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朗報 - カート・W・フィッシャー 『成人の知的発達のダイナミクス : 発達ウェブからのアプローチ』 丹精社
日本は翻訳大国と言われるが、しかし、少し専門的な書籍や資料となると、ほとんど翻訳されていない。
実際、周囲にいる専門的な研究者の方々と会話をすると、日常の情報収集活動は、基本的には英語論文を読むことであるという(実際には、論文として発表されたとき情報というのは、実は既に古いものであり、むしろ、個人的な関係性をとおして論文化されていない生情報をタイムリーに収集・勉強しておくことが勝負の分かれ目になるという)。
『日本語が亡びるとき』の中で水村 美苗が指摘しているように、こうした状況は、今後、ますます加速していくことは間違いない。
既存の知の地平や枠組を超克する真に斬新な研究の圧倒的な大多数は、英語で書かれ、英語で読まれることになるのである。
真に先端的な知的探求は英語空間の中で完結することになるのである。
 
こうした状況は発達心理学の領域にもそのままあてはまる。
先日、Harvard Graduate School of EducationのRobert KeganのIn Over Our Headsが翻訳出版されて(邦題は『なぜ人と組織は変われないのか』)、少し渇を癒されたところであるが、実際には、発達心理学(Constructive Developmentalism)の領域においては、次世代の研究者により、膨大な量の優れた論文が生み出されている。
そして、それらは日本には全く翻訳・紹介されていないのである。
こうした状況下においては、これらの論文に直接的にアクセスすることができなければ、残念ながら、今日 現在進行形で進展している発達心理学の成果を全く採りいれることができないのである。
これらの研究が、ひろく流布している人間の発達に関する諸々の硬直的な見方を根本的に超越するものであることを鑑みると、これは非常に残念なことである。
また、発達理論がインテグラル理論の中核に位置するものであることを考慮すると、こうした情報の圧倒的な欠如は、インテグラル理論の批判的な考察と建設的な再構築を難しくすることにもなろう。
 
ただ、今日はひとつすばらしい情報があるので、御提供したいと思う。
先日、WEB上で調査をしていたときに、偶然 Harvard Universityの発達心理学者・Kurt Fischerの論文が日本語に翻訳され、出版されていることを発見した。
中川 恵里子(訳)
『成人の知的発達のダイナミクス : 発達ウェブからのアプローチ』
明文書房・丹精社
2008年10月
ISBN: 9784839110185
1,800円 + 税

 
文京区の本郷にある丹精社という出版社から出版されているのだが、どういうわけかAmazon.co.jpでは定価で購入できないために、早速 帰宅時に本郷の出版社に立ち寄り購入した(尚、出版社の説明によると、この書籍は普通に近所の書店で注文をすると購入できるとのこと)。
Kurt Fischerの仕事は、間違いなく、これまでの発達心理学の成果を継承・超克するもので、今後の発達理論のパラダイムを規定するものである。
これまでにFischerが執筆した論文は膨大な数に昇るが、そのひとつがこのように日本語で読めることは実にありがたいことである。
一読を御薦めしたい。
 
付記
 
本論文は、Handbook of Developmental Psychologyに寄稿されたもので、Kurt Fischerの提唱するDynamic Skill Theoryの概要を簡潔にまとめた導入的な内容のものである。
ただ、残念ながら、ある程度の基礎知識なしには、非常に難解な箇所が散在しているのも事実である。
もともとFischerの文章は、非常に学術的なスタイルで書かれており、一般の読者に向けて平易な言葉で語りかけようとするものではない。
また、翻訳者の方でも、そうした難解な文章を噛み砕いて読者のもとに解りやすく届けようという特別な工夫をしているわけではないので、何度読んでも著者が云わんとしていることが掴めないという箇所がある。
そういう箇所に関しては、基本的には、WEB上に公開されているFischerの論文にあたっていただきたい。
ケン・ウィルバー批判の動向について
 
ケン・ウィルバーの伝記・Ken Wilber: Thought as Passionの著者であるFrank Visserが非常に興味深い文章を発表した。
1998年のIntegral Institute設立後のケン・ウィルバー 及び インテグラル・コミュニティの活動を総括的に検証・評価する批判的な内容の文章であるが、上記の著書の追加章ということである。
過去15年程のあいだのインテグラル・コミュニティの「成果」と「失敗」をなかなか的確にまとめていると思う。
インテグラル思想・理論に興味をもつている方は御一読いただきたいと思う。
 
