮者の真の実力なのだと思いたい(あるいは、作品により非常に斑のある指揮者なのか……)。

明日はさらに優れた演奏になるはずなので、是非会場に足を運んでいただければと思う。

備忘録:第18回東京国際音楽コンクール(指揮)第二次予選第1日目


東京オペラ・シティで第18回東京国際音楽コンクール(指揮)の第二次予選第1日目を聴いた。指揮部門のコンクールを聴くのは初めてだが、「本番」に向けて音楽を完成させていく「厨房」の中を覗き見る経験は非常に勉強になる。実際、指揮者の指示を受けて、オーケストラが曲をあらためて演奏をすると、曲の意味があらたに立ちあらわれてくる瞬間を目のあたりにするのは実に興奮するものである。
今日の課題曲は下記の3曲:

  • 武満 徹:弦楽のためのレクイエム
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲(抜粋)
  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(抜粋)

指揮者達はこれらの曲を合計45分の中で仕上げていくことになる。
今日の4人の指揮者はいずれも優秀で感心したが、とりわけアレクサンドル・フマラ(Alexander Humala)さんと沖澤 のどか(Nodoka Okisawa)さんの指揮振りは印象に残った。
先ず、沖澤さんだが、非常に意思疎通能力が高い。あいまいな言葉を用いずに、常に的確な言葉で職人集団としてのオーケストラに意図を伝えていく。あたえられた時間を踏まえて、その中でどこに焦点を絞り彫琢をするのか、また、どのように演奏者に指示をすれば、演奏者の納得感につながるのかということを俯瞰的にとらえているのである。端的に言えば、「実務者」としての能力が卓越しているのである。今日の演奏者の表情を眺めていても感じられたが、こういう練習をしてくれると、演奏者も気持ちいいことだろう。
いっぽう、フマラさんは芸術家としての独自の感性で勝負するタイプである。その指示はしばしば文学的なもので、また、それほど英語が得意でないためか、何をいわんとしているのか理解しにくいところがたくさんあったが、しかし、その少々混沌とした意思疎通から生みだされてくる音楽は実に感動的なものだった。とりわけ、武満の作品の練習中にあまりの美しさに思わず涙ぐんでしまったほどである。また、その指揮振りは、ほとんどバレエの動作を想起させるもので、記号としての音符と離れて、音楽の意味そのものを伝えようとしているように思われた。
これはあくまでも推測だが、斎藤 秀雄の指揮法の影響下にある日本の音楽教育では、こういう指揮法を「禁止」しているのではないかと思うのだが、こうした見事なものに触れると、きっちりとした日本人の指揮振りが事務的なものにみえてくるのも事実である。

「オーケストラは指揮者がいなくても演奏はできるものだ」としばしば言われるが、今日そのことをあらためて実感させられた(これだけ優秀なオーケストラだと、それはなおさらである)。
舞台上の指揮者を観察しながら、「ひとつの自律的な運動体として存在しているオーケストラにいかに寄り添えるのか」が先ず指揮者に問われているのだということをあらためて思い知らされた。オーケストラはひとつのシステムとして自己の内的なダイナミクスにもとづいて行動をしているので、それを「外」から変えようとしても、それはうまくいくわけはない。少なくともそのために、先ずはその「内」にはいり同化をする必要があるのだ(いわゆるautopoiesis的な視点が必要になるということだ)。そして、その練達度というのは、指揮者の「存在感」や「身体性」といわれるものに少なからずあらわれるのではないかと思うのである。次々と登壇してくる4人の指揮者のアプローチを観察していると、このあたりの差異が見えるものである。

そして、もうひとつ考えさせられたのは、「指揮者はオーケストラの成長にいかに寄与できるのか?」ということについてである。
あたえられた短い時間の中で課題曲を仕上げていくという状況は、こうしたコンクールだけでなく、定期演奏会でもそれほど変わらないだろう。そうした状況が慢性化している条件下では、本番に向けて演奏を無難にまとめあげることに意識が収斂してしまうものだが、しかし、その共同作業をとおして、真にオーケストラそのものの成長や成熟につながるものを残していけるのかという課題が常に指揮者に課されているのだろうと思う。それは単に実務者として有能なだけの指揮者にはできないものだろう。
たとえば、沖澤さんの指揮振りを観ると、圧倒的に優秀ではあるが、それだけでは真に大成できないのではないか……と思ってしまうのだ。
逆にフマラさんは不器用なところを多く残しているが、このひとにしか表現できない音楽性をそなえている。
確かに、プロの演奏者達は効率的な練習をありがたいとは思うだろうが、窮極的には、その音楽性に触れたことで自己の音楽性を進化させてくれるような刺激を求めているはずである。そうなるとただ実務者として優れているだけでは、勝負ができなくなるのではないだろうか……と思うのである。
実務者としての能力はある程度は訓練で高めることはできるだろうが、しかし、果たして独自の音楽性というのはそうそう簡単に高められるものではないはずである。
若い世代の指揮者は、そうしたものを深めることに力を注ぐべきなのではないか……。
今日の「演奏会」を聴きながら、そんな不安を漠然と感じた。

ところで、今日のオーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団だが、英語を介しての意思疎通となる場合もあり(東欧の指揮者にとっても英語は外国語である)、必ずしも共同作業は簡単ではなかつたはずだが、指揮者の意図を懸命に汲みとろうとするその姿勢は実に素晴らしく、また、反応も俊敏なものだった。
この団体は近年実に演奏活動を展開していると噂に聞いていたが、実際、それほど容量の大きくない東京オペラ・シティには収まりきらないほどに豪華な音を響かせていた(16-17で聴いたのだが、この席で聴く限りでは、ロマン派以降の大編成の作品は、会場に音が飽和してしまい、そうとう聴きにくくなるという印象である)。