 
ところで、Frank Visserが主催するウエブ・サイト・Integral Worldには、ケン・ウィルバーのインテグラル思想・理論に関する批評が数多く掲載されている。
先日、Joe Corbettの批評(Jeff Salzman, Ken Wilber, and the Missing Link in Integral Theory and Practice)にたいして、ウィルバーの盟友としてThe Daily Evolverというウエブ・サイトを運営するJeff Salzmanが反論を発表した。
個人的には、実はCorbettの主張とSalzmanの主張の両方にそれなりに首肯できるところがあると考えている。
ただし、少なくともCorbettの批判には、インテグラル・コミュニティが真摯に傾聴すべき非常に重要な指摘が含まれているのは、紛れもないところである。
問題は、そうした批判にたいして、Salzmanが――実はこれはIntegral Instituteの関係者に典型的な行動パターンともいえるのだが――概念的(抽象的)な議論に逃げ込んで、巧妙に本質的な議論を回避していることである。
本質的には、Corbettが提起しているのは――これは上記のVisserの文章においても指摘されているのだが――2001年以降、世界が動乱の時代に突入するなかで、インテグラル・コミュニティは、全ての出来事を進化の中の過程として糊塗するのではなく、社会悪に対峙すべきではないのかということである。
そうした批判にたいして、Salzmanがしているのは、結局のところ、インテグラル思想・理論は、そうした社会問題に言及するための概念的な道具をそなえていると主張しているに過ぎない。
実際には全く反論として成立していないのであるが、Salzmanは、こう主張することで、インテグラル・コミュニティが時代的な責任を果たしていることを証明できると思い込んでいるのである。
また、もうひとつの問題は――これもIntegral Instituteの関係者に典型的な行動パターンなのだが――自己の特殊な感性や発想を統合的(“second-tier”)な認知構造を体現するものとして位置づけ、それと異なる感性や発想を低次のそれとして乱暴に看做してしまうことである。
Salzmanの表現は表面的にはエレガントなものであるが、少し慎重に吟味すると、こうした悪質な体質を内包している。
個人的には、こうしたものがインテグラル・コミュニティの中で容認されていることに非常に危機感を覚えるのである。
 
書籍紹介 『日本をダメにしたB層の研究』 適菜 収著
書籍紹介
『日本をダメにしたB層の研究』
適菜 収
講談社

 
鈴木 規夫

インテグラル・ジャパン代表

過激な表現で読者を挑発してやろうという著者の意図があからさまであるためだろう、ひどく攻撃的な言葉遣いで書かれているために、読むのを止めてしまう読者も出てくることだろう。ただ、ここで主張されていることは非常に重要性であり、そのことを考慮すると、単なる表現上のスタイルのために無視をしてしまうのは、あまりにも勿体無いことである。
この作品で分析されているのは、質的な高さや深さを否定しようとする現代社会にひろく蔓延する病理の構造である。即ち、「成熟」や「専門性」や「円熟」等のことばによって象徴される人格的な素養の重要性を軽視しようとする心性である。それは、たとえば思想家のケン・ウィルバー(Ken Wilber)が“Boomeritis”という概念を呈示して鋭く考察した問題と本質的に同質のものである(ただし、部分的には重ならないところもある)。ただ、ウィルバーと異なり、適菜 収氏は日本の具体的な実例を豊富に紹介しながら解説をしてくれているので、読者には格段に理解しやすくなっている。
ここでは、その内容を掻い摘んで御紹介しよう。
 
現代社会を支配する価値観のひとつは、すべての人が平等に尊重されるべきであるという平等主義である。そして、それは、往々にして、あらゆる重要な社会的問題に関して、すべての人の発言が同等に尊重されるべきであるという発想につながることになる。
ただ、あらためて考えるまでもなく、現代社会が直面する重要な問題の多くは複雑なものであり、その構造や性質や文脈を正確に理解して、それに効果的に対処するための解決策を創出するには、成熟した思考力や専門性が必要とされる。
たしかに、今日においては、インターネットをとおしてあらゆる話題に関する情報を簡単に得ることはできる。しかし、膨大な量の情報を収集して、それらの中から己の嗜好に合うものを拾いあげて、それらを少し加工して意見として表明することが、自律的に思考できていることを意味するのかといえば、必ずしもそうではないのである。
しかし、今日においては、一般の生活者の感覚や感性こそが真の叡智を体現するものとして安易に祭り上げられてしまう。そして、逆に、専門性に立脚した思考や発想が、閉塞した空間の中で形成された歪なものとして排除されてしまう。そういうものは、人間性や生活感覚を喪失した非人間的・非常識的なものとして目の敵にされてしまうのである。
つまり、長年の探求や鍛錬の結果として確立された能力ではなく、そうしたプロセスを経ていない自然な感性や発想こそが「人間的」なものであり、また、優れているという発想が幅を効かせるのが、今日の社会なのである。それは「しろうと」を賛美する社会と言えるだろう。
もちろん、安冨 歩氏が「東大話法」に関する一連の著作の中で洞察するように、今日の日本社会において、社会の命運を左右するような重大な意思決定にたずさわる治世者の人格が極度に未熟化して、その思考や倫理が利己的なものに劣化しているのは、紛れもない事実である。その意味では、「生活者」の感覚や感性を重視することを主張する今日の風潮にはそれなりの妥当性もある。
ただ、問題は、そうした風潮のもとでは、長年の鍛錬をとおして技術や能力を涵養することの重要性にたいする尊重の念が育まれなくなる可能性が高くなることである。長年の専門的な鍛錬をとおして獲得される能力や発想とは、本質的に実社会との結びつきを喪失したところに育まれる歪なものであり、それは共同体の共有財(Common Good)のためではなく、特定の利権集団の思惑を実現するために利己的に用いられることになる――という偏見が蔓延してしまい、知や技の伝統に参加して、自己陶冶することの重要性が蔑ろにされるのである。
そうした価値観が蔓延するとき、社会には、高度の職人性や専門性にたいする尊重の念が涵養されなくなり、必然的にそれは意識の集合的な退行をひきおこすことになる。そうした状況において重視されるのは、「普通」の「生活者」の感覚や感性や発想であり、また、極端な場合には、専門的な訓練や鍛錬をしないことが礼讃されることになる。ことばを替えれば、それは、未熟であることが、幼稚であることが、無知であることが、愚かであることが評価されるということである。
こうした状況下においては、リーダーを選出するときに参照される基準とは、この危機の時代において共同体の舵取りをするために必要な卓越した叡智や能力をそなえているかというものではなく、普通の生活者と同じ感覚や感性や視野をそなえているかというものになってしまう。「小難しい議論をする人物ではなく、普通の生活者にもすぐに納得できるような簡潔・平易な表現で政策や方針を説明してくれる人」が優れたリーダーとして誤解され、そして――非常に皮肉なことに――民主的な選挙をとおして選出されてしまうのである。
周知のように、ここしばらくのあいだ、日本においては、窮極的なまでに簡略化された「ワン・フレーズ」(例:『構造改革』『郵政民営化』『事業仕分』『平成の開国』)を柱にした選挙戦が展開されるが、正にそれは、そうした精神的に退行した選挙民の要請に応えるものといえるのである。
もちろん、大多数の人々は、己が、政党と広報会社が結託して垂れ流す情報により醸成された空気や気分に囚われ、自律的な思考や判断をできていないとは思っていない。彼等は、己の意見や判断が、実はメディアにあたえられた物語の中から自身の嗜好に合うものを取捨選択して、それらを加工したものに過ぎないことに気づいていないのである。
実際のところ、「思考」とは非常に高度な能力であり、真に自律的な思考ができるようになるためには、長年の鍛錬が必要となる。しかし、例外的な場合を除いて、われわれはそうした鍛錬をほとんどしてきていないために――工藤 順一氏(1999)が考察するように、日本の教育では基本的に自律的な思考をするための「型」が示されることはない(『国語のできる子どもを育てる』講談社)――「意見をもつ」ことが必ずしも自律的な思考していることではないことに気づけていないのである。
たとえば、SNS上で「感性」や「感覚」の合う仲間と情報を共有して、ある特定の物語や価値観にたいする「確信」や「信頼」を補強しあうことは、自律的に思考をすることではない。というのも、それは、特定の結論や立場を選択したうえで、それを補強(正当化)するための材料を収集しているに過ぎないからである。自律的に思考をするとは、そうした情報収集の前提である特定の結論や立場の妥当性そのものを批判的に検証することを意味するのだが、そういう作業は回避されることになる。
いうまでもなく、こうした社会においては、そのときどきに流行するアイデアは、広告代理店をはじめとする世論操作機関の意向にもとづいて、目まぐるしく変化することになる。しかし、人々は、本質的には、そうしたアイデアを受動的に消費することができるだけであり、結局のところは、あたえられた「選択肢」の中からそれらしいものを選ぶことしかできないのである(そもそも選択肢として存在しているものが、
果たして選択に価するものであるのかという問いを発することができない)。また、たとえこうした状況の構造的な問題を指摘する情報や分析があたえられたとしても、彼等はそれに耳を貸すことができない。というのも、彼等が重視するのは、全く努力をすることなしにインスタントに理解できる物語であり、そうした構図を脱して自律的に思考・判断することを鼓舞する言説ではないからである。
こうしたメンタリティに社会が支配されると、自称「生活者」が数の論理にもとづいて、そのときどきに社会に醸成される気分や雰囲気や空気にもとづいて、無軌道に社会を動かしていくことになる。それは、成熟した思考や洞察により保証される質の論理が排除され、量(数)の論理が社会を支配する状況である。
また、こうした状況においては、リーダーの役割は、そうした「生活者」にたいして判りやすいことばで「感動」させる扇動者としてのそれに変質することになる。人々が求めるのは、見識や叡智ではなく、勉強や研究をしなくても簡単に理解・共感できることばであり、それができない指導者は無能の烙印を押されることになるのである。端的に言えば、現代社会とは、「生活者」という大義のものとに、大多数の人が学習・鍛錬する責任を臆面もなく放棄して、治世者や指導者にたいして己の無知や幼稚にひたすらに従属するように要求する社会と化しているのである。
もちろん、実際の社会は、そのような単純な論理や物語にもとづいて動いているはずはなく、遅かれ早かれ、人々は、「公約」が単なるまやかしであることに気づかされ、為政者が約束を反故にしたと憤慨することになる。しかし、そのようなものは、そもそも世論を誘導するためにたくみにデザインされたものであり、そうしたものにコロリとだまされてしまうほどに、己の知性を鈍磨させたのは、ほかでもない自分自身である。正に堤 未果氏が言うように、『政府は必ず嘘をつく』ものである。そうしたことを知りながら、広告代理店が仕組む世論操作に簡単にだまされてしまうほどの愚かな存在に己を貶めたのは、だれでもない自分自身なのである。
 
ところで、「B層」ということばは、2005年に、小泉 純一郎内閣が推進した郵政民営化政策を実現するうえで、内閣府の依頼を受けて宣伝戦略の立案を担当した広告会社(有限会社 スリード)が、小泉政権の主な支持基盤として想定した層を指す概念である。「政策に関しては具体的なことは良く判らないが、小泉 純一郎のキャラクターを支持する層」――と定義されている。
もちろん、こうした人々が支持するのは、小泉 純一郎だけでなく、同じように「カリスマ」として仕立てあげられて公の表舞台に登場してくる全ての人々である。そして、適菜 収氏が指摘するように、こうした人々は、今日においては、国民の主要な構成層として、その巨大な規模を背景にして、社会の重要な意思決定に傍若無人に参与してくることになる。彼等は、自らの知的怠惰をとおして、自身を世論調査の餌食として差しだし、結果として、社会をその数の論理にもとづいた暴力的な意思決定プロセスに引き摺り込んでいくのである。
 
最後に、これまでに説明してきたことを、ケン・ウィルバーがBoomertitisに関する議論で述べていること(詳しくは、ウィルバーの『万物の理論』、及び、『Boomeritis』を参照していただきたい)との関連で整理しておきたい。
ウィルバーは、Boomeritisを「高度の認知構造にもとづいて既存の価値体系を脱構築することにより、人格形成の途上にある人々に対して発達プロセスを段階的に歩んでいくのを阻害しようとする態度や発想」と説明している。社会に存在する価値体系は、基本的には、それまでの歴史的過程を通じて構築されてもの(虚構)であり、それは絶対的なものではない。高度の認知構造をそなえた人々は、そのことを明確に認識することができるがゆえに、社会に存在する既存の価値観(例:慣習・道徳・美徳・倫理)が人間の内的・外的な行動を呪縛している状況を解決しようと、その虚構性を暴くことで人々を解放しようとするのである。
たとえば、真に信頼にたる価値は存在しないという主張を展開する価値相対主義は、ある特定の時代や社会で信頼される価値観や世界観に立脚して生きることが、究極的には自己を不自由にすることであるという示唆をあたえようとする。こうした洞察は、本来的には、人々を解放しようという「善意」にもとづいたものであるかもしれない。しかし、実際には、こうした発想が集合規模で共有されるとき、それは、歴史を通じて蓄積・継承・洗練されてきた価値体系や秩序体系にたいする不信を蔓延させることになり、われわれから人格陶冶の契機を奪うことになる。
たとえば、実践や鍛錬をとおして自己を成長させていこうとするとりくみは、「高み」や「深み」ということばで象徴される状態をめざして、現状を超克していこうとする徹底的に価値や秩序の感覚にねざしたものである。そうした感覚を涵養するためには、とりわけ人格形成期において、「型」と出逢うことが、そして、それをとおして訓練や修行をすることが必須となる。
価値相対主義の蔓延は、そうした型を下支えする価値体系や秩序体系を攻撃することをとおして、社会の集合知として存在する人格的な成長・成熟を可能とするための叡智を解体することになるのである。また、その結果として、人間性心理学者のエイブラハム・マズロー(Abraham Maslow)が警告したように、普通であることを、凡庸であることを人々が相互に強要しあう「凡庸であることの共同謀議」(the conspiracy of mediocrity)が社会を覆うことになる(また、今日の競争社会に蔓延する利己主義――「学歴主義」「出世主義」「拝金主義」――は、表面的には自己成長や能力開発に貪欲であるように見えるが、個人を己の利己的な動機に従属させるという意味において、本質的には、それは現代社会における凡庸の形態のひとつに過ぎないのである)。
ウィルバーの呈示するBoomeritisとは、そうした発想にたいして理論的な正当性をあたえる――ただし、それそのものは善意にもとづいた――知性の構造を解明するための概念である。適菜氏の著書において、B層と呼ばれているのは、こうした知性の蔓延が必然的にもたらすことになる結果なのである。そして、作品は、社会の歴史的・伝統的な叡智の恩恵を戴く機会を奪われた人々が集合規模で発生するときに、人々が世論操作に無防備になり、未熟で凶暴な群衆としてあまりにも容易にコントロールされてしまう危険性にたいする問題提起なのである。
皮肉なことに、Boomeritisに罹患した知識人は、他者の精神的な解放を祈って既存の価値体系(「因襲」「慣習」)を脱構築する。そして、そうした行為は、それらが果たしている重要な意義までを否定してしまうことになる。
しかし、彼等は、往々にして、その結果として大量に生みだされることになる荒廃を、それは個人が己の「ありのまま」の感覚や欲求に正直になったことの成果であり、むしろ、肯定的に評価すべきことであると思ってしまいさえする。そこでは、自己実現をするということが、人間存在の中に存在する多様な衝動や動機の中から高次の動機を見極めて、高度の規律にもとづいて、それを実現していく格闘のプロセスであることが無視され、ひたすらに利己的な衝動や欲求に正直であることを奨励されてしまうのである。
B層が社会の多数派を占める社会とは、そうした言説が「優しさ」の証として誤解されてしまう社会といえるだろう。そして、また、それは、そうした言説が「癒し」や「慰め」の糧・として商品化される社会である。残念ながら、それは、ウィルバーが指摘するように、霊性(spirituality)が、自己変容(それは自己否定をとおして実現される)のためではなく、自己肯定のための方途として道具化されてしまう社会でもある。
 
それでは、こうした今日の状況下において、果たして実践のコミュニティには何ができるのだろうか?
ケン・ウィルバーが呈示するインテグラル思想の枠組は、こうした状況を打開するための有効な処方箋といえるが、その要となるのは、垂直性(verticality)という価値の確立であることは間違いないだろう。即ち、それは、人間というものが、成長・成熟しえる存在であることを認識することであり、また、それが各発達段階に相応しい実践法(型)をとおして実現されることを認識することである。あるいは、ことばを替えれば、人間というものが、成長・成熟すべき存在であることを認識することであろう。
巷では人間のありのままを尊重することを至上の価値とするイデオロギーが信奉されているが、これだけ世論操作の技術が進歩している状況下においては、型の提供をとおして確実に人間の精神的・人格的な成長と成熟を促進することができなければ、そうしたイデオロギーの信奉者は簡単に外的操作の餌食となってしまう。また、こうしたイデオロギーは、往々にして、人間存在が成長と成熟を志向する内発的な力を内包していることを無視して、単に現状肯定を推奨するイデオロギーとして機能してしまうことになる。その意味では、それは、人間存在に関してあまりにも洞察を欠いたものであり、現代社会の悪意にたいして、ひとびとを無防備にするものであるといえるだろう。
今日、緊急に必要とされているのは、世界を読むことができるためには――そして、自己の存在で世界を書くことができるためには――知性を徹底的に鍛錬することが重要となるという認識である。また、知性とは、構造的に身体的な叡智と霊的な叡智を包含したものでしかありえず、結局のところ、それは人間の統合的な成長と成熟の実現にとりくむことをとおしてしか鍛錬されえないのである(たとえば、ルドルフ・スタイナーが看破したように、人間の言語活動そのものが肉体的・感覚的・躍動的な要素を基盤として内包している)。
その意味では、今、緊急に必要とされているのは、窮極的には、倒錯した今日の教育をいかに超克していくかということに懸かってくるのだろう。ただ、そうした遠大な企てにとりくむまでもなく、垂直性を視野に収めた教育的なとりくみは、あらゆるところではじめることができる作業である。そのためには――たとえば、「意見をもつこと」と「思考をすること」が異なるように――知性を発揮するということが訓練を必要とすることをひとりでも多くの人が認識することだろう。
 
論文紹介 - 「臨機応変の意思決定手法」
論文紹介
鈴木 規夫
 
デイビッド・スノウドン & メアリー・E・ブーン
「臨機応変の意思決定手法」
DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー
2008年3月号所収
http://www.dhbr.net/articles/-/495にて購入可能
 
David J. Snowden & Mary E. Boone
A Leaders Framework for Decision Making.
Harvard Business Review, November 2007.
 
人間の心理的・霊性的な成長とは、常にその存在をとりまく生存環境(life conditions)との関係の中で生まれるものである。そして、関係性の中で個人の成長をとらえようとするこの視点は、過去数世紀にわたる人類の心理学的な探求を貫いてきた重要な要素でもある。
われわれは、誕生の瞬間から最期の瞬間まで、みずからの存在を物理的・生理的・心理的・精神的にとりまく環境と絶え間ない交流と交感をつづけ、その相互関係の中で自己を確立し、探求し、鍛錬し、治癒し、超克していくことになる。それゆえ、われわれには、一生をとおして、生存環境にたいして自己の存在を開きつづけることが求められることになる。つまり、刻々と変化する生存環境がもたらす刺激を咀嚼しながら、それを糧にして、自己の「旅」を創造的に展開させていくことが求められるのである。
とりわけ、インテグラル・ライフ・プラクティス(ILP)をはじめとする統合的な実践活動をとおして、自己の存在と変容にたいして主体的な責任をとろうとするとき、内面的な希求や欲求に耳を澄ますだけでなく、世界や時代を洞察し、それが衝きつけてくる課題や要求や恩寵と対話をすることが必須となる。ビクトル・フランクルが言うように、自己実現とは、結局のところ、世界の要求にたいして自己を開くことのなかで可能となるものなのである。換言すれば、自己変容のプロセスとは、内的世界と外的世界を自己の内に抱擁できるようになるときに、はじめて端緒に着くことができるものなのである。
今回、御紹介するのは、二人のコンサルタントによる「臨機応変の意思決定手法」というHBR掲載の論文である。この論文の中で、著者のスノウドンとブーンは、「単純」(simple)・「込み入った」(complicated)・「複雑」(complex)・「カオス」(chaos)という、現代社会に重層的に存在する4つの生存環境を示しながら、それらが異なる意識と能力と行動を要求するものであることを解説する。即ち、現代社会において、その多面性と力動性(ダイナミズム)と複雑性を考慮しながら、的確な思考と行動ができるためには、少なくともそれらの生存環境に柔軟に適応するための総合的な能力が必要となるというのである。
それぞれの生存環境は特定の価値観や世界観を擁護し、また、特定の思考形態や能力体系や行動形態の開発を鼓舞する。そして、今日においては、それらは限定的な妥当性を有しながら――また、しばしば相互の軋轢をひきおこしながら――重層的に存在している。今日、われわれに求められているのは、この世界が現出させる表情としてのそれら質的に異なる生存環境を認識して、それぞれの文脈において要求される諸能力を涵養することなのである。
それでは、ここで簡単にそれら4つの生存環境を概観してみよう。
 
「単純」(simple)
これは、日常生活が恒常的に安定している状況のことである。そこで生じる課題や問題とは、基本的には、既存の方法や枠組をそのまま適応することで解決される。課題や問題が発生したときに求められるのは、あくまでもそれを正しく分類することであり、それができさえすれば、解決の方法はおのずと明らかになる。また、ほとんどの場合、そこで採用されるべき解決策は、それほどの議論をしなくても、関係者が同意できるものである。たとえば、ある業務を遂行するために必要となる資源が不足していることが判明したときには、組織内の公式・非公式なルートを通じてそれを確保するための施策を練ればいいのである(また、追加資源の確保が難しい場合には、業務の規模を縮小したり、業務の完了日を延期したりすればいい)。
単純な生存環境において、われわれに要求される能力とは、課題や問題の性質を的確に見極めて、それに対処するために最善の方法を社会や組織に蓄積されている集合的財産の中から正しく選択する能力である。そのために必要とされるのは、みずからにあたえられた職務や役割を果たしていくために求められる知識や技術や経験の習得に励むことであり、また、それを滞りなく活用できるように、人間関係の充実や信頼性の確保等の「下地」の準備に普段からとりくむことである。
*こうした生存環境は、インテグラル思想の発達論にもとづいていえば、神話的合理性段階〜前期合理性段階の行動論理が求められる文脈である。
 
「込み入った」(complicated)
これは、現象の本質を見極めるために、緻密な分析や検証が必要となる状況のことである。単純な生存環境の課題や問題が自明のものであるのと異なり、込み入った生存環境のそれは、調査・実験・解析をしたときにはじめてその本質を明らかにするものである。
こうした種類の問題が発生した場合、関係者は、そこに問題が存在していることは認識するのだが、果たしてそれがどのような問題であるのかを確信をもって把握することができない。その原因は要因Aによるものかもしれないし、要因Bによるものかもしれないし、あるいは、要因Cによるものかもしれない。また、もしかしたらそれは関係者がまったく予想もしていない別要因によりひきおこされているものかもしれない。
たとえば、われわれは体調不良が続くときに病院で専門医の診察を受けるが、問題の原因が明らかでないときには、複数の可能性を考慮したうえで、いくつかの検査を受けることになる。こうした検査の結果を踏まえて、医師は問題の原因を特定して、対処法を呈示してくれるのである。
また、この生存環境においては、たとえ課題や問題の原因が特定されたとしても、その対処法は必ずしも自明ではない。往々にして、それぞれに長所と短所をもつ複数の選択肢が存在しており、また、ある具体的なケースにおいて、果たしてどれが最適なものであるのかということは――あるいは、それらをどのように組み合わせればいいのかということは――明らかではない。われわれはしばしば完全な確信を得られないままに問題解決作業をはじめねばならないのである。
込み入った生存環境において、われわれに要求される能力とは、安易に結論を出すのを戒めて、慎重に現象を観察・調査・分析しようとする開かれた態度を維持する能力である。また、それは、実際にそうした観察・調査・分析を実施するうえで用いられる専門的な知識や方法に下支えされている必要もある。
その意味では、この生存環境においては、われわれには、ひとつの探求領域の知見に立脚して、具体的な課題や問題にたいする有益な知識や洞察を呈示するための能力が求められるということができるだろう。また、そうした能力をそなえた人々の価値を認識して、それらの英知を課題や問題の解決のために結集していける統率力と融合力が要求されることになる。
*こうした生存環境は、インテグラル思想の発達論にもとづいていえば、後期合理性段階の行動論理が求められる文脈である。
 
「複雑」(complex)
これは、多様な要素や条件が相互に密接に絡み合うことで成立している生存環境である。同時並行的に展開している複数の施策が、相互に影響をあたえあいながら、全体として非常に力動的(ダイナミック)な空間を形成している。また、いうまでもなく、その空間はひとつの共同体を形成しつつも、同時に他の共同体や生態系と交流をしながら、そこからも影響を受けている。
こうした生存環境の中で発生する問題は、往々にして、定義することそのものが困難を極めるものとなる。たとえそこに問題があることが察知できたとしても、そもそもそれを解決するとはどのようなことなのかを想像することそのものが難しい。また、そうした問題を生みだしている要因をいくつか特定できたとしても、果たしてそれで重要な要因のすべてを把握したことになるのか、また、それらの要因がどのように相互に影響しあっているのかということを見極めることはできない。
スノウドンとブーンは、複雑な生存環境を熱帯雨林に喩えて、次のように説明をする。
「フェラーリは複雑な機械だが、ベテランの整備士ならば、一度外した部品を寸分違わず、元の位置に戻すことができる。車は静的なものであり、全体は部分の総和にすぎない。
しかし熱帯雨林は、絶え間なく変化する。気象パターンが変わり、ある種の生物が絶滅することもあれば、農業計画によって取水ルートが変わることもある。そして全体は部分の総和をはるかに超えるものである。これは『何がわからないのかもわからない』状態であり……」
熱帯雨林がそうであるように、複雑な生存環境は正に生きている空間である。たとえそれを構成要素に分解して、そのひとつひとつを精緻に理解したとしても、それはこの生存環境を理解したことにはならない。
複雑な生存環境において、われわれに要求される能力とは、全体を俯瞰する能力である。生存環境そのものが「生命体」として自然に展開していくのを観察しながら、そこに息づくパターンを洞察することが、こうした生存環境においては必須の能力となる。
生存環境は、こちらの存在そのものを包含して成立しているのであり、必然的に、こちらの行動そのものが、そこに参画している多様な関係者の反応をひきおこし、それらがまた新たな慣性や機会を創出していくことになる。
こうした文脈の中で効果的に周囲に働きかけていくためには、長期的な観察と実験の過程の中で生存環境そのものを規定している法則を洞察することであり、そして、それと戦略的にダンスをすることが求められる。複雑な生存環境の中で必要とされる能力とは、こうした絶え間ない変化の中で洞察と探求と適応をしつづけることのできる能力なのである。
*こうした生存環境は、インテグラル思想の発達論にもとづいていえば、前期〜中期Vision Logic段階の行動論理が求められる文脈である。
 
「カオス」(chaos)
これは、あらゆるものが秩序を失い、ただ混乱・混沌のみが存在する生存環境のことである。そこにはもはや解明・発見されるべき法則や解答は存在しない。そこでは、われわれは次々と襲い掛る試練や挑戦に対処しつづけることを求められる。
こうした生存状況は、たとえば、未曾有の大災害に見舞われて、それまでに想定していた対応策が悉く無効なものとなるときのことを想像すれば、その本質を朧気に理解することができるだろう。そこで求められるのは、今、目のまえに展開する空間をひるむことなく目撃しつづけることであり、そして、瞬発力と集中力を発揮して、刻々と変化する状況に対応しつづけることである。
先述した3つの生存環境が、秩序に支えられたものであるとすれば、この生存環境は無秩序に支配されたものだといえる。「単純」・「込み入った」・「複雑」という3つの生存環境に適応するために必要とされるのは、そこに息づく秩序や法則を洞察することである。たとえそれがどれほど流動的なものであろうとも、われわれが不確実性にたいする耐性を鍛錬して、それと根気強く対峙・対話すれば、われわれはいずれはそれらの生存環境に適応するための術(すべ)を見出すことができるのである。
しかし、「カオス的な状況では、適切な解を探しても無意味である。因果関係は絶え間なく変化するため、これをはっきりさせることは不可能であり、また制御可能なパターンは存在しない。あるのはカオスだけである。つまり、これは『わかりえない領域』」なのである。
こうした生存環境の中で必要とされる能力とは、世界をありのままに目撃する能力である。
こうした状況の中では、しばしば、日常生活を規定する善悪の問題が無意味化し、われわれはそうした道徳的・倫理的な価値観を超越した世界のありのままと直面することを強いられることになる。それは、われわれが秩序性にもとづいた生存環境の中で構築してきた心理的な枠組や基盤を無意味化して、われわれの存在を根源的に揺さぶることになる。
その意味では、これは、われわれを無防備にして、ありのままの世界に露呈する生存環境であるといえる。正にそれゆえに、われわれには実存的な強靭性が要求されるのである。
また、この生存環境は、刻々と変化・変動する状況に対処しつづけるために、生物としてそなえているべき根源的な生命力を鍛錬・発揮することを要求する過酷な空間でもある。このために、たとえばILPが呈示するような人間存在を網羅的に鍛錬する統合的な実践活動が必須となる。
*こうした生存環境は、インテグラル思想の発達論にもとづいていえば、後期Vision Logic段階以降の行動論理が求められる文脈である。
 
 
冒頭に示したように、人間の能力とは、常にみずからの生きる文脈の中で開発されることになる。意識するしないにかかわらず、われわれは、常に生存環境の刺激や要求に曝されながら、その呪縛と恩恵のもとに自己を進化・深化させていくことになるのである。その意味では、同時代といかなる対話をするかは、われわれがみずからの成長と治癒と変容の旅を舵取りしていく際に――とりわけ、「存在欲求」(“Being need”)が顕在化する高次の発達段階において――そこで確立される構想と思想の拡りと深さに大きな影響をあたえることになる。
今回、紹介した論文の指摘するように、現代は、多様な生存環境が同時に重層的に存在している時代である。世界は刻々とその表情を変えながら、われわれにそれぞれに状況に相応しい異なる意識と能力を発揮するように求めてくる。そうした要求に応えるために、われわれはみずからの中に質的に異なる行動論理を涵養して、そのすべてを鍛錬しつづけなければならない。ひとつの生存環境を前提に自己の探求と鍛錬をするのではなく、全く異なる生存環境が突然に現出しえる流動的な時代に生きていることを前提とした実践観が必要とされるのである。思想家ケン・ウィルバーが言うように、時代の変化の中で成熟のありかたも、また、変化することを求められるのである。
「臨機応変の意思決定手法」という論文は、こうしたことについて考えてみるうえでも、いくつかの貴重なヒントをもたらしてくれるだろう。参考にしていただきたい。

 
進化するコーチング

Integral Coaching Canadaの創設者とケン・ウィルバー(Ken Wilber)の2時間程の対話を聴くことができる。
インテグラル・コーチングには、コーチングを成功させるうえで、コーチが考慮すべき主要な要素が網羅されており、その概要が簡潔に説明されているので、関係者には耳にしてほしいと思う。
 
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日々、人材育成の現場にいると、コーチングというもののありかたが確実に変化しはじめていることを実感する。
コーチには、「傾聴」(active listening)を柱とした対話と探求の専門家であるだけでなく、クライアントが置かれている具体的な領域(機能領域・職業領域)の体験や知識が求められるようになっているのである。
これまでに確立されたコーチングの方法論を踏襲するだけではなく、クライアントの領域(業界)にたいする深い洞察が要求されるようになっているのである。
コーチには、コーチであるだけでなく、コンサルタントであることも、ティーチャーであることも、また、共同作業者であることも求められはじめている。
その意味では、コーチという方法論の専門家を育成することを主眼として展開していたこれまでのコーチング産業の人材育成観は限界に到達していると思われるのである。
今、必要とされているのは、これまでのコーチングを継承しつつも、それを包含するより包括的なパッケージなのである。
10年程前にコーチングというものが国内に紹介され、企業組織の中で人材育成・人材支援の方法として汎く認知される中で、クライアント組織の目も随分と肥えている。
実際、わたしも、現在、数多くのコーチと共同作業にとりくんでいるが、そうした共同関係を結んでいくうえで留意するのは、コーチのコーチとしての専門的な能力の高さだけでなく――それは前提条件である――それを包含するものとして、いかなる枠組と能力と体性を有しているかということである。
コーチと顔合わせをするときに留意するのは、いわゆる「コーチング」という方法論に収まりきらない異なる介入や支援の方法として、そのコーチがいかなるものを有しているのかということである。
数多くのクライアントは、コーチングやコンサルティングの経験者であり、そうした経験をとおして、それらのサービスの本質を既に体得している。
そうしたクライアントにたいして、在来型のサービスを呈示しても、そこでクライアントの中にあらたな視野が開けてくることはないだろう。
コーチングというものが、今、ひとつの方法として――また、ひとつの業界として――直面している壁を超克していくためには、サービス提供側だけでなく、それらのサービスを組織内で展開していくための構造設計の責任を負う人材育成担当者の見識が非常に重要となろう。
 
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少なくとも今回 紹介する動画を聴く限りでは、「インテグラル・コーチング」は、今のところ、あくまでも既存の枠組を前提として、それを内容的に充実することを意図するものであるように思われる。
ここで紹介されるものを基盤として、今後、海外でコーチングがどう展開していくかということは、非常に興味深いところである。
 
食糧問題と国際政治
The New Geopolitics of Food

From the Middle East to Madagascar, high prices are spawning land grabs and ousting dictators. Welcome to the 21st-century food wars.

BY LESTER R. BROWN | MAY/JUNE 2011

http://www.foreignpolicy.com/articles/2011/04/25/the_new_geopolitics_of_food

1年前の記事だが、非常に重要な内容を論じているので、紹介しておきたい。

その要旨は、今、地球規模の食糧危機が目の前に迫りつつあるというものである。

20世紀において、人類は食糧生産能力を爆発的に拡大したが、基本的には、それは地球の有限な資源を短期間に集中的に搾取することをとおして実現された。

例えば、世界各地において、水資源は地下水を利用することで確保されているわけだが、それを短期間の内に集中的に汲みあげれば――自然の補填速度を超える形態で消費すれば――いずれは資源は枯渇し、それに依存して成立していた生産体性も瓦解することになる。

実際、記事の中に紹介されているように、世界的に地下水の枯渇は危機的な局面を迎えているという。

著者が指摘するように、文明は、石油資源の枯渇のために崩壊することはないが、水資源の枯渇には堪えることはできない。

われわれが生きているのは、正にそうした窮極的な危機が顕在化している時代なのである。

こうした状況の中で、今、惑星規模で食糧争奪戦が勃発していることを記事は報告する。

とりわけ、他国の耕作地や水資源を買い占めるという行為が世界各地で本格的におこなわれているという報告は、今日において、「侵略」というものが、あたらしい形態を採りはじめていることを明確に呈示している。

実際、日本でも、中国資本による森林資源や水資源の獲得が本格化しているが、これは正にこうした武力の行使をともなわない侵略が非常に身近にはじまりつつあることを意味しているのである。

個人的には、こうした報告を読んでいると、背筋が凍るような恐怖を覚える。

現代において「恐怖」(horror)は、何も映画や小説に求めなくても、日常のただなかに息づいているのである。

いずれにしても、われわれは、みずからが文明として窮極的なところまで追い詰められていることにあまりに無自覚に生きている。

今、われわれが懸命にとりくんでいる殆どの活動は、こうした現実のまえには、瞬時に意味を失うことになるものばかりである。

結局のところ、それらは、現実を遮断することでつくりあげた虚構の中に存在するゲームでしかないのである。

先日、帰宅時に電車の中でこの報告を読んでいたのだが、周囲を見回して、今、ここに居合わせている人達のうち、果たして何人が人生を無事に全うできるのだろうか……と悲しくなってしまった。

記事には非常に衝撃的な情報が数多く掲載されている。

レスター・ブラウンの著書は数多く日本語にも翻訳されているので、ぜひそれらを参照していただきたいと思う。

田坂 広志という思想家について:インテグラル理論の視点から(第1稿)

田坂 広志という思想家について:インテグラル理論の視点から(第1稿)

鈴木 規夫

 

http://integraljapan.net/pdf/articles/An_integral_analysis_of_early_Vision_Logic_mind(2012).pdf